歩いてみて「久しぶりだなぁ」と思い調べてみると、昨年このコースは雨で中止になっていました。梅雨明けが遅かったからねぇ。二年ぶり歩きます。
東京燃料林産
すごい薪の量ですね。このコースを歩き始めた20年前とはえらい違いで、都内に薪でピザを焼く店が増えたのだと思います。こちらの前をお借りしてストレッチをしますが土曜日は営業中なのでお邪魔にならないようこっそりと。
サルスベリ(大橋病院前)
サルスベリ(東仲橋付近)
ギボウシ
ミソハギ
ハンゲショウ
目黒川緑道を上流へ向かうと北沢川烏山川合流点にあたり、この日は北沢川をさかのぼります。ミソハギはお盆を思い出させ、ハンゲショウは「盛夏」のイメージがあります。
道路造成中
この道路についてWikipediaから引用してみましょう。
東京都道420号鮫洲大山線(とうきょうとどう420ごう さめずおおやません)は、東京都品川区八潮橋交差点と板橋区仲宿交差点を結ぶ特例都道である。狭隘区間が多く残るが、おおむね東京都道317号環状六号線(山手通り)と東京都道318号環状七号線(環七通り)の中間を通り、それらを補完する役割を担っている。「環状6.5号線」と呼称されることもある。
環状6.5号線としてタモリ倶楽部でツアーをしていたけど、あの番組以外で6.5号線との表記を見るとは思わなかったです。
ハイビスカス
サルスベリ(せせらぎ公園)
北沢川緑道を歩き淡島通りを越えました。
代沢小学校裏
ヤブミョウガ
緑道はだいたい舗装路ですが、代沢小学校裏の部分は未舗装になっています。環七を宮前橋交差点で横断します。環七沿いに大きなお屋敷のような森があり気になっていましたが、齋田記念館というそうです。記念館のサイトから長めに引用します。
◎齋田記念館
小田急線世田谷代田駅から隣駅梅ヶ丘にかけての地域は昔、代田村といい武蔵野の色濃く残る純農村地帯でした。代田八幡宮から南へのびる一帯は、小田急線敷設の昭和初年頃は近在に知られた梅林で、環状七号線が開通し、宅地化が進んだ昭和30年代頃まで残っていました。今は交通量も増え、宅地も過密化し、往時の面影を見ることはできませんが、そんな環七通り沿いに、豊かな緑を白壁が囲む一画があります。この白壁の間の石段を上ると、周囲の喧騒がまるで嘘のように、緑豊かな敷地の中に、齋田記念館がひっそりと佇んでいます。
◎齋田家
この齋田記念館の奥に、約千五百坪の敷地に約百五十坪の建物を有する齋田家があります。その建物は、昭和2年(1927)の震災復興計画によって環状七号線の敷設が決まり、敷地の東側を貫通するため、明治末期に焼失した旧宅の再建計画が立てられ、昭和6年(1931)3月に着工、同9年(1934)3月に落成したものです。当時においては最良の建築資材と技術を用いており、近代の数寄屋造りとして建築学的にも貴重なことから、平成8年(1996)に世田谷区の有形文化財に指定されました。
◎齋田家の歴史
齋田家は、木曽義仲の老臣の中原兼遠が遠祖と伝えられ、中世には世田谷城主・吉良氏の家臣となり、天正18年(1590)、吉良氏没落後にこの地に土着・帰農し、代田村開発の中心となった「代田七人衆」と呼ばれる旧家の一つです。江戸時代中期以降、開墾によって土地の所有が進んだこともあり、文政8年(1825)、八代平吉の時に、代田村の年寄役から名主となり、以後幕末までこの役を世襲しました。
◎齋田家の文芸
齋田家からは、江戸時代後期以降、学者や文人を輩出してきました。特に、八代平吉(1773-1852)は、最も優れた学者として知られています。幼年より学問を好み、儒学を叔父の山形藩秋元家の儒官齋田東城に、書を沢田東江に、詩を岡本花亭に学び、東野(とうや)と号して、後に一家をなしました。名主の傍ら、私塾「発蒙塾(はつもうじゅく)」を開き、江戸や近在の村々から彼を慕って入門した弟子たちの教育にもあたりました。
また、九代萬蔵(1801-1858)は、画に秀で、父と交遊のあった当時の高名な画家・大岡雲峰に学び、雲岱(うんたい)の号を授けられました。特に本草学に興味を持ち、動植物の精密な写生画を描き、谷文晁門下の画家たちとも交流して、先学の博物図譜の精巧な写しも遺しています。
更に、十代平太郎の妻・小枝子(さえこ/1825-1891)も、国学や和歌に秀で、近代世田谷の生んだ女流歌人として知られています。
◎齋田家の茶業
