負けるな知的中高年◆本ときどき花のちコンピュータ

「知の崩壊」とかいって、いつの間にか世の中すっかり溶けてしまった。
「知」の復権に知的中高年よ、立ち上がれ!

竹は日本の産業革命を起こして独自の文化を支えた

2005年01月16日 | 詞花日暦
日本のタケは、植物の中でも
特異な役割を果たしてきた
――沖浦和光(桃山学院大名誉教授)

 寒のさなかでも、竹だけは緑の葉を茂らせ、旺盛な生命力を誇示している。数百種といわれる竹の代表・真竹の原産地は鹿児島県。吹上浜の砂丘で知られた現在の加世田市辺りで、南から移住してきた阿多隼人が伝えた。薩摩隼人はずっと後世の呼び名である。
 律令国家に反抗し、隼人の乱を起こしたが、服従した阿多隼人は大和に移住した。現在の吉野川流域にある奈良県五条市阿田地区で、かつては大阿太村だった。阿陀比売神社もある。そういえば、この辺り、釣竿の生産が有名だったように、彼らは竹製品を生業にした。
 古代から中世初期の日本には、まだ南九州を除いて竹林はなかったという。阿多隼人の移住が近畿一帯に竹と製品を普及させ、生活用品や建材から、楽器や武器まで、竹の産業革命を担った。茶の湯を通して日本文化を創った利休考案の茶杓や花器も、こうした流れのなかに生まれた。その竹を見捨てたいまの日本は、竹林の繁殖に手を焼き始めてさえいる。もったいない話である。

山形県の黒川能は世阿弥が先祖返りした体験をさせる

2005年01月15日 | 詞花日暦
黒川能は大成後のまだ素朴な能の
形容をよく残すといわれる
――児玉信(能楽評論家)

 月山の麓、山形県櫛引町の黒川能は、五百年前から伝わる地方芸能として有名。町の春日大社の神事能として、雪深い冬の社殿で舞われる。屋外でも「水炎の能」などが披露される。能に関わる氏子一六○人、能面二三○点、能装束四○○点、演目数五四○番と偉容を誇っている。
 現地で薪能の「船弁慶」「小鍛冶」を観た。冒頭、橋掛りから静かに登場する演者たちを見て驚いた。五流能の舞台では、ほとんどの演者が色白で太り肉の艶やかな顔立ちをしている。が、黒川能では皺を刻み、日に焼けた顔。驚くことでもないが、世阿弥以前の古い能を観た気がした。
 数百年間、伝統に純粋培養された専門職がそこにはいない。能自体が年月を越えて古い姿に立ち返っている驚きがあった。猿楽や田楽から踏み出したばかりの演能が甦る新鮮さがあった。都市化されない人々の情念がそのまま立ち上がっている。おりしも「小鍛冶」の後シテ、狐の神が舞うさなか、空が一転掻き曇り、やがて激しい風雨が燃える薪の炎に吹き荒れた。

満開の桜より雪に埋もれた桜木を愛する人がいる

2005年01月14日 | 詞花日暦
春がくれば桜花にとりまかれるが、
なぜか私は冬の景色を好む
――水上勉(作家)

 十代のなかば、寺の小僧だった水上勉は、京都・衣笠山の等持院から嵯峨野の天竜寺まで和尚のうしろをとぼとぼと歩いた。足袋もはかず、雪の吹雪く広沢池の泥道を凍えながら歩いた。池畔にたくさんの桜があった。植木職を営む佐野藤右衛門の桜で、円山公園のしだれ桜を植えた人として有名。百種の桜の苗は葉を落として雪のなかに沈んでいた。水上はこの花もない冬の景色をなぜか好んだ。
 北の海に面した若狭湾から、内陸の狭い谷を半里ばかりさかのぼると、彼の生まれた村がある。低い山間の谷地で、生家跡は西の山すそにある。当時はコジキ谷と呼ばれた。「藁ぶき屋根の小舎」は冬になると雪に埋まった。
 じっと春を待つ桜木に水上は自分を感じたのだろう。「樹のいのちは人のいのちの裏打ちである」書いた。春の満開の桜だけではない、自然のままに生きる冬の桜に思いを馳せる人がいることを忘れたくない。

