君望レビュー見てて思うこと

2005-12-22 03:02:56 | 君が望む永遠
孝之(主人公)が「へたれ」とか「究極の二股ゲーム」とか言われるが、なぜか根本的に重要な「生活」という要素には触れられない。なるほど従来の物語は「生活」という日常を二次的な要素として位置づけるのが一般的だが(それは虚構が日常からの脱却という側面を強く持っているから)、君望では行動が強く生活に規定されるというリアリズムのもとに話が構成されているのだ。例を挙げると、水月との間に持ち上がる結婚話が水月との複雑な関係を上手く表現しているし、生活費を自分で稼いでいる孝之にとって、見舞いに通いながらもバイトのシフトをこなさなければならず、それは孝之が追いつめられていく重要なポイントになっている。そういった生活の重圧の中で選択が行われているのだ、そういう前提に立って、鳴海孝之の行動を分析・評価する必要がある。

また蛍(看護婦)シナリオについては感動したorシナリオが変という評価があるのみで、その重要性については全く言及が無い。率直に言おう。人が死ぬのは蛍シナリオのみである。よく考えて欲しい。大事故や、精神的に極限まで追いつめられるシナリオがほとんどを占めるにもかかわらず、人が死ぬシナリオは一つもない。最悪でも昏睡である。であるならば、まずは「人の死」について君望がこだわりを持っていることが理解されるだろう。そうなって初めて、香月先生のセリフの重みが真の意味で理解できるようになるのだ。それはすなわち「人生生きていれば、何とかなるものよ」「ここで彼女に本心を教えれば、傷を負うことにはなる。でも傷は、時間が癒してくれるわ。けど誤った道を示してしたら、彼女は一生その道に沿ったまま生きることになる」(本文そのままではない)といったものだ。死にゆく者は選べない。生きていればこそ悩みもすれ進んでいくこのができるのだ。蛍シナリオのテーマと悲しみは、当たり前のことでありながら、いや当たり前だからこそ最も本質的な生きることの辛さ、有り難さなどを孝之たちに、そしてプレイヤーに伝えてくれるのである。この蛍シナリオの特殊性と主張を理解しないいかなる同シナリオ批評も、取るにたらないものと言わざるをえない。

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