英語教師のひとりごつ

英語教育について考える。時々ラーメンについて語ることもある。

今さらアクティブ・ラーニングについて

2019-02-26 22:13:09 | 日記
今さらアクティブ・ラーニングについて語ってもな、と思いながら。アクティブ・ラーニングとともに最近は「主体的・対話的で深い学び」という言葉もアクティブ・ラーニングとおよそ同義で用いられていることへの違和感から、改めてアクティブ・ラーニングとは何か、もしくはアクティブ・ラーニングへの批判は正しいのか、について考えてみたいと思います。

そもそもアクティブ・ラーニングとは何なのか。どうしてもグループ学習だけに注目してしまいたがちですが、果たしてそれだけなのか。以下『「アクティブ・ラーニング」を考える』(教育課程研究会編著)から抜粋して本質に迫ってみたいと思います。ちなみにこの本、不思議なことにアクティブ・ラーニングとは何なのか、について誰も端的に述べてくれてはいません。さまざまな研究者が少しずつ定義を歪めながらアクティブ・ラーニングについて考察しているので、まとまりがない、とも言えるのですが、それくらいアクティブ・ラーニングとは捕らえようのないものなのだ、と考えておく必要はあるでしょう。

さて、その捕らえようのないアクティブ・ラーニングについて、さらに捕らえづらくさせている部分を抜粋しておきます。

「この主体的・対話的で深い学びにとって大事なのは、対話、グループ学習、討論といった学習活動の外形ではなく、授業において子供たちがアクティブ・ラーナー(Active Learner)になっているかどうかであろう。クラスにおいて、ただ座っているだけの『お客さん』が一人もいない授業、すべての子供がそれぞれの観点や力量に応じて集中して考え、取り組んでいる授業にいかにするか。」(p.34)

つまりアクティブ・ラーニングとは、ただグループ学習すればよい、という短絡的なものではなく、生徒がアクティブに活動する授業なのだ、ということです。これには大賛成。しかし、それならばなぜアクティブ・ラーニングに「主体的・対話的で深い学び」というネーミングを使うのか。「対話的」を入れてしまうと、「常に対話的な授業」こそが正解、という間違った考えが広まる危険性があります。もちろん、対話的な授業、グループ学習を取り入れた授業は大事だと思いますし、その対話的な授業こそがアクティブ・ラーニングの特徴であるのかもしれませんが、アクティブ・ラーニングの主たる「目的」ではない、ことは強調しておかなければなりません。アクティブ・ラーニングの主たる「目的」は、その名の通り、学習者がアクティブに授業に参加すること。「対話的」を強調しすぎると、この大事な部分が軽視されてしまうのでは。もっとも、「対話的」だけではないことを強調するために「深い学び」という言葉をつけた、という意図はあるのでしょうが。

生徒がアクティブに参加しているのであれば、それは1人で考えても、グループで考えてもかまわないことは、心に留めておくべきです。例えば学んだことをもとに、レポートを作成するのも面白いと思いますし、それを発表にまで結びつければプレゼンの能力も身に付くかもしれません。とにかく常にグループワークだけが正解となるような短絡的なものを目的とはしていないのでしょう。

そうだとすれば、多くのアクティブ・ラーニングへの批判は的外れである場合が多いのですが、むしろこれはアクティブ・ラーニングへの批判を回避するために、その定義を広げてきたからこそ、結果として批判が的外れになったように見える、ということが実情かもしれません。「主体的・対話的で深い学び」という名称は、アクティブ・ラーニングの代わりに用いられるようになりましたが、これは常に生徒が対話的に活動していることがよい、という認識を改めるために意図的に用いられているようですが、結果として対話的でなければならない、という批判をさらに受けることになっているように感じます。

どちらにしても、今までのただ生徒が教師の話を聞くだけの授業が間違いであるわけで、多くの「主体的・対話的で深い学び」への批判は今や当てはまらないと思います。いかに生徒を授業に巻き込んでいくか、がこれだけ大きく議論されるようになったことはよいことだと思います。

どの文献だったかは失念したのですが、次のようなことが書かれていました。つまり、

対話が苦手な者もいるし、じっくりと机に向かって授業を受けたい者もいる。という批判は、その逆を望む生徒もいる、という自己批判を含んでいる。

このことは教員が忘れてはならない視点だと思います。

more kindを間違いとみなすか否か

2019-02-26 20:54:26 | 日記
比較級の作り方といえば一般的には次のように説明されます。

(1)This department store is larger than that one.
(2)This problem is more difficult than that one.

単音節ならばerをとり、2音節以上ならばmoreをとる場合が多い、というルールです。ただし2音節以上でもどちらをとるかは意外と複雑で、特に2音節では、どちらもとることができるものも多いのが実情のようです。以下はどちらも正解とみなしてよいでしょう。

(3)John is politer than Mary.
(4)John is more polite than Mary.

ただし(4)のようなmore型(これを迂言比較と呼んだりします)ほうが現在では一般的であることは知っておいたほうがよいでしょう。そしてこの傾向はpoliteに限ったことではなく、多くの2音節の形容詞に当てはまると思います。ただし、Biber(1999;522)によれば、音韻論的・形態論的特徴によるので一概にはいえないのかもしれません。

さて、問題は単音節ではどうなのか、ということです。当然単音節ではer型(これを屈折比較と呼んだりします)が一般的なのはいうまでもありませんが、それがすべての形容詞に当てはまるわけではないことは知っておいたほうがよさそうです。つまり、以下の例文はどちらも正しい文と考えてよいのではないかと思います。

(5)He is kinder than John.
(6)He is more kind than John.

