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「ガラスの小びん」~なぜ教科書で使うのか~

2010-02-05 18:36:55 | 本関係
国語の授業で習った作品の中には、「城ノ崎にて」や「こころ」を始めとして今も印象に残る作品が少なからずある。これらは、人生観や人間理解という点で私に感銘を与えたり、モノによってはネタ(この前触れた「少年の日の思い出」や「赤い実はじけた」など)にされたりしたのだが、表題の「ガラスの小びん」については、やや特殊な形で記憶に残っている。


筋書きは別に難しくない。
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父親はよく甲子園の砂が入った「ガラスの小びん」を持ち出してかつての自分を自慢する。ある時主人公は、そんな父親の行為に反発し、中身を捨ててしまう。ついヤってしまった…と思いながらも父に言ったら、怒るどころか、むしろすっきりしたような顔で主人公に「お前が代わりになるものをつめてみろ」と言うのであった…
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というお話。これを習ったのは小学5年か6年の時だが、正直砂を捨てた主人公に対する父親の対応が理解できなかった。あれほど大事にしていたものなのに、なぜ怒らないのだろう…まあ予想通りというかそこが授業の焦点にもなるわけで、理由を各自考えてくるようにと担任からありがたいお達しがあった。とはいえ、考えてもさっぱりわからなかったので、父親に聞いてみると、「自分でも頼ってちゃいけない、捨てなきゃいけないと思っていたから」との返答。ふ~ん、そんなもんかねえ?と頭を捻りながらとりあえずそれを答えとした。翌日(手を挙げて?)何人かが発表したが、、父親の葛藤について言及したのは自分だけだった。


こんな事を書いて、クラスの中で自分だけが本質に迫ったなどと自慢したいわけではない(だいたい、親の言ったことを丸映しなのだから自慢にならない)。むしろ問題は、なぜこのような内容の作品を小学校高学年の教科書に採用しているかなのだ。


この父親の葛藤は、過去の栄光に縋る自分とそれを止めるべきだと思う自分の間に生じたものである。なるほど人間というものは、過去を振り返って「あの頃はよかった」と思うことがあるし、それと同時に「昔は昔、今は今」だと自分に言い聞かせ回顧という名の呪縛を振り切ろうともする(現状への不満が大きいほど、過去の美化は頻繁に、そして極端になりがちだ)。その意味では、作中の父親の姿は非常にありふれたものであり、味わい深いと言うことはできる。しかしながら、それを小学校高学年の生徒が理解できるのだろうか?例えば今の私の年齢なら、「10年前は大学受験の年だった」とか「20年前はすでに小学生だった」などと感慨にふけったり、そこから作中の父親の心理を慮ったりすることが可能かもしれない。しかし、そもそも回顧にふけったりなどしない12歳やそこらの子どもが、「あの頃はよかった」と過去にすがって現状への不満を漏らしつつも、その行為を止めるべきだと思うという葛藤をはたして理解できるものか、非常に疑問である。そういう理由で、この作品を小学校高学年の教材として採用する意図が理解できないのだ。


もっとも、これには即座に反論がくるだろう。例えば、作者自身も(そしておそらく)教師も生徒が主人公の立場で考えると始めから予測しているのであり、父親の側に立って考える必要はないのだ、と。だが、そうするとますますわからない。なるほど主人公の立場で考えさせるとして、そこから何を学ばせたいのだろうか?たとえ父親であっても自分が伺い知れぬ何かを秘めているという他者性の意識か?あるいは、(父親と主人公の拠って立つ)前提が違うことによってディスコミュニケーションが生じても、何かしら繋がるものがあるということ?なるほどそれなら、まだ理解できる部分がある(とはいえ、例えば「背中で見せる」というような学ばせ方は、社会の変動がこれほど激しい今日、あまりに牧歌的で有効とは言えないのではないだろうか→「共感」の生む病理)。しかし、少なくとも自分が受けた授業に関する限り、そのような視点は皆無であった。


以上のことからすれば、この作品をわざわざ国語の授業内に読ませる理由はやはり不明瞭だと言わざるをえない(作品そのものが駄作ということではない。悪しからず)。ある程度経験を経た大人の視点で見ていい話だから子どもにも読ませたい、という気持ちはわからなくはない。しかしそれが伝わりうるものかどうかは全く別の問題ではないか?あるいはもしかすると、「生徒は父親の反応の理由がわからない→親に尋ねる=コミュニケーションの成立」という私がやったパターンこそが実は狙い通り…だったりするとちょっとアクロバティックでおもしろいのだが、仮にそうだとしても、自分のクラスに関しては、指示の不徹底もあり失敗だったと言えるだろう(前述の通り的外れな答えばかりだったため)。