齋田家では、幕末、十代平太郎(1821-1875) が関西を視察し、生糸と並ぶ主要な輸出品であった茶の商品価値に注目し、私有の山林を開墾して茶の栽培を始め、また村民にも茶の栽培を勧めました。明治3年(1870)には伊勢から製茶師を招き、本格的に製茶を開始しましたが、明治8年(1875)、平太郎は志半ばで病没。その後、十一代又一郎(1858-1907)が父の後を継ぎ、熱心に製茶法を学んで技術改良に取り組み、齋田茶は内国勧業博覧会や万国博覧会で入賞するなど高い評価を受け、輸出も行いました。明治17年(1884)設立の荏原郡茶業組合では、又一郎が組合長に就任し、世田谷の茶業の発展に尽力しました。
ブドウ
宮前橋から環七の一本西側の道を南下します。美味しそうなブドウを実らせている家が複数軒ありました。
道路予定地
若林小学校
若林小学校のこの場所、以前はプールだったと思うのですが建て直したんですね。正門前の道は拡幅されるようですが、淡島通りの延伸かな。小学校のサイトから沿革を引用します。
世田谷区立若林小学校は、吉田松陰先生ゆかりの地「若林」にあり、世田谷区内で一番の歴史と伝統を 誇る学校です。 創立以来、明治、大正、昭和、平成の時代と共に歩み、数多くの卒業生を送り 出してきました。令和3年11月13日(土)には創立150周年記念式典が予定されており、佳節を皆で祝うための準備を進めています。 落ち着いた地域、恵まれた環境の中で、子どもたちは生き生きと学ぶことができます。そんな若林小学校の様子をご覧ください。
若林小学校の前身が太子堂郷学所で八雲小学校は太子堂郷学所分校です。分校と言ってもほぼ同時期の設立のようです。
若林公園
烏山川が削った傾斜地を利用した公園で、夏は涼しくていいです。井戸水は飲料不可ですが、冷たくて顔を洗うと気持ちがいい。
松陰神社
若林公園でストレッチをして神社は自由参拝ということになりましたが、皆さんご参拝されたようです。
この日熱中症情報は「厳重警戒」でしたが、日陰を選んで歩き快適とは言えないまでもつらいというほどではなかったと思います。熱中症には気を付けつつ運動を続けてゆきたいですね。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
東京燃料林産
すごい薪の量ですね。このコースを歩き始めた20年前とはえらい違いで、都内に薪でピザを焼く店が増えたのだと思います。こちらの前をお借りしてストレッチをしますが土曜日は営業中なのでお邪魔にならないようこっそりと。
サルスベリ(大橋病院前)
サルスベリ(東仲橋付近)
ギボウシ
ミソハギ
ハンゲショウ
目黒川緑道を上流へ向かうと北沢川烏山川合流点にあたり、この日は北沢川をさかのぼります。ミソハギはお盆を思い出させ、ハンゲショウは「盛夏」のイメージがあります。
道路造成中
この道路についてWikipediaから引用してみましょう。
東京都道420号鮫洲大山線(とうきょうとどう420ごう さめずおおやません)は、東京都品川区八潮橋交差点と板橋区仲宿交差点を結ぶ特例都道である。狭隘区間が多く残るが、おおむね東京都道317号環状六号線(山手通り)と東京都道318号環状七号線(環七通り)の中間を通り、それらを補完する役割を担っている。「環状6.5号線」と呼称されることもある。
環状6.5号線としてタモリ倶楽部でツアーをしていたけど、あの番組以外で6.5号線との表記を見るとは思わなかったです。
ハイビスカス
サルスベリ(せせらぎ公園)
北沢川緑道を歩き淡島通りを越えました。
代沢小学校裏
ヤブミョウガ
緑道はだいたい舗装路ですが、代沢小学校裏の部分は未舗装になっています。環七を宮前橋交差点で横断します。環七沿いに大きなお屋敷のような森があり気になっていましたが、齋田記念館というそうです。記念館のサイトから長めに引用します。
◎齋田記念館
小田急線世田谷代田駅から隣駅梅ヶ丘にかけての地域は昔、代田村といい武蔵野の色濃く残る純農村地帯でした。代田八幡宮から南へのびる一帯は、小田急線敷設の昭和初年頃は近在に知られた梅林で、環状七号線が開通し、宅地化が進んだ昭和30年代頃まで残っていました。今は交通量も増え、宅地も過密化し、往時の面影を見ることはできませんが、そんな環七通り沿いに、豊かな緑を白壁が囲む一画があります。この白壁の間の石段を上ると、周囲の喧騒がまるで嘘のように、緑豊かな敷地の中に、齋田記念館がひっそりと佇んでいます。
◎齋田家
