「個性を尊重すべきだ」という考え方が、実は自己主張・説明能力の欠如と関係していることについて対話形式で述べる。
(登場人物) N=ヌルハチ H=ホンタイジ
H
「個性を尊重すべきだ」って考えをどう思う?
N
学校なんかでよく言われたりしているな。意味のない画一化を嫌っているお前さんもどちらかと言えば歓迎すべき意見なんじゃない?
H
まあね。様々な歴史的経緯を経て生まれた理念だろうから、そのものについて一度よく考えてみる価値はあると思う。だけど、俺が言いたいのは、これが半ば「教義」になってるの状況は問題じゃないかってことだ。
N
教義!?また随分と強い言葉を使うなあ。で、そう感じる根拠はあるの?
H
例えば集団に外れたことやってても、「それは~の個性だから」って言ったりするやん。
N
まあそれはそうだけど、ちと極端な例やないか?俺はその発言を今まで二回ぐらいしか聞いたことないぞ。それに何だかんだで集団としての行動は要求されるやろ。特に学校とかはな。あと学校関連で言ったら、運動会とかで順位をつけないっていう流れ何かもある意味「没個性」ってことにならんのかね?
H
確かに、「個性を尊重すべき」って考えが「教義」、つまり全てに優先するようなものだってのは言い過ぎかもしれない。でも、説明・コミュニケーション能力に対して、悪影響を及ぼしているんじゃないかと思うのよ。
N
個性の尊重がなぜそういう能力に絡んでくるんだ?
H
まず、もし個性があるがままに尊重されるべきだと考えるなら、個性を努力して理解してもらおうとする姿勢は生まれないんじゃないか?いやむしろ、自分がただあるがままで認めてもらえるし理解してもらえるという考えを助長し、結局は傍若無人な人間や、他者に自分を理解できる言葉で語れない人たち(極端に言えば電波系)を大量生産してしまうだけだと思うんだ。
N
つまりは理念が独り歩きしてしまって「自分の個性を人は(何はなくても)認めるべきであり、ゆえにそれを相手に詳しく説明したりする必要がない」という姿勢に繋がり、自分を相手にわかるよう説明する能力が発達しなくなってしまうわけか。でも日本人って自己主張が下手とかってよく言われてるから、他人に自分を説明する能力ってもともと低いんじゃないの?
H
今までが親和性の高い社会であったとすれば、それも無理はない。周りは似たような考えを持った人たちなんだから細かく説明する必要はないし、むしろ和に優先順位があるから自己主張は後回しにされるだろう。そんな社会に生きてきた人間が他人に自分を説明する能力が高いはずもない。ただ、ここが非常に重要なのだけど、社会は確実に変化している。豊かさを求める社会全体のベクトルが絶対的なものでなくなったことは言うに及ばず、結婚や職業を始めとして選択肢が増えたことによるライフスタイルの多様化と在日外国人の増加などによって、もはや単一的な価値観は日常生活のレベルでも通用しなくなってきている。この状況に対応するためには、戻れない親和性を求めるのではなく、説明能力を身につけていくしかないんだ(選択の自由を奨励する社会において親和性は薄まるしかない)。にもかかわらず、「個性を尊重すべきだ」という教義が邪魔をし続けている。本来的には、自分の個性を尊重してもらえるよう主張・説明する姿勢と相手の個性を尊重するという双方向的な努力の上に成り立っていたはずのものが、自分の個性をとにかく他人は尊重するべきという風にすりかわり、説明能力の欠如を助長するばかりかそれにお墨付きすら与えているんじゃないだろうか。
N
なるほど。どうもそれには共感とか「感情移入」という幻想も絡んでそうだな。「個性を尊重すべきだ」の原義を離れた理解と、共感・「感情移入」という幻想の二つが、今まさに必要とされている説明能力が身に付かない原因となっているというわけか。説明しない・できないでも許された中で生きてきて、でも実際の社会は価値観が多様化していて説明能力が必要になっているからギャップに戸惑って適応できない人間が増えていく……こう考えてみると、説明能力の不足・欠如は電波系とかだけじゃなく、引きこもりの発生などにも深く関係しているんだろうな。まあ何はともあれ、自分を他人が理解できるよう説明する能力を身につけていく訓練が必要だな。
H
でもそれを社会や学校教育が意識しないと、いつまで経っても状況は好転しないだろうなあ。そういう機会が少なければ、プレゼン能力とかが重要視されている実社会に適応できない人はますます増えていくだろうね。自分を説明できない人たち(=「狂人」)を大量生産するような仕組みは早急に変えていかないと。
N
確かに。もっとも、自分達を規定している常識といったものを説明できない人たちもある意味「狂人」だと思うけど。その意味では実社会も自分が狂っているとは気付かない「狂人」と電波系で一杯だがw
H
それを言っちゃあ……
(登場人物) N=ヌルハチ H=ホンタイジ
H
「個性を尊重すべきだ」って考えをどう思う?
