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英語教師のひとりごつ

英語教育について考える。時々ラーメンについて語ることもある。

Open your textbook.かOpen your textbooksか

2015-06-09 19:17:00 | 日記
『英語教育』2015年6月号のQuestion Boxに次のような記述がありました。

(1)We smell with our noses.
(2)We smell with our nose.

どちらがより一般的なのか。これに関しての解答は(1)でした。ただし、(2)が使われないというわけではなく、どちらも実際には使われます。詳しくはQuestion Boxを読んでいただくことにして、この問題が私にある記憶を呼び起こさせたのです。

私がまだ新米教師の時、研究授業をやらせていただき(というか無理やりやらされたんだよ!というのはここでは置いておいて)、新米だった私はベテラン教師によって袋叩きにあうのですが、それも置いておいて、ある先生から次のような助言をいただきました。

「Open your textbooks.とはいわない。Open your textbook.と単数形にすべきだ。」

これは果たして正しいのでしょうか。結果からいうと、これは上の例と同じようにどちらも使われると思います。複数のネイティブに確認しましたが、どちらも問題なく使われます。中には複数形の方が一般的だという人もいました。ただし、最初の(1)と(2)ほど、つまりこの2つでは(1)の方が一般的ですが、textbookの方はその差はそれほど明確ではありませんでした。つまりOpen your textbook(s).はどちらも使われるという意見が多かったのです。

結局、複数の生徒が持っている複数の本と捉えることもできるし、同じ教科書を使っているのだからそれを全体でひとつと捉えることもできる、という話者の捉え方の違いによるところが大きいと思います。どちらも使えることを知っておけば問題ないでしょう。

there is/areの実際とそこから考える教育

2015-05-05 20:18:47 | 日記
先日、there is/areの文の指導の際に、次のような例を使って説明しました。

(1)There is still some seats available.(空いてる席がまだあります。)

例えばレストランに行く前に、今空いてる席があるか確認した時にこう言われるかもしれない、という例で提示したわけです。すると、授業の後である生徒から「There areの間違いではないですか?」と質問されました。なるほど、確かに原則的にはareを用いるべきです。つまり次のように指導するべきでした。

(2)There are still some seats available.

ただし、実際には口語では(1)のように言うことがかなりあります。Swan(2005)にも次のような例があります。

(3)There's two policemen at the door, Dad.(ドアのところに二人の警官がいるよ、お父さん。)
(4)There's some grapes in the fridge, if you're still hungry.(もしまだお腹が空いてるなら、冷蔵庫にブドウが入ってるよ。)(以上Swan(2005; 580)より)

口語ではこれらのthere isはthere'sとかなり短く発音されます。もはやthere'sというひとつの塊として意識されているようなイメージです。多くの英語話者は、口語ではこの響きを優先しているのだと思われます。

このように原則と現実は異なります。個人的にはどちらも大事だと思いますが、学校ではどうしても原則にしか目が向かないのです。それにしても、何の気なしに、特に黒板に書くわけでもなく出した例を聞き取って、授業後に質問してきた生徒の方に私は驚いてしまいました。

さて、今回のような例から感じる教育とは何かについて話は広がっていきます。結論からいうと、今回の例のように教育が原則の押し付けになってはいけない、ということです。正しさを押し付けても、それによって必ずしも生徒が育つわけではないのではないか、と思うのです。今回の例でいえば、there areを原則として教えるけれども、there isも可能なのだという事実もまた指導するべきです。

もう少し、一般的な生活にまで話を広げます。例えば、ある学校では教員や外部の人には必ず立ち止まって挨拶するように、という原則があるとします。これは一見すると、見栄えがよく、「ここの生徒はすばらしいな」と思わせるだけに、多くの教員から支持されているように思われます。しかし、果たしてそれにどれだけ意味があるのでしょうか。そもそもほとんどの教員が実行していないこの行為に生徒を従わせることになんの意味があるのでしょうか。教員が生徒を支配している優越感は味わえるかもしれませんが。

ここでもうひとつ考えたいのは、これは「大きな声で挨拶しましょう」という類いとは若干異なるということです。つまり、大きな声で挨拶する、という行為は多くの教員がおそらくは実行しており、だからこそ対人関係において確実に大切だと思われる、つまり教員も従っている原則だといえます。その点で、「立ち止まって挨拶する」とは少し違った性質のものです。