まあいずれにせよ、教える(大人の)側の自己満足にはならないよう気をつけてほしいものだ。それを掲載する行為自体が「ガラスの小びん」にならないためにも。

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8 コメント

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なぜ (たかはし)
2014-08-23 22:50:14
ガラスの小瓶は私も小学生か中学生の時に国語でよみました。投稿者のあなたがいろいろ考えいるようですね。その時点であなたにとっては意味のある教材だったのでは? 子どもの時は感じれなかったことが、大人になった時にその教材を思い出していろいろと考える。なかなか奥の深い教材なのでは?なにも感じなかったら思いだしもしないですからね。
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Unknown (69)
2014-08-23 23:51:27
たかはしさんコメントありがとうございます。

「投稿者である私にとって『ガラスの小びん』という作品はいかなる価値を持つか」という観点であれば、あなたのコメントは全くもってその通りであると思います。

しかし、ここでのテーマは「小学生の教科書で採用する意味はあるのか?」というものであり、つまりは小学生一般が時間をとってこの作品を読む価値・効果はあるのか、ということです。そして自分以外の生徒が父親の一見不思議にも思える反応(葛藤)について全く触れなかったという個人的な経験を踏まえると、価値・効果はないというのが私の判断なわけです。

その点について、たかはしさんのご意見はいかがですか?
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一つはっきりした (謎の覆面レスラー)
2020-07-08 22:41:32
2020-06-22の記事から来ました。覆面レスラーなので正体は明かせませんw

上のたかはしさんとのやり取りを見て一つはっきり分かったのは、君の教育に対する考え方には極めて重大な欠陥があるということです。

それを一言に付せば、君は進学と教育を混同しているということ。
君が「教育」だと思っているのは実は「進学」であって、それは教育の一つの要素に過ぎんよ。(こんなこと言うまでもないことと思っていたが。)

君が「教育」を語る時、常に念頭にあるのは「即効性」と「同質性」なのだ。言い換えれば、(無意識的にかも知らんが)教育を受ける全ての人間に対して「すぐに」かつ「同じように」効果が行きわたらなければならないと考えているのだ。

これは言っちゃ悪いけどもはや職業病だな。
まあ1年1年が勝負という世界だから同情はするけれど。

さすがに分かっていると思ってたけど、人間の成熟の過程って君が思っているほど単純でもシステマティックなものでもない。
ときに説明もつかないような不合理で自傷的な行動すらとりながら、鍾乳洞のようにゆっくりゆっくり成熟していくのが我々普通の人間よ。

だから公教育(「公」を読み落とすなよ?)というのは、短期的な進学についてだけでなく、中長期的な人間の成熟にも配慮したカリキュラムを施す使命もあるの。

孔子先生も仰るとおり、40にしてようやく惑わなくなるんだぜ。

このトピックの『ガラスの小びん』について、君が授業を受けてから十数年後に記事を書いたことをたかはしさんが「あなたにとっては意味のある教材だったのでは?」とコメントしているのは、公教育の成果と言う観点からは極めてまっとうな意見なの。

それが別のAさんにとっては『命ということ』のマドンナBがしたばかりの畜肉の血液の温かさを自ら感じる場面についてかも知れないし、Bさんにとっては『少年の日の思い出』で友人の標本を潰したことを告白するために対峙する場面かも知れん。

そういう人間感情の機微の複雑さについて扱っている教材を、授業を受けた時点で理解できないなら価値・効果がないと言っているのが君で、私はそれを浅薄な考え方だと思っている、というわけ。

厳しい書き方をして申し訳ないが、悪気はない。悪しからず。
返信する
ロマン主義者の自慰行為 (ムッカー)
2020-07-10 01:16:13
コメントありがとうございます。

どうも話が噛み合っていない感しかないのですが・・・ここについては以下に二つのテーマで書いてみようと思います。


【厳しい批判的コメントの事例】

正直私はあなたのコメントが「厳しい」とは感じられないのですが、私が自身に厳しいと感じたであろう事例を載せておきましょう。

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記事を見て問題だと思ったのは、筆者が個人の経験を述べているだけで、それを裏付ける要素を欠いている点である。

