いつでもという程ではないけれど、ふと思い出しては明確に像を結ぶことなくまた記憶の澱に沈んでいく…そんな心に引っ掛かってる何かが、誰にでも一つはあるのではないだろうか。
俺にはそういうものが結構ある。
例えば、おそらく小学生高学年の頃に家の近くの床屋で見たゴルゴ13で、三人の女殺し屋が出てくる話があった。その時は「ゴルゴってやっぱりエロいなあ」ぐらいにしか思わなかったが、10年ぐらい経って気になり突如気になり始め、たまにブックオフで思いだしたかのように探す、ということがずっと続いていた。もっとも、このネットが普及したご時世、それだけのキーワードがあれば調べるのは容易だ。実際、この前調べて第三十四巻『三匹の女豹』だということがあっさり判明。近いうちに購入する予定である。
こう書くと、「疑問に思ったら調べればいいじゃん」というわけで不良債権でも何でもない感じもする。確かにそういう側面はある。例えばだいぶ前にも書いた話だが、国語の授業で出てきた「そうか、そうか、つまり君はそんな奴なんだな」というフレーズがずっと気になっていたが、エーミールという名前を覚えていたこともあってヘルマン・ヘッセの「少年の日の思い出」だとすぐに調べがついた(おそらく中学1年の時に竹崎先生に教わったのではないかと思われるが、さすがにそこまでは調べていない。なお、「俺はかまきり」というナイスな詩など、国語は印象に残るモノが少なくない)。また、おそらく小学2年頃に聞いたと思われる歌を「青い海白い砂浜空は澄み渡り」というフレーズで検索して「友達の歌」と突き止めたり(まあそんな大げさなもんでもないがw)もしている。
まあ時折ふと思い出す程度の事柄なためリスト化して調べるといったこともなく、気がつけばそのままになっている…という側面は多分にあり、その気になればいつでも調べられるものにすぎないのは確かだ。じゃあやっぱりちゃんと調べればいいだけなんじゃね?いやいや、そうそう単純でないものもあるのですよ。
例えば、歌詞は覚えていないがメロディーは覚えているというパターン。
最近では高円寺の「かつや」で何度か耳にした曲で、「も~ぎ~たての果実の~いーいーところ~」のリズムで曲調は(山口百恵の)コスモスみたいな(まあ悲しげな曲調ぐらいに考えてくださいw)のがあり、聞くたびに何なのか気になっている。また以前「探し続けている曲」でも書いたが、3歳か4歳頃に(ビガーに乗っている時)テープで聞いた「ミラララソミレミソミミソララ~」という曲が何だったのか時折気になったりする。女性ボーカル、「ください~♪」、オカリナっぽい楽器、雰囲気的には世界名作劇場っぽい?と断片的には覚えているが、断片的すぎて未だ答えにはいたらず…(ちなみに世界名作劇場で該当しそうな年のop、edテーマはいちおう聞いたが違いました)。まあ例としては違うが、熊本に帰省した時にネタで友達と行った冥土喫茶で「愛はブーメラン」を聞き、その歌詞を調べて「うる☆やつら ビューティフルドリーマー」のだとわかり、そのまま見て…というような出会いもあった(東浩紀の記事を通して名前だけは知っていた。しかし何と言うか、「もしか、もしか」を「オスカル、オスカル」と聞き間違えてどんな歌詞やねん!と突っ込むあたり俺の耳の腐り具合がわかるというものだがw)。今述べたものも何かの偶然でわかるかもしれない。そしてその偶然性こそが、俺がこの世に生きるための重要な糧の一つにもなっているわけで…
さて、もう一つは英文。
高3の時衛星予備校に通っていたが、その授業で使ったいくつかの英文が全体像を思い出せず今も浮遊している。例えば、“I have not a positive dislike of dogs, but I have no wish for their company.”直訳でも意訳でもなく、形式動詞や名詞構文という視点を使って英文を理解するという永田先生の考え方が当時の自分には画期的だったが、その一発目の文章である。この後に“proper good will”だとか“shown by the movements of his tail”(尻尾を振って好意を示す)といったフレーズが続くのだが、はてさて全体像はどんなものであったか…