「神の宣託」という名の巨大なソフトウエア会社がある

2005年01月13日 | 詞花日暦
データベースを作るのは簡単ではない……
当社に追いつくには何年も努力が必要だ
――L・エリソン(オラクルCEO)

 神の宣託という意味を持つ「オラクル」の社名は、一般にはなじみがないだろうか。マイクロソフト社に次ぐ売上げ第二位のソフトウエア開発会社で、データベース分野に特化した技術で急成長を遂げた。日本の大手企業や官公庁のほとんどが、その製品を採用している。
 会長のエリソンが「技術とビジネスの未来」を予感して開発したリレーショナル・データベース(RDB)は、だからワープロや表計算ソフトの比ではない利用効果を上げている。隠れて見えないが、人々の日常生活にそっと忍び寄ってさえいる。
 RDBは多様な情報を相互連結し、情報を蓄積・管理する。たとえば個人のなまえを打ち込むと、住所、生年月日、家族構成から、預金口座、カード利用状況、犯罪歴、交友関係などまで、あらゆる情報が手に取るようにわかる。技術の高さを誇るエリソンが受けた神の宣託は、使い方によると、国民を支配する情報管理にもなる教えであった。なんとも冷酷な神の宣託である。

小鹿田焼の陶工は無邪気に他人のデザインをまねた

2005年01月12日 | 詞花日暦
焼き物の形と模様が真似されているの見て、
むしろ怖くなった
――バーナード・リーチ(陶芸家)

 昭和二十八年、イギリスの陶芸家バーナード・リーチは、作陶のため大分県日田の小鹿田(おんた)に滞在した。素朴な焼き物で知られた山間の地である。彼が驚いたのは、村人たちが平気で自分のつくる焼きものをそっくりまねたことである。十九世紀の産業革命や個人主義とともに育ったリーチには、当然、デザインの所有権意識がある。が、日本人の彼らには無邪気なほどそれが欠落していた。
 リーチはその無神経さをなじったのではない。彼の心配は、素朴な共同体がいずれ消えるとき、日本の民芸はどうなるのか。おりしも当時の日本全体が欧米の「模倣」に明け暮れていた。権利意識が西欧から押し付けられるとき、その圧力で民芸は支柱を失う。
 山間の農民から生まれた水差、碗、湯たんぽ、酒器、醤油差などには、西洋人の自分がつくる陶器よりはるかに素朴な美しさがある。近代主義とはそんな支柱を奪い去る。リーチが怖くなったのはこの一事だった。もしリーチが生きていたら、いまでも日本人は「体に合わない着物を着ている」と言うことだろう。

安部公房といういまは読まれない作家は現代の預言者だった

2005年01月11日 | 詞花日暦
だいたい《技術》対《人間》という二元論が、
ぼくにはうさん臭く思われる
――安部公房(作家)

 安部公房の文学ほど、日本人の湿潤な叙情的感性や伝統的な美意識から遠いものはない。その意味で日本の文学史上、すぐれて前衛的であった。早くから海外でよく読まれたのもそのため。日本の作家たちがほとんど避けて通った科学・技術的リアリズムで世界を捉えた新しさがあった。
 地震と津波による陸地の水没に備え、海底牧場をつくる近未来が描かれた『第四間氷期』もその一例。未来を予測するコンピュータや人間を含めた動物を水棲動物に転化する科学技術が描かれる。だが、SFにありがちな科学技術の否定も礼賛もここにはない。「『技術礼賛』の夢がすでに色あせてしまったように、『反技術主義』もほとんど有効性のない老人の愚痴にしか聞えません」ということばにその独創性がよく表れている。
 同時にそれは二十一世紀の人類や地球が陥る破局(アポカリプス)の預言でもあった。もし地球の温暖化や地震がもたらす方向を知りたければ、せめて『第四間氷期』くらい読むといい。企業の利潤追求、国家のエゴイズム、産業の軍事化を問うだけではない。索漠とした技術リアリズムの中に人々がどこかで不安を感じている近未来があからさまに浮かび上がってくる。

