社会的規範、狂気、歴史性:『人間失格』へ向けて

2007-04-26 00:14:46 | 抽象的話題
私は常識や規範そのものを嫌っているのではない。その拠って立つところを考えず、平気でそれを人に押し付ける人間を憎むのである。


フーコーは、『狂気の歴史』の中で経験やイマージュそのものが狂気ではなく、それを「非理性的」「非論理的」に解釈する異様な言語活動が狂気なのだと述べている。この考え方によれば、他者に理解できない場合において始めて、狂気は成立することになる。


我々は、自分の感覚や感情をどれほど正確に把握しているのだろうか?また、他者に理解できる形で自らの経験やイマージュを語れるのだろうか?少し考えれば、それらが(自分自身のでさえも)いかに曖昧で説明不可能なものであるかをよく知っている。しかし、これをもって「人間というものはすべからく狂っている」と言うなら、あまりにも乱暴にすぎる結論だろう。要は相手に理解できればいいわけだから、何となく相手がわかったと言いそうな表現を身につければ万事問題はない。要するに、正確に語る必要はなく、理解できたと思わせればよいのである。


ところで、自らが拠って立つ常識・規範については説明できるだろうか?なるほどそれらも、理解が共有されているという点で説明の必要は無いかもしれない(その実態は往々にして「他と同じだから正しいはずだ」という集団幻想に過ぎないが)。しかし常識や規範は他者に強制されるがゆえに、同じ土台で論じることはできない。一体どのような精神構造によって、人は自分の理解できていない常識や規範を他者に平気で押し付けることができるのだろうか?それは、「常識は常識であるがゆえに正しい」という思い込みに他ならない。……狂気の度合が甚だしい狂人は、自分が狂っていることに気付かないという。してみれば、社会、あるいは「世間」とは、狂人によって成り立っているようなものだと言える。


このように言うと、あるいは常識・秩序・規範の大切さを主張する人が出てくるかもしれない。そもそも私は常識そのものを批判しているわけではなく、その中で無意識に生きる虚ろな人々を嫌悪しているだけなのだが、まあそれはいい。嫌っているのは彼らの倣岸さ?確かにそれもある。だが何より、その歴史性を考えない、滅んだ精神を私は憎んでいるのである。「今あるものこそが真理」…そのような無意識的な思いがなければ、常識などをその意味も理解せず人に押し付ける精神は生まれてこない。そして歴史性を考えない姿勢は、過去への粉飾を容易に受け入れる姿勢を生み出すだろう。


常識を疑うことを単なる秩序への挑戦としか考えない輩は一度考えてみるがよいのだ。常識を疑えない姿勢が実はどれほど多くの弊害を過去と現在に対してもたらしているのかを。彼らは横の関係しか見ておらず、縦の関係=歴史性を忘れている。(もっとも、横の関係でさえ「なぜ人を殺してはいけないのか?」が答えられないレベルにある人間が多い印象を受けるのだが)。しかし、ずっと前から続いてきたように思われる数々の規範や常識、法は、歴史的に作り出されてきたものでしかないのだ(というより、世情の変化を思えばそれが自然である)。


そんなことは当たり前だと思う人は、常識や規範の歴史性を今までどれだけ考えてきたかを思い返してみるがいい。いつの間にかそれらに埋没し、当然の真理のように思ってはいなかっただろうか(社会の動きを見るかぎりでは、残念ながらそういう方向性が往々にしてあるようだ)?


あるいは「所詮歴史など作られたものに過ぎない」と言う人がいるかもしれない。しかしその言をもって歴史を軽んじるなら、歴史がどれほど(良きにつけ悪しきにつけ)社会を動かしてきたか考えてみるとよい。過去への軽視は、社会に背を向けた考えでしかないと即座に理解するだろう。そして幸か不幸か、歴史学は世界に蔓延する数々の虚偽を切り裂く刄となっているのである(歴史学の社会的意義同2)。


常識や規範の拠って立つところを考えない人間には、それらの歴史性を知ろうという思考も生まれてこない。彼らは、虚偽の歴史に容易く騙されるていくであろう。その倣岸さで他者を巻き込みながら。
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