筆者は、教師が「家で調べてくるように」と指示を出し、後日に意見発表が授業中に行われたしており、その発表の内容で父親の(主人公にとっては)奇妙に思える行動の理由に言及したのが自分だけだった、とある。

その後の文からしても、要するに筆者はこの作品のテーマの肝である部分を理解できた人間がクラスで自分一人だったと述べているのであり、ゆえに他の生徒はわからなかったからそのようなものを(少なくとも小学生の学校教材で)題材とする意味はあるのか、と問うているのだろう。

なるほど筆者の経験自体は正しいのかもしれないが、それを即ち「小学校で教える意味がない」とするのは飛躍があるように思える。まずそもそも、学校側がどのような意図でその題材を扱っているのかについての検証がない。また、その意図を踏まえて筆者の担当教師が適切に指導をしたのかどうかについても検証がない。これは例えば、教科書ガイドなどで調べたりすることも可能であろうから、こういった点を調べずに「題材とする意図が不明」と断じるのは早計と言わざるをえない(担当教師の指導力不足が生徒の多くが題材を理解できなかった原因である可能性を捨てきれないため)。

加えて、筆者が自身のいたクラスの経験を安易に一般化している点についても疑問である。学校の状況について具体的な言及がないため不明だが、仮に筆者が(一般的な)公立の小学校に通っていたとしても、前述のような担当教師の指導方法など含め、様々な状況の違いは想定しうる(極端な話、離島と都心部では通塾率なども含めて同じとは言い難いだろう)。

とするなら最低でも、自身の意見がどの程度一般的たりうるかをネットやSNSのコメントを渉猟するなどして蓄積して検証を行っていない以上、この文章は「批判的言説」の名に値しないのはもちろん、
随筆にも程遠いの「稚拙な感想文」の領域を出るところがないと言えるだろう。

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まあ自分で自分の批判記事の事例を書くというのも奇妙な感じはしますが、実際こういう内容のコメントをいただいていたら、己の調査不足を恥じて平身低頭するしかないところではあったでしょう。


【多くの生徒が理解できないものを教える意味】

ここについては、おそらく本文であまり説明できていない部分でもあるので、わかりやすくするためあえて極端な事例を出してみたいと思います。

・PC操作/ワープロ/タイプライターのいずれかを学校で教えるとしたら、どれが適切か?

・将来的に必要ということで、小学校の算数の授業で統計学を扱ってみた。ほとんどの生徒は全く理解できていない様子であったが、元々興味を持って勉強していた1名と飲み込みの非常に速い1名は理解していたようであったので、有意義な授業であったと言えるか?

・「生徒の精神性を涵養する」というような目的さえあれば、題材の有用性や時期の選択を不問に付すべきであるか?

・体育の授業ではひどい体罰が行われていたが、それを批判するために十数年後に記事を書いたら、「大人になってから思い出して記事を書いたのだったら、あなたにとっては意味のあることだった」というコメントするのは妥当か?

・B高校に来る生徒は中学英語すらまともに理解していない。しかし、教師Cは高校では高校用の英語を教えるべきであると考え高校英語を教えていたが、誰も理解できていないようであった。この教師の判断は正しいか?

というところですかね(もう一度注意を喚起しますが、あえて極端な事例を出しています)。さて、これに関してあなたはどのようにお考えになるでしょうか?

こういった事例を出したところから私があなたの文章を理解していないと受け取られるかもしれませんので補足しておきます。あなたの文章の内容からは、「人間感情の機微の複雑さ」のような見えないものを担保とすれば、ブラックボックスであるがゆえに好きにものが言えてしまう、という危険な教育論の典型のように私には見えます(そう言えば物資で勝てないから精神力で何とかしよう、というのが戦前の日本の戦争でしたっけね)。それなら小学生の読解力など無視して、非常に優れているとされる古典作品を小学校でひたすら読ませて理解できないと悶絶する生徒が続出しても、それを正当化できるわけですからね(その場合でも、数十年後に思い出して原典に触れる人間もクラスに一人や二人はいるだろうから構わない、というロジックが成立する感じでしょうか)。

