まだまだ暑い日が続いておりますが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。今回掲載するのは「ひぐらしのなく頃に~とあるプレイヤーの証言2~」の草稿ですが、1年以上前のものなので相当内容に違いがあります。簡単に言えば、前掲の記事で扱った「人為100%」と「精神主義という名の病」で書いた鬼隠し編ラストの扱いに関する問題、さらにこれから扱う予定の世代間ディスコミュニケーションを一つの記事でまとめようとしたんですが、まあ現実では前二者のみで1万字を超える分量になったわけでありまして(笑)、煮詰め方が甘かった当時方向性を見失ったのも無理からぬ話。
それはさておき、お気づきの方も多いと思いますが、対話篇で使っているフィリップのイニシャルは正しくは「P」です。これは「とあるプレイヤーの証言」で使った藤田浩之のイニシャルをそのまま流用しようとしたものの、メタフィクションを得意とするSF作家フィリップ・K・ディックの名前を使いたくなって強引に・・・という事情で採用したはずですが、メタフィクションをオチにしてどんな話するつもりだったのか今となっては忘れてしまいますた。ちなみに「とあるプレイヤーの証言2」の冒頭で意味不明なやり取りがあるのはそういう綴りの齟齬に基づいておりますよと。
(登場人物)
フィリップ=F キンドレッド=K
K
つまりきちんと推理をしようとするなら、必然的に人為派にならざるをえなかった、と。でも、その割に君は「人為100%」で推理した人を批判するような記事を今まで書いてきたんじゃない?
F
それもけっこう説明が難しいですね…まず言っておくと、人為派VS祟り派という図式で分けた場合、私は前者に対して敬意を払っています。というのも彼ら 例えば皆殺し編などに対して「なぜ人為100%じゃないんだ」という類の批判が出ているが、それは成立しないよ、という意味。あえて言わせてもらえれば、「思想的困難さの中で真相に到ろうとした同志」
それにしても、なぜ彼らは「人為100%」という立場を取ったのだろう?
あえて単純化するなら、誠実さゆえですよ。
誠実さ?
もしオカルト混入もOKにしたら、説明困難な、つまり都合の悪い問題が出てきた時に 。
でも私は思うんです。罪滅し編以降が発売された状態でプレイを始めた人たちが、果たしてかつて私(たち)の経験した思考上の困難さを理解できるのだろうかと。 彼らにとっては、オカルトが混入しているのなんて当たり前じゃないですか。むしろなぜ「人為100%」を採用しようとしたのか首を傾げることでしょう。 前提の違いによるそのディスコミュニケーションは、おそらく意図していないが、まさに世代であるとか、戦争の前後。 他者のよって立つ前提を考えるどころか、同族が異物という二項対立的なものとしてしかとらえられない。
このような話をしている目的というのは4つあって、 1.一通り「解説」が終わったので違う語り口に。2.自分の評価の文脈の説明3.一筋縄ではいかないものを表現4.時代性の表現 ひぐらしなら、作品ができてそこから様々な二次創作に広がっていくオートポイエーシス的側面にスポットが当たるのは理解できる。しかしそもそも、原作と二次創作という前に原作の向き合い方がこれほど多層化した要因を説明しておく必要はある。それは単に嗜好の問題では済まない。
メタフィクションかよ フィクションだったの? フィクションというか、ドッペルというか、足音がもう一つというか… まあどっちでもいいですがね…
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