N
学校なんかでよく言われたりしているな。意味のない画一化を嫌っているお前さんもどちらかと言えば歓迎すべき意見なんじゃない?
H
まあね。様々な歴史的経緯を経て生まれた理念だろうから、そのものについて一度よく考えてみる価値はあると思う。だけど、俺が言いたいのは、これが半ば「教義」になってるの状況は問題じゃないかってことだ。
N
教義!?また随分と強い言葉を使うなあ。で、そう感じる根拠はあるの?
H
例えば集団に外れたことやってても、「それは~の個性だから」って言ったりするやん。
N
まあそれはそうだけど、ちと極端な例やないか?俺はその発言を今まで二回ぐらいしか聞いたことないぞ。それに何だかんだで集団としての行動は要求されるやろ。特に学校とかはな。あと学校関連で言ったら、運動会とかで順位をつけないっていう流れ何かもある意味「没個性」ってことにならんのかね?
H
確かに、「個性を尊重すべき」って考えが「教義」、つまり全てに優先するようなものだってのは言い過ぎかもしれない。でも、説明・コミュニケーション能力に対して、悪影響を及ぼしているんじゃないかと思うのよ。
N
個性の尊重がなぜそういう能力に絡んでくるんだ?
H
まず、もし個性があるがままに尊重されるべきだと考えるなら、個性を努力して理解してもらおうとする姿勢は生まれないんじゃないか?いやむしろ、自分がただあるがままで認めてもらえるし理解してもらえるという考えを助長し、結局は傍若無人な人間や、他者に自分を理解できる言葉で語れない人たち(極端に言えば電波系)を大量生産してしまうだけだと思うんだ。
N
つまりは理念が独り歩きしてしまって「自分の個性を人は(何はなくても)認めるべきであり、ゆえにそれを相手に詳しく説明したりする必要がない」という姿勢に繋がり、自分を相手にわかるよう説明する能力が発達しなくなってしまうわけか。でも日本人って自己主張が下手とかってよく言われてるから、他人に自分を説明する能力ってもともと低いんじゃないの?
H
今までが親和性の高い社会であったとすれば、それも無理はない。周りは似たような考えを持った人たちなんだから細かく説明する必要はないし、むしろ和に優先順位があるから自己主張は後回しにされるだろう。そんな社会に生きてきた人間が他人に自分を説明する能力が高いはずもない。ただ、ここが非常に重要なのだけど、社会は確実に変化している。豊かさを求める社会全体のベクトルが絶対的なものでなくなったことは言うに及ばず、結婚や職業を始めとして選択肢が増えたことによるライフスタイルの多様化と在日外国人の増加などによって、もはや単一的な価値観は日常生活のレベルでも通用しなくなってきている。この状況に対応するためには、戻れない親和性を求めるのではなく、説明能力を身につけていくしかないんだ(選択の自由を奨励する社会において親和性は薄まるしかない)。にもかかわらず、「個性を尊重すべきだ」という教義が邪魔をし続けている。本来的には、自分の個性を尊重してもらえるよう主張・説明する姿勢と相手の個性を尊重するという双方向的な努力の上に成り立っていたはずのものが、自分の個性をとにかく他人は尊重するべきという風にすりかわり、説明能力の欠如を助長するばかりかそれにお墨付きすら与えているんじゃないだろうか。
N
なるほど。どうもそれには共感とか「感情移入」という幻想も絡んでそうだな。「個性を尊重すべきだ」の原義を離れた理解と、共感・「感情移入」という幻想の二つが、今まさに必要とされている説明能力が身に付かない原因となっているというわけか。説明しない・できないでも許された中で生きてきて、でも実際の社会は価値観が多様化していて説明能力が必要になっているからギャップに戸惑って適応できない人間が増えていく……こう考えてみると、説明能力の不足・欠如は電波系とかだけじゃなく、引きこもりの発生などにも深く関係しているんだろうな。まあ何はともあれ、自分を他人が理解できるよう説明する能力を身につけていく訓練が必要だな。
H
でもそれを社会や学校教育が意識しないと、いつまで経っても状況は好転しないだろうなあ。そういう機会が少なければ、プレゼン能力とかが重要視されている実社会に適応できない人はますます増えていくだろうね。自分を説明できない人たち(=「狂人」)を大量生産するような仕組みは早急に変えていかないと。
N
確かに。もっとも、自分達を規定している常識といったものを説明できない人たちもある意味「狂人」だと思うけど。その意味では実社会も自分が狂っているとは気付かない「狂人」と電波系で一杯だがw
H
それを言っちゃあ……
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