ではこの「立ち止まって挨拶」を生徒に押し付けてよいのか。これは従わせるべき原則なのか。これは生徒個々の価値観の問題だと思います。立ち止まって挨拶したいならすればよいし、普通に挨拶したいのならそれでもよいのです。それによってどちらが優れている、という話にはならないし、立ち止まって挨拶をする生徒の方が(精神的に)育っているわけでもありません。

私は生徒に「大きな声で挨拶しよう」とは指導しますが、立ち止まって挨拶するようには求めません。英文法にも、生徒指導にも、守るべき原則と守らなくてもよい原則がある、というやや無理やりな結論なのですが、ちょっと無理があったでしょうか。とにもかくにも、私は押し付けがましくない教育がしたいなぁと思う今日この頃です。

世間はゴールデンウィークですが、教員にはゴールデンウィークはありません。部活三昧。はぁ。よくも悪くも忙しい毎日です。


【参考文献】
Swan, M.(2005). Practical English Usage. Oxford.

rentという言葉の不思議

2015-03-27 07:17:00 | 日記
日本語の発想からすると、「借りる」と「貸す」は真逆の関係にあるので、同じ語で表すわけがないと思うでしょう。もちろん英語でもborrowとlendでそれぞれ「借りる」と「貸す」を表します。しかし、rentという語は少し変わっています。なぜなら「金を払って借りる」という意味にも「金を貰って貸す」という意味にもなるからです。つまりrentの意味は「金のやりとりをして貸し借りする」というわけです。どちらの意味になるかは文脈次第ですが、ネイティブスピーカーによれば次の(1)では「借りる」の意味で解釈されます。

(1)I rented a DVD.

これはおそらくDVDは借りるものだという常識的な解釈が優先されるからでしょう。rentはもちろん次の(2)のようにどこから借りたのかを示すこともできます。

(2)I rented a DVD from GEO.

一方、「貸す」という意味に解釈されるためには特別な形式が必要です。例えば話者がアパートのオーナーであれば次のように言うことが可能です。

(3)I rented a room to Mike.
(4)I rented him a room.

(3)ではto Mike「マイクに」とあるので、この場合「貸す」という解釈しかありえません。つまりtoがあれば「貸す」という解釈が可能になります。また、(4)のように表現しても「貸す」という解釈しかありません。ちなみに、「貸す」という意味をはっきりさせるためにoutをつけて以下のように表現することもあります。

(4)I rented out a car.

outには外に出るというイメージがあるので、「自分から出ていく→貸す」という解釈しかとりません。

それにしても、rentがなぜ真逆ともいえる2つの意味を持つのか、疑問は払拭できません。

卒業アルバムを英語でいうと?

2015-03-08 08:17:00 | 日記
卒業シーズンです。卒業生の新しい人生の門出となるこの季節は、教師にとっても新たな挑戦の始まりの季節になるわけです。私は去年まさに学校がかわり、新たな挑戦の1年でした。夢中に、がむしゃらに挑戦して過ぎた1年でした。

さて、「卒業アルバム」を英語で何というのか、と問われれば「yearbook」が一番近いのですが、これは必ずしも適切ではありません。英語でyearbookというと、在校生も含めて全員の1年間の記録が載った本、という感じで、日本の卒業アルバムとは似て非なるものだからです。日本独自の卒業アルバムに正式な英語の名称があるわけではないので、私は生徒に「graduation album」でもいいんじゃないか、と話しています。同じものは存在しないのです。ちなみにイギリス出身のALTの話では、イギリスにはそもそもyearbookや卒業アルバム的なものは存在しないということです。アメリカではyearbookは一般的なようです。

そういえばちょっと違った例ですが、最近は海外のcomic bookに対して、日本のmangaという語が生まれ、英語として定着してきました。日本で書かれたものはmangaといえば通じるようになってきています。つまりmangaとcomic bookは別物なのです。

「行ってきます」や「ただいま」、「いただきます」や「ごちそうさま」なども英語では決まった表現はありません。例えば「行ってきます」はI'm leaving.「ただいま」はI'm home.と書いてある文献もありますが、日本語のように決まった表現ではないので、これらも正確には間違いです。出かける時には夫婦ならLove you.というかもしれないし、See you later.かもしれませんし、Bye.かもしれません。相手との関係にもよるので一概にはいえないのが英語の特徴です。

また、以前取り上げましたが、「卒業する」という表現は、日本やアメリカでは高校にも使えます。

(1)I graduated from Hokkaido High School.

