男尊女卑:心の習慣と合理的適応

2017-07-15 12:20:15 | 生活

酒井順子とジェーン・スーの対談「日本で男女平等は本当に望まれているのか」を読んで非常に興味深かった。たとえば、「男女平等が理想なのにそれが実現できない社会orダメな日本」といったテーマや、「そもそも男女平等は幻想である」といったテーマはよく見られる。

 

しかし、ここで述べられているのは前者のようないわゆる「リベラル」なものとも後者のようないわゆる「保守」的な言論とも異なっており、たとえば女性を男性と平等に扱えと言いながら、あるいは女性に「女性らしさを求めるな」と言いながら、男性には頼りがい≒男性らしさ(?)を求めるというダブルスタンダードが行われている事例、またあるいは女性が自分から積極的に「女性らしい」行動に出ている事例が取り上げられている(ここでいう「女性らしい」というのは、女性があまり自己主張をせず男性を「立てる」ような、あえてcontroversialな表現をすれば、女性が男性にserveするような行動を指す)。また、ジェーン・スーが働いていて同居している男性が料理を作るという役割分担の中で、女性のジェーン・スーが急に当日家で夕食が食べたいと言い、男性から苦言を呈されたというエピソードが提示され、性別ではなく立場・状況が人の行動・言動を規定すると述べている。すなわちこの記事は、単純なお題目としての理想ではなく、あるいは旧来の制度にしがみつくのでもなく、より複雑な実情・実態というものを取り上げながら社会の在り方について考えているのである(ちなみに、こういう時進んでいる欧米、遅れている日本という二項対立はわかりやすいし正しい部分も多いが、「ワンダーウーマン」「俺たちニュースキャスター」に描かれるような歴史性・地域性を考慮に入れなければ、ただの偶像崇拝にすぎない)。

 

立場・状況が人の行動を規定するというのは、傑作「ヒヤマケンタロウの妊娠」が最もわかりやすいのでそちらをご覧いただきたいが、要は今生じている男女間の軋轢が性別という変更が容易ではない=抜きがたい性質によるもののように語られるが、そこには社会的な立場の違いが大いに関係しており、つまりは交換可能なものではないか、ということである(念のため付言しておくなら、「ヒヤマケンタロウの妊娠」は男性が妊娠したら社会はどうなるか?というSF的要素に基づくことによって、マイノリティの在り方や男女の交換可能性を意識することが社会をどのように変えうるかということをわかりやすく提示した作品である)。だとするなら、最終的には解消不可能な差異として諦めるのではなく、起こりうる問題や個々の主張を元にした調整が可能という風に言い換えることもできるだろう。

 

次に自分から積極的に「女性らしい」行動に出る女性、すなわち自分から期待される役割を演じるという事例である(女性解放を訴える立場からするなら「自分から奴隷の立場に甘んじようとする」という表現にでもなるだろうか)。これはいくつかの次元で考えることができるだろう。たとえば、「女性らしい」とされる行動がその人にとってむしろ楽であるという事例。「性差よりも個人差」という表現もしばしばなされるようになったが、単純な話、期待されてきた振る舞いの逆こそが全ての人にとっての真(本当の姿)では必ずしもない、ということである(これはリーダーシップのある男性もいれば、悠純不断な男性もいるというのと同じだ。とはいえ難しいのは、たとえば「恋の罪」などで描かれるように、すでに社会のシステムのそこかしこに男尊女卑的な欺瞞が埋め込まれている場合もあり、それに無自覚なままただ自分のやりやすいように振る舞う、というのはいささかナイーブにすぎるとは思うが。

 

次に戦略的あるいは合理的適応の事例。これは「臨死!江古田ちゃん」の「猛禽」や「アラサーちゃん」の「ゆるふわちゃん」が典型例だが、要するに相手の期待通りに振る舞うことでゲインを得るということ。こう書くと限定的かつ非常に陰湿なものと映るかもしれないが、たとえば無能な年上や上司に対してもある程度の礼節を保ったり、あるいはくだらない顧客の世間話にもつき合うのは、つまるところそのように振舞った方が最終的にはメリットがあるからである。

 

いや、ちょっと待てと言われるかもしれない。少なくとも自分は目上の人の礼節が重要であると教わってきたからそれに則って行動しているのだし、顧客についてはわざわざ足を運んできてお金を払ってくれる相手と信頼関係を築くのは当然のステップだろう、という具合に。

 

なるほど、確かにその通りだ。このような意見を安易に一般化するのは論外としても、人の行動が理のみで説明できないことが多いのは事実。言い換えれば、「日本で男女平等~」の記事の例も含めて、そこには教育や環境によって培われた内面的な側面=心の習慣と、外界の特質を分析してそれに合わせて行動して利を得る(あるいは余計なリスクを回避する)という合理的適応の二つが混在しているのである。ここからは二つの側面を指摘できて、一つはお題目だけ唱えても(つまり教育だけを変えたり法律だけを整備したとしても)環境がそのままなら変化は遅々としたものであるということ、そしてもう一つは逆に環境(堅く言えば適応すべきゲームの基準)が変われば私たちの振る舞いも変化しうるということである。

 

ともあれ、お題目をただ唱えていても全くの無駄であることはトランプ現象でもわかることであると思うし、社会の実態に根付いた重厚で粘り強い議論が必要なのは間違いないだろう。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« undertale:あなたはフレーク... | トップ | この世界の片隅に:ノベルス... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

生活」カテゴリの最新記事