コンビニの店員が如きもの

2016-09-19 17:17:17 | 生活

「イミテーションゲーム5」では相模原事件を取り上げ、人工知能の発達によって失職する人間が多く出てくる可能性、そしてその人たちが二級市民的扱いを受ける可能性を示唆し、被害者と我々の交換可能性に言及した。それと同時に、私は加害者側にもなりうると書き、死刑制度などと絡めてその交換可能性をいずれ言及すると述べた。実際今その記事を準備しているのだが、これには別で書きためていた草稿を統合する必要があるため10時間程度の作業が必要であり、昨日まで27連勤だった状態でどうして完成できようか、いやできないと諦めたため、別の角度で「交換可能性」の話をしておきたい。

 

交換可能性とは何か?この言葉を聞いてあなたは、あたかも「使い捨て」のごときネガティブな印象を持つかもしれない。確かに、会社ー職員という関係ではそういう側面もあろう。しかし個人の人間関係、あるいは他者認識としてはどのようなものになるのか?抽象的な話より、私の個人的な感覚をここで書いておくことにしたい。

 

交換可能な他者とは、私にとって最も適切に思える喩えは「コンビニの店員」である。言うまでもなく、コンビニの店員が特定の誰かでないと務まらない、ということは全くない。と同時に、特定の誰かでないと絶対に嫌だ、という感覚を持つことも無論ない。しかしそれは、相手に対してネガティブな態度を取ることにはつながらない。というのも、適度にフレンドリーな態度で接した方がお互いに不快な思いをせず対応がスムーズにいくのでwin-winの関係が築けるからだ(あなたの日常で考えていただきたいが、コンビニの店員にわざわざ不快な思いをさせる意味も意図も持ちえないし、またそうさせられたくもないのではないか?)。そして、ここが重要なことだが、日常でコンビニの店員をわざわざ自分の意図通りにコントロールしようなどと思うだろうか?そんなことをしても得られる利益はたかが知れているのであって、そういう策謀を張り巡らす手間すら煩わしいと、少なくとも私は思う。

 

このような見地に立つと、「それなりにフレンドリーで特に干渉しようともしない対応」が生まれるので、あたかもそれは「いい人」のように見えるかもしれない。ではそれは相手に特別な好意を持っているかと言えばそうではない。というのもコンビニの店員は前述のように交換可能であるため、その人が明日違う人間に替ったからといって何の問題も生じないからだ。せいぜい、そのような人間関係(ゲーム)を上手く回せるプレイヤーだったのにいなくなって残念だ、という認識を持つくらいだろう(そう思いつつハイ次・・・とすぐに認識は切り替わっているが、それは相手への悪意に由来するのでは全くない。なお、「キャラ的人間関係」のごときものはその意味で相手に過剰な期待をしすぎな負担の大きすぎる=サステナブルではないゲームであると私は思う)。

 

これが私にとっての交換可能性の感覚である。たとえば前に「属性と交換可能性」という記事で書いたのは、心性・髪型・肌の色・処女など様々な嗜好は結局のところその人のタグを愛しているだけだという意味で、交換可能なものにすぎないのではないか?ということであった(というか処女厨的な反応はそれをピュアだとか思っているので質が悪いのだが)。また整形に生理的嫌悪感を示す人がいるのは、それが人の認証においてエッセンシャルな相貌ですら交換可能であることを暴露してしまうからではないか?とも述べた。私にしてみると、交換可能であることは明白なのに、なぜそこまで入れ替えができないものだと思いたいのか不思議でしょうがない。そして不思議でしょうがないからこそ、そのような執着が人工知能の発達によってどう変化するのかにとても強い興味を持ってもいるのである。

 

まあそのような認識を持っているから、私は他者を(ごく一部の人間を除けば)日常や常識へと縛り付ける軛としか思っておらず、だから一人旅をした方が自分のパラダイムシフトにも有為だと思うのだけれども。このことを、先に述べた「執着」の件と併せて次の記事で書いていきたいと思う。

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