今さらアクティブ・ラーニングについて語ってもな、と思いながら。アクティブ・ラーニングとともに最近は「主体的・対話的で深い学び」という言葉もアクティブ・ラーニングとおよそ同義で用いられていることへの違和感から、改めてアクティブ・ラーニングとは何か、もしくはアクティブ・ラーニングへの批判は正しいのか、について考えてみたいと思います。
そもそもアクティブ・ラーニングとは何なのか。どうしてもグループ学習だけに注目してしまいたがちですが、果たしてそれだけなのか。以下『「アクティブ・ラーニング」を考える』(教育課程研究会編著)から抜粋して本質に迫ってみたいと思います。ちなみにこの本、不思議なことにアクティブ・ラーニングとは何なのか、について誰も端的に述べてくれてはいません。さまざまな研究者が少しずつ定義を歪めながらアクティブ・ラーニングについて考察しているので、まとまりがない、とも言えるのですが、それくらいアクティブ・ラーニングとは捕らえようのないものなのだ、と考えておく必要はあるでしょう。
さて、その捕らえようのないアクティブ・ラーニングについて、さらに捕らえづらくさせている部分を抜粋しておきます。
「この主体的・対話的で深い学びにとって大事なのは、対話、グループ学習、討論といった学習活動の外形ではなく、授業において子供たちがアクティブ・ラーナー(Active Learner)になっているかどうかであろう。クラスにおいて、ただ座っているだけの『お客さん』が一人もいない授業、すべての子供がそれぞれの観点や力量に応じて集中して考え、取り組んでいる授業にいかにするか。」(p.34)
つまりアクティブ・ラーニングとは、ただグループ学習すればよい、という短絡的なものではなく、生徒がアクティブに活動する授業なのだ、ということです。これには大賛成。しかし、それならばなぜアクティブ・ラーニングに「主体的・対話的で深い学び」というネーミングを使うのか。「対話的」を入れてしまうと、「常に対話的な授業」こそが正解、という間違った考えが広まる危険性があります。もちろん、対話的な授業、グループ学習を取り入れた授業は大事だと思いますし、その対話的な授業こそがアクティブ・ラーニングの特徴であるのかもしれませんが、アクティブ・ラーニングの主たる「目的」ではない、ことは強調しておかなければなりません。アクティブ・ラーニングの主たる「目的」は、その名の通り、学習者がアクティブに授業に参加すること。「対話的」を強調しすぎると、この大事な部分が軽視されてしまうのでは。もっとも、「対話的」だけではないことを強調するために「深い学び」という言葉をつけた、という意図はあるのでしょうが。
生徒がアクティブに参加しているのであれば、それは1人で考えても、グループで考えてもかまわないことは、心に留めておくべきです。例えば学んだことをもとに、レポートを作成するのも面白いと思いますし、それを発表にまで結びつければプレゼンの能力も身に付くかもしれません。とにかく常にグループワークだけが正解となるような短絡的なものを目的とはしていないのでしょう。
そうだとすれば、多くのアクティブ・ラーニングへの批判は的外れである場合が多いのですが、むしろこれはアクティブ・ラーニングへの批判を回避するために、その定義を広げてきたからこそ、結果として批判が的外れになったように見える、ということが実情かもしれません。「主体的・対話的で深い学び」という名称は、アクティブ・ラーニングの代わりに用いられるようになりましたが、これは常に生徒が対話的に活動していることがよい、という認識を改めるために意図的に用いられているようですが、結果として対話的でなければならない、という批判をさらに受けることになっているように感じます。
どちらにしても、今までのただ生徒が教師の話を聞くだけの授業が間違いであるわけで、多くの「主体的・対話的で深い学び」への批判は今や当てはまらないと思います。いかに生徒を授業に巻き込んでいくか、がこれだけ大きく議論されるようになったことはよいことだと思います。
どの文献だったかは失念したのですが、次のようなことが書かれていました。つまり、
