宗教とイメージ:教団への帰属、「真の宗教」

2007-07-09 01:28:53 | 宗教分析
宗教が選択を放棄するがゆえに自由を奨励する時代では忌避されるという前回の記事に対し、宗教は葛藤や数々の疑問・苦悩との戦いを内包するものであり、そのような見方は一面的であるとの批判があるかもしれない。なるほど確かに宗教は100%信じることを意味しない。例えば聖典が存在しない宗教もあるし、戒律をどのくらい守ったりするかは千差万別である(そもそも戒律を全て守っている人間など皆無と言っても過言ではないだろう)。とはいえ、「無宗教」を分析する際に宗教的かどうかではなく宗教に属しているという認識が問題であるのと同様に、宗教離れを分析する際、宗教の実態以上に宗教に対するイメージが重要なのではないだろうか。


そして肝心の日本人の宗教に対するイメージはと言えば、その内実は非常に貧しいものであると推測されるが、そもそも基礎的な知識を教えられていないから当然である(例えば「カトリックとプロテスタント」を参照)。人はえてして自分の理解できないものを忌み嫌うものだが、教えられないことで宗教もその「理解できないもの」の一列に加わるばかりか、何かを信仰するという行為自体が大なり小なり選択の放棄を伴うため、選択(=自由)を奨励する社会では必然的に遠ざけられる。さらに教団ともなれば選択の放棄を行った人達が独自に規律などを定めている集団と認識されるので、前述のような社会ではそういった存在が歓迎されないのは必然だと言えるだろう。


ただし、教団もしくは現代宗教一般に対する批判で私が気になっているのは、「真の宗教」だとか「宗教のあるべき姿」という言い方である。もちろんその言葉には人によって様々な意味が込められていると思われるが、一体何をもって理想型としているのか、またなぜそれが理想型と言えるのか、といった点を批判者は自問自答したことがあるのだろうか?例えば、昔は王朝(政府)が税として徴収していた中から宗教関連の費用が賄われていた分が、今では政教分離などで政府が費用を出さなくなったために信徒から(より多く)徴収するようになったという事実があるだろう。民衆から同じだけ金を吸い上げるのでも、政府を仲介するのと教団が直接回収するのとでは全く印象が異なる(実際には同じ程度の金が教団に流れるわけだが…)。とすれば、よく槍玉に上げられる教団の「お布施」を胡散臭い、必要である根拠が明確で無いなどと批判するのならともかく、「真の宗教ではない」(真の宗教とはそのように信者から高額な金を取るものではない)と批判するのはいかがなものか。また、社会の変化(科学の進歩etc...)に従って宗教もその形を変えてきたことは歴史を紐解けば明らかであって、今の宗教とかつての宗教の在り方が異なるのはむしろ当然なのである。それとも、(社会の状態に関係なく)すべからくその原点が宗教の理想状態だというのか?確かに聖典をより遵守していたかもしれないが、それにしても批判内容が原理主義と同じではないか(他宗教への攻撃はしないといった反論をする人がいるかもしれないが、それはテレビで見るような過激派だけが原理主義と考える全くの誤謬に他ならない)?いつの間にか歴史を無視して勝手な理想状態を作っているだけなのではないか?…


少し話が逸れたかもしれない。重要なのは、何となくのイメージで安易に「真の宗教」といった言葉を使わないことだ。そうしないと、例えば変化の必然性などを考えず「昔はよかった」と言って現在を批判するが如き不毛なサイクルに陥るだろう。宗教そのものへの批判と、現代の宗教への批判を一緒くたにしないよう注意しなければならない。


なお、宗教の衰微には自由の奨励のみならず現代の平等の観念が関係していると思われる。それは次の機会に述べる予定である。
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