哲学的な話とPCゲームレビューが並立する「ボゲードンの朋友」だが、俺の中でこの二つは別個のものではない。詳しい内容はいずれ書くが、「あるものをあるがままに理解しようとすることの重要性・難しさ」が抽象的話題で扱っていることであり、ある意味その実践の一つがゲームレビューなのである。で、上の内容を実践するにはただ言葉尻を理解するだけではダメで、人間の認識の不確実さをしっかりと自覚しなければならないのだ(それでもなお、バイアスの呪縛から完全に逃れることはできない。ただ、逃れようと努力しなければいかなる進歩もなしえないであろう)。
だから、批評においては作者の表現したいことや表現の仕方を基準にする必要があると繰り返し言ってきた(「批評の批評」など)。これは下手をすると無味乾燥な捉え方と誤解されるかもしれないが、萌えゲーを萌えゲーとして、作りこまれた作品を作りこまれた作品として鑑賞・批評することは、同時に本質を味わうことでもあるのだ。そのことは、今まで書いてきた両極端にあるかのようなゲーム関連記事とゲームレビューの双方を比べてもらえば一目瞭然だと思う。ゲームの特性へ自覚的になってゲームをプレイすることや、ゲームへの感想と批評を分離しようとすることは決してゲームの面白さの解体を意図したものでもないし、また解体することもない。それどころか、より貪欲に作品を楽しむことができると思う。
※事象や作品に対するこういった態度は、歴史学・哲学・批評あらゆる分野に当てはまる。この「あるものをあるがままに」という認識の「枷」を経ることなしに(=既存の価値観に無自覚な状態で)物事を捉えたり評価したりするなら、容赦なくバイアスの餌食となることだろう。なお、私は本によってこういう考え方に至ったわけではないのだが、もし興味がある方がいれば解釈学の本を読むことをお勧めする(古い時代の人だが、Wilhelm Diltheyが特に有名)。
だから、批評においては作者の表現したいことや表現の仕方を基準にする必要があると繰り返し言ってきた(「批評の批評」など)。これは下手をすると無味乾燥な捉え方と誤解されるかもしれないが、萌えゲーを萌えゲーとして、作りこまれた作品を作りこまれた作品として鑑賞・批評することは、同時に本質を味わうことでもあるのだ。そのことは、今まで書いてきた両極端にあるかのようなゲーム関連記事とゲームレビューの双方を比べてもらえば一目瞭然だと思う。ゲームの特性へ自覚的になってゲームをプレイすることや、ゲームへの感想と批評を分離しようとすることは決してゲームの面白さの解体を意図したものでもないし、また解体することもない。それどころか、より貪欲に作品を楽しむことができると思う。
※事象や作品に対するこういった態度は、歴史学・哲学・批評あらゆる分野に当てはまる。この「あるものをあるがままに」という認識の「枷」を経ることなしに(=既存の価値観に無自覚な状態で)物事を捉えたり評価したりするなら、容赦なくバイアスの餌食となることだろう。なお、私は本によってこういう考え方に至ったわけではないのだが、もし興味がある方がいれば解釈学の本を読むことをお勧めする(古い時代の人だが、Wilhelm Diltheyが特に有名)。
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