リンゴの「皮を磨く」と「皮をむく」のでは大違い

2005年01月10日 | 詞花日暦
リンゴは皮ごと絞ると、全体に薄い
紅色がつき、変色が気になりません
――斎藤義政(銀座千疋屋社長)

 一六六六年、ニュートンはロンドンの大火や前年のペストを逃れて、生家のウールスソープに帰った。庭先のリンゴが落ちるのを見て、引力の法則を発見する逸話は、子供向きの本でよく知られている。
 ラテン系の民族がブドウ酒を好んだのに対し、「アングロサクソン民族はリンゴ酒が大好物」で、栽培や品種改良に熱心だった。「イギリスは十九世紀には世界で第一位のリンゴ生産国」。もっとも、ウールスソープで見たリンゴは、野生をはるかに越えた日本の改良品種が持つ豪華絢爛とはほど遠い。素朴な小ぶりのリンゴだった。
 朝は金といわれるリンゴを毎朝すりおろして食べたい。上質の自然な酸味が寝起きの気分を爽快にする。ただし、皮はむく。ポストハーベストのアメリカ産はなおのこと。催奇形性農薬などの恐れがある。リンゴの表面を拭いても間に合わない。英語の「リンゴを磨く」の慣用句は媚びへつらうという意味がある。大量生産の農産物には、どこか磨き上げて消費者に媚びている印象がつきまとう。

若い斉藤茂吉はものまねの歌でその師に叱責された

2005年01月09日 | 詞花日暦
木のもとに臥せる佛をうちかこみ
象蛇どもの泣き居るところ
――斎藤茂吉(歌人)

 斎藤茂吉が本格的に短歌の道へ入ったのは、二十三歳。斎藤家の婿養子になり、東京帝大医科大学に入学したときである。神田小川町の貸本屋で正岡子規遺稿第一編「竹の里塚」を借りてからだった。一読後、かつての歌人にない清新さに驚嘆し、これなら自分でも歌が詠めると歌作に入った。
 彼は子規の歌を写して、繰り返し読み、模倣の歌をつくった。引用の歌もどこか子規の作風を思わせる。子規系統の歌をつくるなら、伊藤左千夫に師事するがいいと友人が教えてくれた。
 左千夫が主催する「馬酔木」に投稿した二十五歳の茂吉は、「決して人の真似などせぬ様願いたい」とはがきをもらった。ぴしりと響くきびしい鞭だった。のちに短歌界の巨峰となった茂吉ですら、歌は模倣から始まった。一方に弟子の個性・習癖を排除せず、伸ばそうとする師がいた。一人の天才から歌は生まれない。

「紙漉きはソロバンはじくな」とその男は言いつづけた

2005年01月08日 | 詞花日暦
おれの紙はこれではない
これをやるとまえの紙漉きにもどれなくなる
――遠藤忠雄(紙漉き)

 和紙が日常生活に欠かせなかった江戸時代から昭和はじめまで、宮城県白石は白石和紙の産地として東北一帯に君臨した。大正時代のはじめでも約三百軒の紙漉き農家があった。しかしどの産地でも起きたように、白石にも近代化の波が押し寄せた。紙の大量生産技術が西洋からもたらされ、洋紙の生産が主流になると、和紙の需要が低下した。一方で都市の労働力不足から出稼ぎがふえ、紙漉き農家は減少の一途をたどる。
 太平洋戦争直後、物資の不足からこんなことがあった。国のお役所の指導で和紙の原料であるコウゾにパルプを混ぜ、漂白剤で白くし、量産化をすすめる講習会が開かれた。三、四倍の増産という触れ込みに、まだ十軒ほど残っていた和紙農家が飛びついた。
 たった一軒だけ講習に参加しない家があった。当主の遠藤忠雄はいった。「おれの紙はこれではない。これをやるとまえの紙漉きにもどれなくなる。紙漉きはソロバンはじくな」。遠藤の脳裏には、白石一帯でとれ、ずっと使いつづけてきた原料のコウゾがあった。この土地特有の細く、長く、柔らかい繊維は白石でしかつくれない良質の和紙を生んだ。大気にさらすとみごとに白くなり、ふすま紙など張り替えてしばらくすると次第に白さを増す。
 このすぐれた和紙がなくなるのを遠藤は恐れた。「紙が全国共通になるのはつまらない。産地ごとの特徴があってはじめておもしろい」ともいった。彼が参加しなかった講習会による新しい和紙は、最初の年だけ売れた。二、三年たつと、見向きもされない。わずかに残った和紙農家はこのため一挙に廃業した。白石和紙の伝統を受け継ぐのは、遠藤家だけである。ソロバンをはじかない実直な手作業が、とだえようとした伝統技術の結晶をいまも守っている。

