ひぐらしのなく頃に 業:第18話の感想→様々なアナロジーや伏線について考えてみる

2021-02-06 12:55:55 | ひぐらし

急展開を予感させる第17話を経てあれこれ推理してみたが(「世界構造と勝利条件」「これまでの展開」)、今回は打って変わって静かな展開だった(ただし、数多くの暗示的な演出は見て取れる)。このあたりの緩急は実に上手いと感じたが、差し当たってここでは簡単な感想を記しておきたいと思う。なお、視聴していて気になった場面ごとにメモを取っているため話が前後するケースがある点ご了承を。

 

〇いきなり前話とは違う場面

銃を向けているという意味では前話と同じだが、場所も人物も違う(細かく言えば前話は発砲までには到っていない)。これは沙都子と鷹野のアナロジーだろうか?偽りの昭和58年(以下「昭和58年」と記述)においては、沙都子の強固な意思が世界の展開を規定していることを改めて示そうとしているのかもしれない。

 

〇番犬が全員離れるのはさすがに不自然では・・・

富竹の権限を細かくは覚えてないが、さすがに東京本部から言われたことが現場でいきなり覆るかはちょっと疑わしい(さすがに本部に確認取るやろ)。少なくとも、本部に照会している間二人くらいは鷹野の横にぴったり張り付くとかする可能性が高いと思われる(そもそも二人が一緒に行動することが多く、男女の仲になっている可能性くらい掴んでいるだろうし。すると富竹の言動も番犬からすれば全面的には信用できないはずだ)。

これは描き方がザルなのか、それともこの世界さえ偽りであることを示すのか。まあ後者は正直考え過ぎだと思うが果てさて・・・

 

〇自分の罪の重さに耐えられない

これは後々沙都子に重なってくるのだと思われるが、一つは「偽りの世界とはいえ何度も梨花を始め多くの人間を殺めた事」を意味し、そしてもう一つは、前に考察した「沙都子が自分の両親を殺したことを何らかのきっかけで知ってしまう」ことに繋がるのかもしれない(沙都子の暴走トリガーの主要因としてこれが最も想定しやすい。なぜならこの「悲しい事故」は、雛見沢に叔父夫婦が来ることへとつながり、それは最終的に悟史の凶行→悟史の失踪まで連動してしまうからだ)。

 

〇羽入が顕現している

少なくとも「昭和58年」とは違う世界線であることの明示になっている(逆に言えば、「ひぐらし 業」でループしているのはやはり「張りぼて」だということを暗示もする)。ただ、これって祭囃し編と完全に同じ場面てことでいいんだっけ??だとするとさっきの番犬のザルな動きは、やはり描写の稚拙さと考えるのが妥当かな。

 

〇OPのネクタイ外してるシルエットは沙都子じゃねーか!

今頃気づくorzこれまで何となく「雛見沢に来る前のレナ?それにしては何となくだけと雰囲気が違うような・・・」ぐらいに思ってたが、ようやくわかりましたよと。

 

〇1984年→祭囃し編から1年後の話

ただし、梨花が語る昭和63年(1988年)にはまだタイムラグあり。これがわざわざ描かれている以上、しつこいが「ひぐらし 業」のループする「昭和58年」は偽りの世界だと考えざるを得ず、それは昭和63年に何らかの事件・事故が起こって意識だけ飛ばされた世界か何かだと考えられる。

 

〇魅音いない

興宮の高校へ。高校が雛見沢にないからで、ここに特別な意味はないだろう。

 

〇委員長になって沙都子の悪戯に乗ってこなくなった圭一、部活ルールの変更(誰でも参加しやすいようになった)

沙都子が周りと少しずつ溝ができていくことを暗示している。圭一は委員長として魅音の後を継いで学校をまとめるという責任感、レナはそんな圭一におそらく好意を持っており(委員長になって凛々しさが出てきたこともある?)、梨花には目標がある、という何かしらの「新しい軸」を持っている部活メンバーとのギャップにも注目したい。

 

〇梨花の無邪気な言動と内面のギャップ

これは旧ひぐらしでも「昭和58年」でも繰り返し言及されていることだが、「人に見せている表面が本質とは限らない」。

 

〇雛見沢症候群完治!?