そういったことも踏まえると、私は「人間感情の機微の複雑さ」とやら(だけ?)を聖域化するようなあなたの見解に全く賛成できませんし、ゆえに私へのコメントも「厳しい」という印象は受けません。まあ教える優先順位の問題を論じている記事を勝手に0-100の二項対立に曲解し、あまつさえその理由に筆者へのレッテル貼りまでする書き方は厳しいというより「卑劣」であるとの印象を持ちますが。

以上です。
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ようやく議論が噛みあってきた (謎の覆面レスラー)
2020-07-10 11:16:32
卑劣漢とは覆面レスラーに似合いの言葉で満足している。だがやはり正体は明かせないw

ただ、「教える優先順位の問題を論じている記事を勝手に0-100の二項対立に曲解し」のところは、「古文や漢文の~」の記事における論理の筋目が滅茶苦茶であり、かつその後のコメントにおいても真正面からの回答も補足も訂正もなく、ひたすら煙幕を張り続けたことを棚上げにしての「卑劣」呼ばわりはいただけない。(……まあ全くないというとまた「卑劣」と言われそうだから僅かにはあったとは言っておこう。)
それは聞きようによっては何とかの遠吠えにも思えるから注意されたい。

【厳しい批判的コメントの事例】で君が言っていることは、正に「古文や漢文の~」の記事で木場氏が「ブーメラン」という表現で言及している論点だし、相対的に重要な論点とも思っていないので、特に追加での感想はない。

で、いただいたコメントで一番重要なポイントである、

「あなたの文章の内容からは、『人間感情の機微の複雑さ』のような見えないものを担保とすれば、ブラックボックスであるがゆえに好きにものが言えてしまう、という危険な教育論の典型のように私には見えます」

についてだが、それはたしかにそこを全部現場にいる個々の教師に丸投げしてしまっては、当然そうなる危険はあるだろう。
それを防ぐために、一定期間毎に当局から学習指導要領を発出し、それを基に各自治体の教育委員会を中心にガバナンスをきかせて無放縦な教育に堕することのないように管理徹底することが今の日本の教育制度設計(何度も言うけどここで言う「教育」とは「公教育」のことね。)ではないのか?

戦前のように教育制度設計における最上位に「教育勅語」を据え、帝国主義全盛の時代において列強に劣後しない国力を保持するために学生に施すべき教育とは何かということを形作っていった結果が「愛国少年」や「勤皇青年」を生み出した。
これを見ても、「公教育」の力がいかほどかということがよく分かる。
(蛇足だが、今回の君との一連の議論を機に、念のため、「高等学校学習指導要領(平成30年告示)解説 国語編」に目通ししてみたんだよ。もしご興味があれば一読を勧めるよ。)

上記の主張により、キミのコメントにおける、【多くの生徒が理解できないものを教える意味】のところで挙げた例について、私の回答がどのようになるか、は概ねご理解いただけるかと思う。

(公)教育はこのように非常に重要な力を持つものなので、「古文や漢文の~」の記事では「君の教育理念が見えにくい」というコメントをしたわけ。
だから、それに対する君の答えが「そんな高尚なものは持ち合わせてはおらん。」というものだったことには大変深い衝撃を受けた。

だが、そのことについてここまで一言も触れて来なかったのは、(公教育の一部たる)「進学」にのみフォーカスしている君なれば、たしかに「教育理念」なんてのは「進学実績」の前には画餅の餅に過ぎないと考えるのが自然なのかと納得したからである。

ところが、この記事は「公教育」の方に論点の比重が置かれているものと理解したので上記についても触れさせていただいた。

これから益々暑くなるが、体調にはくれぐれもご留意されたし。
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一点補足 (謎の覆面レスラー)
2020-07-10 13:53:47
上のコメントを読み直しした時に論理的に若干飛躍が見られるところがあったので、補足しておきたい。
(普通に行間を読んで理解できるとは思うところで、君の読解力を疑っているわけではないが。……いや、「価値観の違い」コメントを見てから少し疑い始めているかも。)