ちなみに、同じく英語の授業でずっと気になっていて判明した例が一つある。小説問題対策としてやった長文で、最初の方に“odor of dusty cretonne.”という表現が出てきて、その他“Damned Italians!”、“Derevaun Seraun! Derevaun Seraun!”など特徴的な表現が数多く見られた(後者は「我慢、我慢」という意味で、主人公にとっては呪詛のような言葉)。しかも、前者に対する永田先生の訳が「あのバカたれのイタ公めが」という代物(笑)で、後者は後者で注に「ゲール語の言い回し」なんてあったときたら、印象に残らないはずがない(ちなみに、授業内容としては“odor~”を含む一連の表現が回顧を意味し、色彩表現としてbrownが心の傷を表す[設問にもなっていたw]とかドラの音はクライマックスの表現だとか言われ、論理的思考能力ならまだしも英文学の素養が必要なんかいなといささか辟易した記憶がある)。まあ内容的には家族を捨てて彼と船で逃げようとするが、結局家族を選ぶ…とかいう話なのだが、これがずっと引っかかっていて、最近ようやくジョイスの“Dubliners”のEvelineの章だと判明した(そりゃゲール語も出てくるわなという話。ちなみに、全文が掲載されてたわけではなくフランクとの出会いの部分などはカットされていた)。ジョイスの作品はほとんど読んだことがないので、これを機会に触れてみるのもいいかなと思っている次第。出典がわかっても、考えるべきことは山積みだ。例えば先の!”“Derevaun Seraun! Derevaun Seraun”について言うと、習った当時の発音は「ディリバンスィラン、ディリバンスィラン」だったが、2009年3月に刊行された「ダブリナーズ」(柳瀬 尚樹訳 新潮文庫)では「デレヴォーン、セローン!デレヴォーン、セローン!」となっている。まあさすがに後者を採用すべきところだろうが、ならば前者の発音は単なる間違いなのか、それとも何かあるのかは気になる部分だ。また、シェイクスピアや不思議の国のアリスにも言えることだが、やはり原文で読まないと面白みが半分も伝わって来ないのではないかという気がしてならない(特にシャイクスピアは、『リア王』や『ハムレット』を読んだが全くおもしろいとは思わなかった。まあ嗜好の問題などもあるだろうが、文章のリズムに乗れなかったことが要因の一つだと考えられる)。まあ結局は時間の都合で翻訳版しか目を通せないのだろうが…
こんな具合に、処理できた不良債権もあれば未処理のものもあるが、いずれにしてもそれを知る過程で思わぬ発見をしたり、あるいは思い出のくだらなさを確認できるのが俺にとってはおもしろくてしょうがない。さて、今度はどんな発見があるのやら…
俺にはそういうものが結構ある。
例えば、おそらく小学生高学年の頃に家の近くの床屋で見たゴルゴ13で、三人の女殺し屋が出てくる話があった。その時は「ゴルゴってやっぱりエロいなあ」ぐらいにしか思わなかったが、10年ぐらい経って気になり突如気になり始め、たまにブックオフで思いだしたかのように探す、ということがずっと続いていた。もっとも、このネットが普及したご時世、それだけのキーワードがあれば調べるのは容易だ。実際、この前調べて第三十四巻『三匹の女豹』だということがあっさり判明。近いうちに購入する予定である。
こう書くと、「疑問に思ったら調べればいいじゃん」というわけで不良債権でも何でもない感じもする。確かにそういう側面はある。例えばだいぶ前にも書いた話だが、国語の授業で出てきた「そうか、そうか、つまり君はそんな奴なんだな」というフレーズがずっと気になっていたが、エーミールという名前を覚えていたこともあってヘルマン・ヘッセの「少年の日の思い出」だとすぐに調べがついた(おそらく中学1年の時に竹崎先生に教わったのではないかと思われるが、さすがにそこまでは調べていない。なお、「俺はかまきり」というナイスな詩など、国語は印象に残るモノが少なくない)。また、おそらく小学2年頃に聞いたと思われる歌を「青い海白い砂浜空は澄み渡り」というフレーズで検索して「友達の歌」と突き止めたり(まあそんな大げさなもんでもないがw)もしている。
まあ時折ふと思い出す程度の事柄なためリスト化して調べるといったこともなく、気がつけばそのままになっている…という側面は多分にあり、その気になればいつでも調べられるものにすぎないのは確かだ。じゃあやっぱりちゃんと調べればいいだけなんじゃね?いやいや、そうそう単純でないものもあるのですよ。
例えば、歌詞は覚えていないがメロディーは覚えているというパターン。
