年末東京納めの儀:前のめり年越しそば、ビスマルク、丸の内オアゾ

2023-12-30 16:30:29 | 飯関係
 
 
 
 
成田発の飛行機がキャンセルになって突如時間が空いたため、一足早い年越しそばってことで「そばのスエヒロ」八丁堀店を訪れる。こないだ閉店時間に間に合わなくて、カレーの「ロダン」に行くというよくわかんのことやってたんよねえ(・∀・)
 
 
ゲソ天と紅ショウガ天の大盛りを食らい満足した後、少し歩いて東京駅近くの丸の内オアゾへ。
 
 
移動途中は
 
 
 
 
 
 
を見ながらメリトクラシーの功罪について考えつつ、完了した頃に目的地到着。







んで、『ヴィトゲンシュタインのパラドックス』、『<私>時代のデモクラシー』、『発達「障害」でなくなる日』を購入。全然統一性がないように見えるかもしれないが、今の興味がある方向性の一つを示していて、簡単に言えば「共通前提の喪失、言語ゲーム、多様性と包摂」って話。
 
 
そう書くとアイデンティティポリティクスが想起されるかもしれないし、それは必ずしも間違っていないが、もっと広範な話で、「人間と社会」と言えるだろうか(これは『自閉症は津軽弁を話さない』などから生じた興味とも関係している)。今では、AIの「進化」により人間とは何かというのがよく問われているようになっているが(これは毒書会で扱うアーレント『人間の条件』につながる)、それは単にAIと人間という二項図式だけでなく、そもそも人間の分裂・溶解が進むと自分は思っていて、その一環として発達「障害」や言語ゲームに関する知見を掘り下げたいと思っているところだ(まあここには人類学とかの知識も取り込んでいった方がいいと思うんだけどね)。
 
 
なんか「発達障害が増えている」という言説を見ることもあるが、それは定義が生まれたり変化したことによる「発見」なのか、それとも社会変化による影響なのかが気になってるところなんよねえ。そもそも論として、ハイコンテクストな言語で「空気読め」文化な日本社会って、多様化・複雑化した状況に最も適さないと思うんだけど、そういう状況が「相手の意図を適切に読めない」とか「文章の意図を適切に読み取れない」みたいな傾向を助長しているんだろうか?と思ったりする(これは「『ごんぎつね』をトンデモ解釈する小学生たちの話」とリンクする)。
 
 
ともあれ、年末年始はこの辺を読みながら過ごすことになりそうですワ(・∀・)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「切ってもいい人」:自己責... | トップ | 羽田の喧騒 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

飯関係」カテゴリの最新記事