生き残ったのはありふれたすき方の和紙であった

2005年01月07日 | 詞花日暦
きびしい自然環境に耐え、いい紙をすく、
それだけが、黒谷の人たちの願いだった
――中村元(黒谷和紙振興会)

 和紙すきは冬の寒い季節に行われる。黒谷は京都府の中でも日本海に近い。東舞鶴から山間に入った戸数五十七の小さな集落である。原料のコウゾは寒い冬に刈られ、谷川の冷たい水に浸される。さらに冷水に溶かされて、「舟」と呼ばれる大きな容器から掬い上げられる。かじかむ両手を凍てつく水に浸けての作業である。
「どこの産地とも変ったところはありません。ありふれたコウゾで、普通に使われる和紙をすいてきました。ささやかに、あたりまえのことを繰り返してきただけです」。江戸時代、文書の記録、障子やふすま、から傘などの材料として近くの京都へ供給された。
 長い歴史のなか、機械化や化学薬品の使用にも目を向けなかった。ささやかに、あたりまえにつくりつづけた。その黒谷の和紙が、国宝桂離宮、京都御所、ワシントン日本大使館などに使われている。あたりまえのことを継続させることは、やさしいようでやさしくない。

時代に遅れている人ほどいい仕事ができる

2005年01月06日 | 詞花日暦
時代感覚に即応できない鈍感さも、
一概にマイナスばかりではなかった
――家永三郎(歴史学者)

 家永三郎が生まれた大正二年、熊本県八代に転勤した軍人の父は、現役から予備役に退いた。姉の病気などで、家の貧しさが身にしみたという。幼い三郎も病身だった。
 東京の学校では、数学や工作が苦手、運動音痴、休学のおおい落ちこぼれだった。読書と作文が好きだったが、中学時代の詩は島崎藤村をまねた時代遅れのもの。小学校からつづいた天皇制道徳もそのまま受け入れていた。昭和六年に入学した東京高等学校では、流行のマルクス主義に衝撃を受けながらのめりこめなかった。
 いつも時代に遅れていた家永が発見したのは、「万能の思想があるとは到底信ずることができない」という一点だった。たいせつなものは個人の自由や自立だと気付く。国家が支配力を強めるとき、その自由や自立が脅かされる。昭和四十年に始めた「教科書検定違憲訴訟」は、端的なその表れ。時の流行に右往左往しない「鈍感さ」が、かえって大きく歴史を動かす。大きな足跡を残して、平成十四年に亡くなった。

カルメンはなぜかいつも香りのない赤と白の椿を着けていた

2005年01月05日 | Weblog
あなたは美しくはあるが、
愛という美しい香りがない
――P・コーツ(園芸家)

 椿が「カメリア」と呼ばれるのは、イエズス会の宣教師カメルが中国から椿の種をヨーロッパに送った故事による。もうひとつ椿を有名にしたのはデュマの『椿姫』である。彼女は月の二十五日間は白い花、あとの五日間は赤い花を身に着けた。椿にこだわったのは、香りのある他の花を持つとせきが出て、気分が悪くなるためだったという。
 花にはめずらしく、椿には香りがない。そのせいで、ヴェネツィアの美人インペリアも椿に喩えられた。結婚した彼女は、夫から「椿の花のようだ」といわれたのである。あげくのはてに、美しくはあるが愛という美しい香りがないとなじられた。結婚は破局に終わり、恋愛に冷たい彼女も、愛の香りがないのは自分が椿だからと開き直った。
 ヨーロッパの椿は愛や恋ではいい印象がないが、日本の椿は油を採る種、紫染めの灰、神事に使われる葉と、人々の生活に欠かせなかった。濃緑の葉叢に咲く椿には、歴史の香りがある。

