目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

【下見】文化財めぐり中目黒コース、続編

2019-02-04 14:23:57 | ウォーキング
祐天寺を出て、南へ向かうとすぐ谷になって祐天寺裏という五差路があります。バス通りになっているこの道は馬喰坂から続いている古くからある道で、谷戸前川沿いになります。目黒税務署方面から来る暗渠がありますが、古地図を見ると旧区役所方面から来る流れも書かれています。この川跡も機会があれば調べてみようと思います。


谷戸前川暗渠

自然園
中目黒5-12から20
 現在はバス停の「自然園下」にのみその名を残す「自然園」は、大正時代にあった自然を生かした健康増進施設です。
 当時このあたりは清流が流れ、田園風景が広がる、自然豊かな地域でした。農学者の岡見彦蔵は、人々が都会生活を健康的に営むためには自然と触れあう場所が必要であると考え、大正4 (1915)年頃に現在の中目黒5丁目12番から20番にあたる場所に、広さ8300坪ほどの「自然園」を開園 しました。
 園内には野菜やイチゴの畑が作られ、新鮮な作物を提供していました。ま た、走ったり寝転がったりして自由に自然に触れられる芝生の広場や、若者の憧れのスポーツであったテニスコートなども造りました。さらにヤギ牧場では当時珍重されたヤギのミルクを飲むこともできました。
 目黒地域の住宅化の進行に伴い、大正14 (1925)年頃には閉園とな りましたが、大正時代に、新しい思想に基づく健康増進に着目した施設が開 設されたことは注目すべき点です。
   平成24年3月
    目黒区教育委員会




菅沼権之助の墓
 中目黒-6-14
 菅沼権之助は、元禄の頃の中目黒田道に住み多くの人々に慕われていた名主です。
 その頃行人坂の急峻な坂道往来に苦労している人達を見かねて、掟を破り、幕府の許可を受けずに“新坂”を切り開いたので処刑されたと言われています。その行動は人々に惜しまれ今も権之助坂名にその名が残っています。
 権之助の墓はこの敷地内の奥の墓地に建っています。墓石には「元禄十年八月廿五日月桂光秋霊」(1697)という爽やかな戒名が刻まれ、郷土目黒の偉人として今も香華が絶えません。
    平成4年3月
     目黒区教育委員会


坂の名前に名を残していることは事実のようですが、新坂を切り開いた点について疑問の声が多いようです。Wikipediaの菅沼権之助の項目を引用します。
元禄時代の江戸近郊・中目黒村田道の名主。荷を運ぶ人が急坂の行人坂で苦労しているを気の毒に思って、緩やかな権之助坂を開いたとも、地域の貧しい百姓が重たい年貢で生活が苦しいのを気の毒に思って、幕府に年貢の軽減を嘆願したともいわれる。
刑死したが、無断で権之助坂を開いたことを幕府に咎められたとも、貧しい小作農のために年貢軽減を嘆願したことが罪に問われたともされる。年貢軽減説では、罪に問われ引き立てられる際に新坂の上から最後の別れと自分の家を望み、そのために権之助を慕う農民が新坂に権之助の名を付けたと言われる
権之助の話には異説もあり、異説では、実は名主などではなく坂を開いたわけでもなく強盗を働き処刑されたともされる。異説では罪人として引き立てられ晒された坂に名がついたとされる。しかし、権之助の墓は現在も目黒区中目黒5-6にある。強盗で刑死したのであれば当時の情勢では墓を作ることが許される可能性は低く、強盗は同名の別人で、おそらく菅沼権之助は人々のために働いて命を落とした義の人であろうとされる


品川区のホームページの記述はシンプルに説明しています。引用してみましょう。
 江戸中期、中目黒・田道にいた名主・菅沼権之助が村人のために年貢の取立てを緩めてもらおうと訴え出たため、罪に問われて死罪となってしまいました。刑に処せられる権之助は、当時「新坂」と呼ばれていたこの坂の上から我が家を振り返り、刑場に引かれていったそうです。村に尽くした功績をたたえて、この坂を「権之助坂」を呼ぶようになったと云われています。
 また一説では、当時の道路(前述の「目黒道」)は江戸市中から白金を通り、行人坂を下って太鼓橋を渡り大鳥神社に抜けていましたが、行人坂があまりに険しく通行人が難儀していました。見かねた権之助が私財を投じて新しい坂を切り開きましたが、当時は江戸城を守る観点から勝手に道を作ることが禁じられており、権之助は事前に許可を取らなかったために、罪に問われて死罪に処せられたとも云われています。


説明版の「史跡」が消されています。誤って書かれていたわけではなく、何らかの事実が判明して史跡ではなくなったのでしょうか?けれどお話としては「新坂を開削した」が面白そうなので、そういうことにしておきましょう。