しかし、イギリスでは高校には卒業という表現は用いられません。大学になってはじめて卒業という語が使われます。よって次の(2)はイギリスでも使うことができます。

(2)I graduated from Hokkaido Collage in 2001.

もうひとつ、先日生徒に話したのですが、「思いやり」という日本語について。なかなか英語にしにくいというと、不思議な感じがします。辞書ではconsiderationやkindness、thoughtfulness、compassion、sympathy、なぜかpolitenessなんかも出てきたりします。英語では様々な語が
日本語でいう「思いやり」の中に含まれているようです。では「思いやる」と動詞になると…なんて考えてみると、これも難しいと思います。「思いやりがある」ならまだなんとかなりそうですが。

逆に、英語では一般的でも日本語ではあまり言わないこともあります。例えば「Have a nice day.」は別れの挨拶として用いられますが、日本語で「よい1日を」とは普通言いませんし、「Good luck.」なんかも日本語ではあまり言わないので訳すのが難しい表現です。

言語を学ぶことは文化を学ぶことと言ってもよいと思います。言語は文化を反映しているからです。「この場面で日本語ならこう言うんだけど、この日本語って英語でなんて言えばいいんだろう?」という段階から、「この場面で英語話者はなんと表現するんだろう?」という段階へ進むことは、文化を理解する上で非常に大切な視点だと思います。意外にも、中高6年間英語を学んできて、このことに気づいている生徒は少ないのです。「自分らしさ」の1部を形成している日本語的な思考法からの脱却は容易ではないのだと気づかされます。あるいは私の指導力不足もあるのでしょう。

無批判にESL成果を取り入れることを批判する

2015-02-21 21:51:00 | 日記
以前の「EFLで学ぶということ」の続きです。前回、最後に述べたかった結論が少し曖昧になった気がしたので。

結論から述べると、タイトルにもあるのですが、ESLの教授法が必ずしもEFLにおいて効果的とは限らない、ということです。もう少しこのことを掘り下げたいと思います。

そもそもESLでやたらと引用されるクラッシェンの仮説がどの程度明らかになってきたのかもわからないままとにかく引用されるわけです。インプット仮説については「大量のインプットが大事だ」ということにおいては否定の余地はないと思います(ただ「大量」がどれくらいなの?という疑問は残ります)。ただし、モニター仮説(明示的知識は自分のアウトプットを監視する働きはするけども習得にはつながらないという説)については、引用する価値が果たしてあるのか、かなり疑問です。そもそも最近の英語教育における明示的知識の指導(いわゆる文法の説明みたいな類いのもの)が極端に敬遠される根拠のひとつとなっているこのモニター仮説への盲信は、なかなか根強いものがあります。このモニター仮説を含めたクラッシェンのいくつかの仮説へ反証を示すのはかなり難しいのですが、それはある意味では科学的な仮説としてそもそも認められないことの証拠ではあるでしょう(そもそも反証不可能なものは科学的ではない、というのが科学的な仮説かどうかを見分ける重要な要素だと思います)。というわけで、ESLでもかなり怪しい仮説はましてEFLで信じるのはやめましょう、という話でした。

アウトプットは必要なの?という疑問に関しても、必ずしも一致した見解は見られません。ESLでは教室の外でも話す機会があるので、これもEFLとは一概に比べられません。EFLでは当然アウトプット活動を取り入れて、というよりアウトプット活動で伝えたいことが伝えられることをゴールにしてその前の活動が行われるべきだと思います。しかし、その道のりはかなり険しく、アウトプットするにはインプットの時間を十分に確保してやることが必要ですが、アウトプット活動にもやはり時間がかかるわけです。EFLはこういったジレンマを抱えながら進んでいきます。「どの程度インプットに時間を使い、どの程度アウトプット活動をすればよいの?」という素朴な疑問についても答えることはできてきていません。

こういった処々の疑問に答えを一応出してくれるのがメタ分析ですが、ESLという大きな括りの中でさえ、条件の大きく異なる様々な研究結果から、1つの正しい結論を導き出すのは難しいのです。ましてEFLにその成果が当てはまるのかはもう少し議論されるべきでしょう。

とにもかくにも、以前の「EFLで学ぶということ」から一貫して述べたかったのは、古典的なESLの教科書に載っている教授法はおろか、現在のESLで主流となっているものも、EFL環境でどれだけ適用できるのかはもう少し検証すべきだと思います。逆に、ESLでは否定的なやり方のいくつかが、日本では効果的だということもまた忘れてはいけないのです。