>(公)教育はこのように非常に重要な力を持つものなので、「古文や漢文の~」の記事では「君の教育理念が見えにくい」というコメントをしたわけ。

この部分ですが、
・(公)教育とは非常に大きな力を持っており、その力をもってすれば学生をいかようにでもマインドコントロールできるおそろしいものである。

・だから、ある人が(公)教育についてあるべき姿を論じたいと思ったならば、まずあるべき理念(=教育理念)がなければならない。

・なぜなら、学習指導内容が戦術であるならば、戦略に位置付けられるべきは教育理念であるはずで、戦略なきところに戦術を語ることはあり得ないと考えるからだ。

・それにもかかわらず、「古文や漢文の~」の記事における私の「君の教育理念が見えにくい」というコメントに対して、君の答えが「そんな高尚なものは持ち合わせてはおらん。」というものだったので、大変深い衝撃を受けた。

ということです。

あと、その直後の「画餅の餅」は「骨折が折れた」と同じ類の誤りだねw

以上、補足と訂正でした。
返信する
Unknown (r)
2021-05-04 09:45:58
このガラスの小瓶を要約してください。225文字以内でお願いします。
返信する
要約を求められる意図 (ムッカー)
2021-05-05 11:33:09
コメントありがとうございます。
さて、r様のご要望ですと「225字以内の要約」とのことですが、当方ではいささか困惑しており、以下にその理由を説明いたします。

1.「ガラスの小瓶」の要約はすでに存在している

渉猟したわけではありませんが、ネットに「ガラスの小瓶」の要約はすでに様々な形で少なからず存在しているはずです。とするなら、私の記事に書き込みをしてレスポンスを待つより、それをダイレクトに参照した方が早いと思います。つまり、私が要約を新たに書く必然性がないと考えます。

2.私の理解度を要約から測りたい?

1の理由からすると、私にわざわざ要約を求める必然性が理解できないため、別の意図がそこには介在することができます。つまり、私がこの記事を書き、コメントにレスポンスをするのを見て、私がそもそもガラスの小瓶を(どのように)理解しているのかを探りたいとr様が考えていらっしゃるのではないか?ということです。

であるならば、私が要約を書くことは1と同じでやはり必要性がないと考えます。というのも、私が本記事で論じているのは、

(a)
「ガラスの小瓶」が小学校の授業で扱われた際、父親の意図に関して端的に言えば理解したと思しきコメントが皆無である。

(b)
であるならば、それを授業で扱う意味はないと考えている。

(c)
私が父親と会話する中で出てきたような答えを仮に教師が、もしくは指導要領が期待しているのだとしたら、少なくともそれを満たすような方向づけが必要だが、それがなされた形跡は記憶の限り皆無である(課題として考えてくるように言われた際にも何も言及がなく、かつそれを発表した授業内でもこういう考え方があると、抽象的・具体的は問わず、紹介などをしたわけでもない)。

ということですので、私がガラスの小瓶という作品をどう要約するのかは全く本質的ではありません。

なお、(c)に関して補足をしておくと、そこに「高邁な理想」があろうと、それを伝えるための努力を怠っては何の意味もありません(同じ小学校ということで数学の例を出せば、「平行四辺形の面積はなぜ四角形の面積の求め方と同じになるのか」が仮に理解できない・呑み込めない生徒がいるとして、片方の突き出た三角形の部分を別の方に移動させてくっつけて視覚的にわかってもらう、といった工夫があるでしょう)。例えて言うなら、「生徒にただお喋りをさせて、『これこそアクティブラーニングだとのたまう』」ようなものでしょうか。

ちなみに、意図を伝える努力をした上で、理解できない生徒が出てくるとか、あるいは理解した意図に対してそれぞれが異なるレスポンスをするのは当然の現象なので、「教師の誘導に従ってみなが同じ解釈をし、それに対し同じ感じ方をすることが正しい」と言っているわけではないのでご注意ください(その点では算数の例とは異なりますが)。ともあれ、繰り返しますが、この場合でも私が要約を書く必要性はないと考えます。

3.実はネタで言っている?

「225字以内」とかなり数字が細かいのと、1の理由で私に要約を書くよう依頼される理由が理解しかねるため、もしかして「ネタ」で言われているのだろうか?とも考えましたが、そう解釈するには周辺情報が少なく、またr様を全く存じ上げないので、この可能性に飛びつくのは危険だと考えて破棄した次第です。つまり、この解釈は現状そもそも成り立ちえないので、この軸で要約を作成する必然性もまたない、ということです。

冒頭で述べた「理由」は以上の通りですが、一応付言しておくと、225字の要約をするよりは時間のかかる返信をしたつもりですので、決して「手抜き」ではない旨おとめおきいただけると幸いです。

乱筆乱文ご容赦ください。
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