日本画の窮極は、
この気韻生動に帰着する
――横山大観(日本画家)
集まった日本美術院の研究生たちのまえに、二枚の絵が置かれていた。いずれも牡丹の絵で、一枚は現代作家によるもの、もう一枚は俵屋宗達のものだった。二枚の絵をはじめて見る理学博士の講師がいった。最初の絵は自然の法則どおりに描いてあるが、おしいことに病気にかかっている。華麗な姿だが、もう一日もすれば枯れてしまうだろう。二枚目の絵は花弁の葉柄も正確に描かれていないが、いかにも健康な牡丹らしい。
いたずらに形に捉われる写実は花の真髄を描ききれない、絵には「気韻生動」が不可欠だと横山大観はいう。気韻とは、牡丹を見る画家の心の動きとその表現にこめた力である。
気韻とは、高い天分と教養をもった人品の高い人だけが発揮できるもの、そう大観はつけくわえた。「今の世にいかに職人の絵が、またその美術が横行しているかを考えた時、肌の寒さを覚えるのは、ただ私だけではありますまい」とも書いた。
この気韻生動に帰着する
――横山大観(日本画家)
集まった日本美術院の研究生たちのまえに、二枚の絵が置かれていた。いずれも牡丹の絵で、一枚は現代作家によるもの、もう一枚は俵屋宗達のものだった。二枚の絵をはじめて見る理学博士の講師がいった。最初の絵は自然の法則どおりに描いてあるが、おしいことに病気にかかっている。華麗な姿だが、もう一日もすれば枯れてしまうだろう。二枚目の絵は花弁の葉柄も正確に描かれていないが、いかにも健康な牡丹らしい。
いたずらに形に捉われる写実は花の真髄を描ききれない、絵には「気韻生動」が不可欠だと横山大観はいう。気韻とは、牡丹を見る画家の心の動きとその表現にこめた力である。
気韻とは、高い天分と教養をもった人品の高い人だけが発揮できるもの、そう大観はつけくわえた。「今の世にいかに職人の絵が、またその美術が横行しているかを考えた時、肌の寒さを覚えるのは、ただ私だけではありますまい」とも書いた。