写実に捉われた花の絵は病気の花しか描けない

2005年01月04日 | 詞花日暦
日本画の窮極は、
この気韻生動に帰着する
――横山大観(日本画家)

 集まった日本美術院の研究生たちのまえに、二枚の絵が置かれていた。いずれも牡丹の絵で、一枚は現代作家によるもの、もう一枚は俵屋宗達のものだった。二枚の絵をはじめて見る理学博士の講師がいった。最初の絵は自然の法則どおりに描いてあるが、おしいことに病気にかかっている。華麗な姿だが、もう一日もすれば枯れてしまうだろう。二枚目の絵は花弁の葉柄も正確に描かれていないが、いかにも健康な牡丹らしい。
 いたずらに形に捉われる写実は花の真髄を描ききれない、絵には「気韻生動」が不可欠だと横山大観はいう。気韻とは、牡丹を見る画家の心の動きとその表現にこめた力である。
 気韻とは、高い天分と教養をもった人品の高い人だけが発揮できるもの、そう大観はつけくわえた。「今の世にいかに職人の絵が、またその美術が横行しているかを考えた時、肌の寒さを覚えるのは、ただ私だけではありますまい」とも書いた。

体験や生活からつくられた別の科学体系がある

2005年01月03日 | 詞花日暦
科学の体系を持っていて初めて
山の生活が安全に遂行される
――中谷宇吉郎(物理学者)

 雪博士で知られた中谷宇吉郎が、「今年も初霰のたばしる音を聞くと、十勝の生活とこの老人のことが思い出される」と書いている。老人は北海道十勝岳の中腹にある山小屋の主人。中谷は、毎年、雪の結晶を顕微鏡写真に撮るために通った。
 老人は、犬の皮一枚、猟銃、塩一升で、十勝から日高の雪嶺を三か月間ひとりで歩き回った。厳冬の雪山で焚き火をする方法、必需品は食料以外にノコ、チョウナ、マッチであることを教えてくれた。話には、気象の見方、うさぎの猟り方、山草の料理法などもあった。「体験から作り上げた科学」である。
「この老人はわれわれのちょっと及ばぬような練達の科学者であった」と、中谷は驚嘆している。現代の科学は量子力学、遺伝子、ニューロンとむずかしいが、たったひとりの人間の生活を豊かに、安全にする科学が忘れられがち。平凡な人の生きる知恵のたいせつさが、十勝の老人にはしっかり根付いていた。

羽子板つきは子供を毒虫から守るためだった

2005年01月02日 | 詞花日暦
正月の羽子板は民間信仰の
名残りをとどめている
――むさしや豊山(羽子板職人)

 正月になっても、羽子板をつく光景がすくなくなった。東京の下町で、四代にわたって羽子板をつくってきた「むさしや豊山」によると、「羽子板はゲームやスポーツとは関係がありません」。羽根を落とさず、できるだけおおくの回数をつくのがたいせつだという。
 羽子板でつくった羽根の原型は、茨城県筑波山辺りに採れた「つくばね」という木の実。羽根が付いて、どこかトンボに似ていた。トンボは害虫や毒虫の天敵だから、子供たちを毒虫から守り、害虫を追い払う祈りとして「つくばね」を板で飛ばした。
 羽子板もはじめは平凡な板だった。後の徳川三代将軍家光の時代、京都の公家社会に倣い、華麗な装飾の板が流行した。羽子板の表面が貼り絵から押し絵に変り、実際に羽根突きなどできない飾り物になっていった。江戸の町人文化・消費社会は、いまと同じように飾りにこだわり、人の祈りや願いを遠くへ押しやった。