これは新しい現象として興味深い。ただ、「北条沙都子」の凶行を知っている状況では、これすら「フラグ」にしか見えてこないのも事実。即ち、「症候群も完治したから大丈夫だろう→これまでより放任→別の原因で精神状態悪化」というような具合だ。ここで精神疾患のことを詳述してもしょうがないという前提で書くなら、「心の病気は完全には治らない」とも言われている。要するに、普通に日常生活が送れるレベルに落ち着く(上手く付き合っていけるようになる)だけであって、それは間違っても「消滅した」ということではないのだ。その点からもこれは沙都子にとって喜ばしいことであると同時に、この後に来る窮状を予測させるものにも思えてしまうのである。

 

〇羽入の変化が症候群の緩懐に影響か

梨花の述懐によれば、羽入が人間を信頼できるようになったことが症候群が治ったり症状が治まったりすることに影響しているらしい。これは逆に言えば、羽入に何かしらの変化が生じた場合、またぞろ症状が悪化したり、あるいは雛見沢に集合的沸騰が起こりうることを示してもいそうだ。

 

〇梨花が園崎家当主と公由に直談判

これは二つの意図があると思われる。一つは、雛見沢全体が「開放的」で「良い」方向に向かおうとしていることを示す(部活のルール変更と重ね合わせてみるとわかりやすい)。もう一つは、梨花が決して自分のことだけ考えているわけではないことを暗示する(これまでの展開上、「梨花がとにかく雛見沢を出たがったことが沙都子の孤独感を誘発し、彼女の暴走を招いた」というように見ることもできなくはなかったが、そういう意図では描いてないですよ+そういった解釈は成り立たないですよ、という製作者側の意図を示す補助線とも言える)。

 

〇閉鎖性の否定+「祟り」なんてない発言

村の「空気」を変えるための演出。皆殺し編が実際そうだったように、これは必要な「儀式」だったとも言えるだろう。ただし、聴衆の表情からすると、これが正の反応ばかりを生み出していくのかはちょっと保留が必要にも感じられる。

なお、今回この話題を掘り下げるつもりはないが(近いうちに『全体主義の起源』絡みで書こうと思っているが)、今日においてもこの「儀式」を全く笑うことはできない。

それは「お上」への過剰な忖度や、あるいは社会の複雑性や他人の事情を踏まえない正義感の暴走(法の奴隷)であるわけだが、こういう事例は昨今の「自粛警察」を思い出すまでもなく、今日の日本社会になお根深くはびこっていることは容易に観察できる。あるいは、閉鎖的な組織であるがゆえにおかしな言動が許容されてきたらしい事例は、五輪組織委員長の救いがたく愚かな発言や、それが発せられた時の状況でのJOCメンバーの反応に見ることができる。

委員長が明らかに反発を生むであろう「個人的な意見」とやらを公の場面で世界に向けて発信したという愚かさも去ることながら(五輪憲章に反するという点でも反論・反発しかないし、それをこの微妙な時期に世界に向けてやり自らを危機に追い込むとは、まさしく「無能な味方は有能な敵よりも恐ろしい」の言葉通りである)、上の人間に忖度して問題を指摘しない・できないメンバーが周囲を固めることで、組織が硬直している様がつぶさに見て取れる。

というわけで、「ひぐらしのなく頃に 業」で描かれるこの場面は、岡崎京子の『秋の日は釣瓶落とし』や新井英樹『愛しのアイリーン』がそうであるように、21世紀になってもなお続く日本社会の性質を象徴していると言えるだろう。


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