対話が苦手な者もいるし、じっくりと机に向かって授業を受けたい者もいる。という批判は、その逆を望む生徒もいる、という自己批判を含んでいる。
このことは教員が忘れてはならない視点だと思います。
そもそもアクティブ・ラーニングとは何なのか。どうしてもグループ学習だけに注目してしまいたがちですが、果たしてそれだけなのか。以下『「アクティブ・ラーニング」を考える』(教育課程研究会編著)から抜粋して本質に迫ってみたいと思います。ちなみにこの本、不思議なことにアクティブ・ラーニングとは何なのか、について誰も端的に述べてくれてはいません。さまざまな研究者が少しずつ定義を歪めながらアクティブ・ラーニングについて考察しているので、まとまりがない、とも言えるのですが、それくらいアクティブ・ラーニングとは捕らえようのないものなのだ、と考えておく必要はあるでしょう。
さて、その捕らえようのないアクティブ・ラーニングについて、さらに捕らえづらくさせている部分を抜粋しておきます。
「この主体的・対話的で深い学びにとって大事なのは、対話、グループ学習、討論といった学習活動の外形ではなく、授業において子供たちがアクティブ・ラーナー(Active Learner)になっているかどうかであろう。クラスにおいて、ただ座っているだけの『お客さん』が一人もいない授業、すべての子供がそれぞれの観点や力量に応じて集中して考え、取り組んでいる授業にいかにするか。」(p.34)
つまりアクティブ・ラーニングとは、ただグループ学習すればよい、という短絡的なものではなく、生徒がアクティブに活動する授業なのだ、ということです。これには大賛成。しかし、それならばなぜアクティブ・ラーニングに「主体的・対話的で深い学び」というネーミングを使うのか。「対話的」を入れてしまうと、「常に対話的な授業」こそが正解、という間違った考えが広まる危険性があります。もちろん、対話的な授業、グループ学習を取り入れた授業は大事だと思いますし、その対話的な授業こそがアクティブ・ラーニングの特徴であるのかもしれませんが、アクティブ・ラーニングの主たる「目的」ではない、ことは強調しておかなければなりません。アクティブ・ラーニングの主たる「目的」は、その名の通り、学習者がアクティブに授業に参加すること。「対話的」を強調しすぎると、この大事な部分が軽視されてしまうのでは。もっとも、「対話的」だけではないことを強調するために「深い学び」という言葉をつけた、という意図はあるのでしょうが。
生徒がアクティブに参加しているのであれば、それは1人で考えても、グループで考えてもかまわないことは、心に留めておくべきです。例えば学んだことをもとに、レポートを作成するのも面白いと思いますし、それを発表にまで結びつければプレゼンの能力も身に付くかもしれません。とにかく常にグループワークだけが正解となるような短絡的なものを目的とはしていないのでしょう。
そうだとすれば、多くのアクティブ・ラーニングへの批判は的外れである場合が多いのですが、むしろこれはアクティブ・ラーニングへの批判を回避するために、その定義を広げてきたからこそ、結果として批判が的外れになったように見える、ということが実情かもしれません。「主体的・対話的で深い学び」という名称は、アクティブ・ラーニングの代わりに用いられるようになりましたが、これは常に生徒が対話的に活動していることがよい、という認識を改めるために意図的に用いられているようですが、結果として対話的でなければならない、という批判をさらに受けることになっているように感じます。
どちらにしても、今までのただ生徒が教師の話を聞くだけの授業が間違いであるわけで、多くの「主体的・対話的で深い学び」への批判は今や当てはまらないと思います。いかに生徒を授業に巻き込んでいくか、がこれだけ大きく議論されるようになったことはよいことだと思います。
どの文献だったかは失念したのですが、次のようなことが書かれていました。つまり、
対話が苦手な者もいるし、じっくりと机に向かって授業を受けたい者もいる。という批判は、その逆を望む生徒もいる、という自己批判を含んでいる。
このことは教員が忘れてはならない視点だと思います。