最近では高円寺の「かつや」で何度か耳にした曲で、「も~ぎ~たての果実の~いーいーところ~」のリズムで曲調は(山口百恵の)コスモスみたいな(まあ悲しげな曲調ぐらいに考えてくださいw)のがあり、聞くたびに何なのか気になっている。また以前「探し続けている曲」でも書いたが、3歳か4歳頃に(ビガーに乗っている時)テープで聞いた「ミラララソミレミソミミソララ~」という曲が何だったのか時折気になったりする。女性ボーカル、「ください~♪」、オカリナっぽい楽器、雰囲気的には世界名作劇場っぽい?と断片的には覚えているが、断片的すぎて未だ答えにはいたらず…(ちなみに世界名作劇場で該当しそうな年のop、edテーマはいちおう聞いたが違いました)。まあ例としては違うが、熊本に帰省した時にネタで友達と行った冥土喫茶で「愛はブーメラン」を聞き、その歌詞を調べて「うる☆やつら ビューティフルドリーマー」のだとわかり、そのまま見て…というような出会いもあった(東浩紀の記事を通して名前だけは知っていた。しかし何と言うか、「もしか、もしか」を「オスカル、オスカル」と聞き間違えてどんな歌詞やねん!と突っ込むあたり俺の耳の腐り具合がわかるというものだがw)。今述べたものも何かの偶然でわかるかもしれない。そしてその偶然性こそが、俺がこの世に生きるための重要な糧の一つにもなっているわけで…
さて、もう一つは英文。
高3の時衛星予備校に通っていたが、その授業で使ったいくつかの英文が全体像を思い出せず今も浮遊している。例えば、“I have not a positive dislike of dogs, but I have no wish for their company.”直訳でも意訳でもなく、形式動詞や名詞構文という視点を使って英文を理解するという永田先生の考え方が当時の自分には画期的だったが、その一発目の文章である。この後に“proper good will”だとか“shown by the movements of his tail”(尻尾を振って好意を示す)といったフレーズが続くのだが、はてさて全体像はどんなものであったか…
ちなみに、同じく英語の授業でずっと気になっていて判明した例が一つある。小説問題対策としてやった長文で、最初の方に“odor of dusty cretonne.”という表現が出てきて、その他“Damned Italians!”、“Derevaun Seraun! Derevaun Seraun!”など特徴的な表現が数多く見られた(後者は「我慢、我慢」という意味で、主人公にとっては呪詛のような言葉)。しかも、前者に対する永田先生の訳が「あのバカたれのイタ公めが」という代物(笑)で、後者は後者で注に「ゲール語の言い回し」なんてあったときたら、印象に残らないはずがない(ちなみに、授業内容としては“odor~”を含む一連の表現が回顧を意味し、色彩表現としてbrownが心の傷を表す[設問にもなっていたw]とかドラの音はクライマックスの表現だとか言われ、論理的思考能力ならまだしも英文学の素養が必要なんかいなといささか辟易した記憶がある)。まあ内容的には家族を捨てて彼と船で逃げようとするが、結局家族を選ぶ…とかいう話なのだが、これがずっと引っかかっていて、最近ようやくジョイスの“Dubliners”のEvelineの章だと判明した(そりゃゲール語も出てくるわなという話。ちなみに、全文が掲載されてたわけではなくフランクとの出会いの部分などはカットされていた)。ジョイスの作品はほとんど読んだことがないので、これを機会に触れてみるのもいいかなと思っている次第。出典がわかっても、考えるべきことは山積みだ。例えば先の!”“Derevaun Seraun! Derevaun Seraun”について言うと、習った当時の発音は「ディリバンスィラン、ディリバンスィラン」だったが、2009年3月に刊行された「ダブリナーズ」(柳瀬 尚樹訳 新潮文庫)では「デレヴォーン、セローン!デレヴォーン、セローン!」となっている。まあさすがに後者を採用すべきところだろうが、ならば前者の発音は単なる間違いなのか、それとも何かあるのかは気になる部分だ。また、シェイクスピアや不思議の国のアリスにも言えることだが、やはり原文で読まないと面白みが半分も伝わって来ないのではないかという気がしてならない(特にシャイクスピアは、『リア王』や『ハムレット』を読んだが全くおもしろいとは思わなかった。まあ嗜好の問題などもあるだろうが、文章のリズムに乗れなかったことが要因の一つだと考えられる)。まあ結局は時間の都合で翻訳版しか目を通せないのだろうが…
こんな具合に、処理できた不良債権もあれば未処理のものもあるが、いずれにしてもそれを知る過程で思わぬ発見をしたり、あるいは思い出のくだらなさを確認できるのが俺にとってはおもしろくてしょうがない。さて、今度はどんな発見があるのやら…
「もぎたての~」はPuffyじゃねーかって話だけど、それはその通り。ただ、そいつはネットですぐに調べられるし、俺もすでに知ってるのよw
問題は、「もぎたての~」のリズムながら悲しい曲調のやつがわかんねってことなのさ。一応サビも覚えているんだけど、音階に変換できんのでね…
まあいちおう情報ありがとうってことでw