この齋田記念館の奥に、約千五百坪の敷地に約百五十坪の建物を有する齋田家があります。その建物は、昭和2年(1927)の震災復興計画によって環状七号線の敷設が決まり、敷地の東側を貫通するため、明治末期に焼失した旧宅の再建計画が立てられ、昭和6年(1931)3月に着工、同9年(1934)3月に落成したものです。当時においては最良の建築資材と技術を用いており、近代の数寄屋造りとして建築学的にも貴重なことから、平成8年(1996)に世田谷区の有形文化財に指定されました。
◎齋田家の歴史
齋田家は、木曽義仲の老臣の中原兼遠が遠祖と伝えられ、中世には世田谷城主・吉良氏の家臣となり、天正18年(1590)、吉良氏没落後にこの地に土着・帰農し、代田村開発の中心となった「代田七人衆」と呼ばれる旧家の一つです。江戸時代中期以降、開墾によって土地の所有が進んだこともあり、文政8年(1825)、八代平吉の時に、代田村の年寄役から名主となり、以後幕末までこの役を世襲しました。
◎齋田家の文芸
齋田家からは、江戸時代後期以降、学者や文人を輩出してきました。特に、八代平吉(1773-1852)は、最も優れた学者として知られています。幼年より学問を好み、儒学を叔父の山形藩秋元家の儒官齋田東城に、書を沢田東江に、詩を岡本花亭に学び、東野(とうや)と号して、後に一家をなしました。名主の傍ら、私塾「発蒙塾(はつもうじゅく)」を開き、江戸や近在の村々から彼を慕って入門した弟子たちの教育にもあたりました。
また、九代萬蔵(1801-1858)は、画に秀で、父と交遊のあった当時の高名な画家・大岡雲峰に学び、雲岱(うんたい)の号を授けられました。特に本草学に興味を持ち、動植物の精密な写生画を描き、谷文晁門下の画家たちとも交流して、先学の博物図譜の精巧な写しも遺しています。
更に、十代平太郎の妻・小枝子(さえこ/1825-1891)も、国学や和歌に秀で、近代世田谷の生んだ女流歌人として知られています。
◎齋田家の茶業
齋田家では、幕末、十代平太郎(1821-1875) が関西を視察し、生糸と並ぶ主要な輸出品であった茶の商品価値に注目し、私有の山林を開墾して茶の栽培を始め、また村民にも茶の栽培を勧めました。明治3年(1870)には伊勢から製茶師を招き、本格的に製茶を開始しましたが、明治8年(1875)、平太郎は志半ばで病没。その後、十一代又一郎(1858-1907)が父の後を継ぎ、熱心に製茶法を学んで技術改良に取り組み、齋田茶は内国勧業博覧会や万国博覧会で入賞するなど高い評価を受け、輸出も行いました。明治17年(1884)設立の荏原郡茶業組合では、又一郎が組合長に就任し、世田谷の茶業の発展に尽力しました。
ブドウ
宮前橋から環七の一本西側の道を南下します。美味しそうなブドウを実らせている家が複数軒ありました。
道路予定地
若林小学校
若林小学校のこの場所、以前はプールだったと思うのですが建て直したんですね。正門前の道は拡幅されるようですが、淡島通りの延伸かな。小学校のサイトから沿革を引用します。
世田谷区立若林小学校は、吉田松陰先生ゆかりの地「若林」にあり、世田谷区内で一番の歴史と伝統を 誇る学校です。 創立以来、明治、大正、昭和、平成の時代と共に歩み、数多くの卒業生を送り 出してきました。令和3年11月13日(土)には創立150周年記念式典が予定されており、佳節を皆で祝うための準備を進めています。 落ち着いた地域、恵まれた環境の中で、子どもたちは生き生きと学ぶことができます。そんな若林小学校の様子をご覧ください。
若林小学校の前身が太子堂郷学所で八雲小学校は太子堂郷学所分校です。分校と言ってもほぼ同時期の設立のようです。
若林公園
烏山川が削った傾斜地を利用した公園で、夏は涼しくていいです。井戸水は飲料不可ですが、冷たくて顔を洗うと気持ちがいい。
松陰神社
若林公園でストレッチをして神社は自由参拝ということになりましたが、皆さんご参拝されたようです。
この日熱中症情報は「厳重警戒」でしたが、日陰を選んで歩き快適とは言えないまでもつらいというほどではなかったと思います。熱中症には気を付けつつ運動を続けてゆきたいですね。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
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