4月8日、新宿花園神社近くの歯科医院へ行った後、気になっていた勢揃い坂や第十八回将軍お鷹狩りウォークの候補となるコースを下見しました。
玉川上水の碑
玉川上水
玉川上水は幕府が江戸市中の拡大発展と人口の増加にともなう水不足を解消するために、承応二年(1653)から翌三年(1654)にかけて開削した水路である。
上水は多摩川の羽村に堰を設けて取水し、ここ内藤新宿の水番所までの四十三キロメートルは掘割で、ここより江戸市中へは地下に石樋、木樋といった水道管を埋設して給水した。また途中三十余ヶ所で分水され、武蔵野台地の新田開発に利用された。
工事は江戸の町人である庄右衛門(しょうえもん)、清右衛門(せいえもん)が請負い、川越藩主松平信綱が総奉行を、関東郡代伊奈忠治が水道奉行を命ぜられ、これを監督した。
玉川上水の工事は、途中幾多の困難に遭遇したが、川越藩士、安松金右衛門の協力もあり、一年五ヶ月程という、短期間で完成した。
掘削りによってでた土砂は掘割の両側に堤として積み上げ、桜並木などをつくり(小金井など)、当時の江戸の人々の行楽の場所となった。
平成三十年三月 新宿区教育委員会
ハナニラ
内藤町けやき公園のけやき
この公園にあるけやきは、幹の直径が1m以上もある区内でも有数の大木です。
この木は、昭和51年に新宿区みどりの文化財(保護樹木)に指定され、長い間、木の所有者が大切に世話して来ました。また、この付近の自然環境は、新宿御苑のみどりと一体化し、この木も内藤町の住民に長く親しまれてきました。
その後、平成16年、土地所有者が変わりけやきが失われる懸念が生じましたが、この街の良好な住環境を守ろうと活動する内藤町の住民の熱意と努力で、この木は現在の姿を保つこととなりました。
そして、新宿区はこの土地を取得し、内藤町の住民の意見を取り入れ、新たにけやきをシンボルとした公園に整備しました。
平成22年12月 新宿区
新宿御苑正門の大木
正門と新宿上空を飛ぶ旅客機
試験飛行が行われていましたが、三月末から新宿や渋谷の上空を羽田に着陸する飛行機が飛ぶようになりました。
外苑西通りのちょっと変わった建物
新築の大規模住宅と飛行機
ことり食堂のツタがからまるビル
大規模住宅
ジャパン・スポーツ・オリンピック・スクエアの隣に大規模住宅がほぼ完成間近でした。オリンピックスクエアからこの住宅わきを抜けることが出来そうで、将来のお鷹狩コースとして面白いかもしれません。
國學院高校勢揃坂門
勢揃坂
神宮前二丁目2番
ここのゆるい勾配の坂を 勢揃坂といい、渋谷区内に残っている古道のひとつです。
後三年の役 -- 永保三年(1083)に八幡太郎義家が奥州征伐にむかうとき、ここで軍勢を揃えて出陣して行ったといわれ、この名が残されております。
このとき従軍した武士のなかに、桓武平氏良文の嫡流にあたる秩父十郎武綱(渋谷氏等の祖)が参陣して、手柄をたてたという伝説があります。
真偽についてはもちろんわかりませんが、区内に伝わる源氏に関する伝説のひとつとして注目されます。
渋谷区教育委員会
今回下見をしたかった場所の一つで、すこやか歩こう会のコースに組み入れた後将来のお鷹狩りのルートとして考えています。
青山熊野神社
青山霊園
外人墓地
青山霊園内は以前お鷹狩りでルートに設定したことがあり、ルートにする場合は車が走るこの道ではなく一本東の郵便通りを設定します。今回距離を確認したところ長くなりすぎてしまうので、青山墓地は断念です。
コバンソウとスズメノエンドウ
青山の庚申塔
港区指定文化財 歴史資料 青山の庚申塔
本庚申塔は、高さ103cm、最大幅94cm、最大厚17cm、安山岩(根府川石)で作成されています。石塔の形態は板状の「自然石形」を呈し、下部の一部は地中に埋まっています。銘文は正面に「庚申塔」と刻まれており、その下に花押がありますが、揮毫した人物は未詳です。その右側には「慶應元乙丑年」、左側には「五月大祥吉日」とあり、慶応元年(1865)五月に造立されたものであることがわかります。さらにその右側には、一部剥離していますが、「右 あをやま 内とうしん[宿] ほりのう[ち]」、左側には「左二十きおくみ屋「敷ヵ] 百人おくみ屋[敷ヵ] ぜんこ[うじ]」と刻まれており、この庚申塔が「右 青山・内藤新宿・堀之内」、「左 二十騎組屋敷・百人組屋敷・善光寺」の方向を示す道標の役割も果たしていたと考えられます。
また、この地域では昭和初期まで庚申祭(庚申講)が行われていたと伝えられていますが、この庚申塔はそうした民間信仰が江戸時代に遡ることを示す貴重な資料です。
平成27年10月14日 港区教育委員会
根津美術館の道を美術館へ行かず青山霊園建山地区の脇の坂を下りて長谷寺へ向かうルートを確認してこの庚申塔を見つけました。
長谷寺(ちょうこくじ)
青山高樹町の由来
由来
本町域は、かつての下渋谷村のうちであるが、徳川家康の入国直後から武家地となったものである。江戸府内中心部より遠い割合にはたいへん早い。すなわち現町域の大部分は丹南藩高木邸、南の一角は牛久藩山口邸の一部であって、高木氏賜邸は天正十八年(1590)中と推定されている。
元禄十年(1697)には高木邸内一万坪を幕臣への給地のため上げ地とした。それでも広い屋敷で、この屋敷から切り出す薪は毎日七十駄におよんだほどである。
現在の電車通りは当時屋敷内を北方の百人組屋敷より来る道であって、里俗に主水町(高木主水正による)と呼んでおり、また姓の方をとって高木町と呼ぶこともあった。明治五年七月、木の字を改めて高樹町という一町を起立した。
主水町の俗称は明治になっても残り、そのあたり多少商店ができたが、だいたい閑静な住宅地となった。この町況は今日も変わりなく、区内でも代表的な邸宅街となっている。ただ電車通り沿いは商店などが並んでいる。
港区史 上巻(昭和35年3月15日発行)より
※「電車通り」は現在の骨董通りのことです。
実践女子大学
ベルサール渋谷ファースト
新設された首都高下り渋谷入口
実践女子大学はいつも裏からしか見てないので撮ってみました。ベルサール渋谷ファーストは確定申告の相談会などが行われるのでどんな場所か見てみましたが、トイレを借りるのは難しそうな単なるオフィスビルです。
渋谷山東福寺
金王八幡宮
豊栄稲荷神社(とよさかいなりじんじゃ)
日本古来からある神社は訓読み、お寺は音読みと習っていたので「豊栄稲荷神社」は読めませんでした。金王は「こん」が訓読みで「のう(おう)」は音読みで、湯桶読みです。
今回のお鷹狩りでは変わりゆく渋谷を見てもらおうと思って、金王神社経由に挑戦です。
渋谷ブリッジ
シャクナゲ
東横線の線路跡地に建てられた渋谷ブリッジは鉄道に関連したデザインが多く用いられているのですが、天井に線路があることには気づきませんでした。
今年も楽しくお鷹狩りウォークを歩けることを祈るばかりです。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
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