松風園の道?
古地図を見るとこの場所に道はなく驪山荘(りざんそう)となっています。松風園住宅として開発されたときに新たに作られた道だと思います。




長泉院
 中目黒4-12-19
 長泉院は浄土宗の律院として、宝暦11(1761)に増上寺45世の大玄和尚を開山として建てられました。
 名前の由来は、「山間より清泉湧出して、境内を続り流るるゆえに、長泉の号あり」と「江戸名所図会」にあります。
 現在境内には、江戸時代後期の儒者松崎慊堂の墓(都指定文化財)などがあります。

普寂徳門自筆仏典注釈書
  区指定文化財(昭和55年9月9日指定)
 普寂徳門(ふじゃくとくもん)は宝永4(1707)年、伊勢国桑名に生まれました。長じて京に出て学び、また諸国を遍歴しながら広く仏教を学びます。その後、近江や京都などで多くの僧に仏典を講じ、宝暦13(1763)年に長泉院に招かれました。徳門は仏教学への造詣が深く、宗派にとらわれない広い視野に立った論説を展開しました。長泉院には徳門の記した多くの注釈書のうち、5種28冊が残されています。それらは華厳宗および天台宗の典籍の注釈書で、徳門の自筆本として大変貴重なものです。
徳門は天明元(1781)年に没し、当寺の墓地に葬られました。
   平成17年10月
    目黒区教育委員会

















現代彫刻美術館
あまりゆっくり見たことがなかったのですが、たいしたものです。「中学生以下の方は保護者の同伴が必要です」とありますが、中学生には刺激が強い?



中目黒南緑地公園
薄氷が張っていますが、台地の縁に湧き出す湧水と思われます。ガスタンクがあった時からこのように水が溜まっていたのでしょう。


松風園ハイツコーポ
古地図で見る驪山荘は鍋ころ坂より北側になっているので、驪山荘を箱根土地株式会社(後の国土計画)が入手して松風園住宅を開発したという話とつながりません。また、ガスタンクになった経緯もわからず、さらに研究が必要です。驪山荘が2万4千坪で、松風園が2万1千坪ということなので、ほぼ一致しているのかな?それにしても西郷従道侯爵邸跡地28万5千坪って、どれだけ広かったんだか。


目黒大使公邸

八幡公園
八幡神社が近くにあるだけでなく、地名も大字中目黒字八幡でした。


中目黒八幡神社

さざれ石

手水

八幡神社拝殿

中目黒八幡神社
  中目黒3-10-5
 旧中目黒村全体の鎮守で、誉田別命(応神天皇)を主神とし、天照大神を合祀しています。
 創建以来、幾度か火災にあい記録や資料に乏しく、創建年代は不明です。現在の建物は堂々とした八棟づくりで昭和11年9月の落成です。
 この神社は昔から十二座の神楽を奏することで有名で、今でも毎年9月の例大祭(第3の土、日)には演目十二座の神楽が奏されています。
 本殿の左側に神社の縁起などが刻まれている八幡神社の碑がありますが、文字には書道の大家豊道春海先生の書かれたものです。
 また境内には高さ30mをこえる榎の名木や、いちょう、けやき、しいなどの古木が茂り、泉が湧き出ている静寂な環境をつくっています。
   平成3年3月
    目黒区教育委員会





天祖神社
  上目黒2-32-15
 古くから伊勢森と言うこの地に鎮座している神社で、天照大神を祭神として祀り、地元人の深い崇敬を受けています。創建の年代は不明ですが、境内には樹齢数百年と推定される老樹が多く、その年代から考えてもかなり古い時代の創建と思われます。
 現在の社殿は昭和8年5月に新築されたものです。毎年9月の第1土日に例大祭が行われ、現伊勢脇町会、現祐天寺町会員が氏子として祭事を行っています。なお、本殿右奥には神輿蔵があり、一年中宮神輿が見学できます。
 境内には、宝永5(1708)年と、道標をかねている享保元(1716)年の2基の庚申塔が建立されています。(目黒区教育委員会掲示より)



目黒区総合庁舎
古地図でこの場所はほとんど農地でわずかに宅地がある程度です。聞いた話を総合すると江戸時代は入会地で、北向きの斜面なので葦などが生い茂り屋根の材料になったと思われます。明治時代になり牛乳の需要が高まり牧場になり、昭和2年にアメリカンスクールとなりました。昭和32年に千代田生命が買い取り、この建物が出来たのは昭和41年6月です。Wikipediaから引用します。
現庁舎はかつて村野藤吾の設計による、旧千代田生命保険本社ビル(1966年)で、外壁の白色アルミ鋳物製ルーバーが印象的な建築物で、1969年にBCS賞(第10回)を受賞している。
2000年10月に千代田生命保険が、更生特例法の適用を申請し破綻した。管財人は目黒区に本社敷地・建物の売却を打診した。
かねてから区役所庁舎の手狭化に直面していた区は、この物件を取得し新庁舎として大規模に改修を行った。
総合庁舎には、他に目黒区保健所、東京都目黒区都税事務所が入居している。 


文化財めぐり中目黒のブログが二部にわたる大作になるとは思いませんでした。郷土の歴史、知れば知るほど面白いですね。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


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