ただし(5)のほうが自然だと解釈する話者のほうが多いと感じます。それでも(6)を間違いだとばっさり切り捨てる理由はなさそうです。kindは迂言用法も屈折用法もどちらも用いることができる、といってよいでしょう。

単音節での迂言比較は、おそらく現代英語の傾向であると思うのですが、本当のところはよくわかりません。これだけでもひとつの論文が書けそうです(あるいはもう書かれているのかも)。ただし、単音節の迂言用法に関しては注意が必要です。形容詞によっては多くの場合、まだ屈折比較のほうが一般的である、という事実があります。つまりなんでもかんでも
moreをつければいい、とはいかなそうです。以下の例は屈折比較しか自然とはいえません。

(7)My room is larger than my brother’s.
(8)*My room is more large than my brother’s.

よって単音節では基本的には屈折用法が正しい、という文法解説書の説明は間違ってはいませんが、問題は(6)のような文を正しいとするのかどうかだと思います。テストで書いたときにバツをつけるのか、マルをつけるのか、部分点をあげるのか。個人的には、正しい文を書いてバツになるのはそれこそ間違いだと思います。

教育の中の英文法がどうあるべきなのか、という問題は意外と一筋縄ではいかないものです。規則性から導き出された規範文法か、実際の使用例に基づいた記述文法か。この議論については住𠮷(2016)で詳述されているのでここでは深入りしませんが、住𠮷のような考えが英語教育にも広まることは大事だと思います。


ちなみにどんな形容詞でもmoreをつける用法に次のような例があります。

(9)He is more wise than clever.(例文は江川(1999;172)より)

この用法では、同一人物がcleverというよりwiseだ、という意味で、この場合wiserということは通常ありません。この(9)のような用法は一般の文法解説書にも書かれているので今回の話とは関係ないことを一応記しておきます。

久しぶりの投稿でした。転勤になり、環境が変わり、久しぶりの進学校での指導。でもやることは全く変えていません。英語をいかに楽しく指導するか。目先の模試の成績ではなく、本当の英語力をつけさせるためにどうするか。そんなことを考えながら指導しています。まずは身近なことを英語で表現することを大事に。それでも、それでこそ生徒のモチベーションは俄然高いのを実感しています。

【参考文献】
Biber Douglas et al.(1999). Longman grammer of spoken and written English. Longman.
江川泰一郎.(1991).『英文法解説』.金子書房.
住𠮷誠.(2016).『談話のことば2 規範からの解放』.研究社.

for three daysかin three daysか

2017-11-04 16:01:00 | 日記
先日クイズ番組を観ていたら、おおよそ次のような問題が出題されていました。( )に入る語は何か、考えてみてください。

( ) three days 「3日間」

多くの日本人はforと書いて正解していましたが、ある外国の方(おそらく英語を母語としている方)がinと書いて不正解になっていました。

実はこの意味で、場合によってはinはforの代わりに用いられる傾向にあります。例えば下の例はどちらも正しい文です。

(1)I haven't seen him in three days.
(2)I haven't seen him for three days.

ただし、このinの用法は基本的に否定文、あるいは否定的な含意がある場合に用いられることを小西(2011)は指摘しています。下の例はSwan(2016)から。

(3)I haven't seen for/in months.
(4)It was the worst storm for/in ten years.

ちなみにこの用法のinは、特に若い世代のアメリカ英語ではかなり一般的であるようです。


【参考文献】
Swan, M.(2016). Practical English Usage. Oxford.
小西友七編.(2011).『現代英語語法辞典』.三省堂.

評価に関する考察その1

2017-11-03 19:37:00 | 日記
評価を軽視する気はありませんが、多くの時間に追われる教員にとって、一度の授業で何十人もの生徒を相手にきっちり評価しようとするのは正直かなりしんどいものです。最近の風潮の中で気になるのは、授業中の生徒の活動をしっかり評価してやることが大事だ、という風潮です。一見理想的だし、不老不死の身体を手に入れたらぜひがんばりたいのですが、果たしてそれは可能なのでしょうか。

例えば、我々は授業案を書く際、評価の観点を書くのですが、「コミュニケーションへの関心・意欲・態度」の項目に「机間巡視」と書いてあるのをよく目にします。ちなみに私はこの「机間巡視」による評価はほぼ行いません。もちろん机間巡視は行いますが、評価はまずしません。というか、本当に評価している先生をほとんど見たことがありません(が稀にいます。頭が下がります。足を向けて寝れません。)。しかし、恐らく評価していないであろう机間巡視を評価に加えるのは、なぜか授業案の定番で、これを外すと戦犯扱いでも受けるかのようです。評価を行っているのなら書いてもよいのですが、行っていないものを書くのは反則でしょう。さらにいえば、机間巡視で生徒の様子を評価するのに私はそもそも反対です。まず一つ目の理由として、コミュニケーション活動の一場面で活動をサボっており、その時にたまたま教員がそれを発見したとしても、それで評価を下げるのでは絶対に公平性を保つことができないと思うからです。だいたいこういったことで評価を下げられるのは、教員の目がいきやすい目立つ子です。実は目立たない子の中にもやっていない子がいたとしても、それには教員は気づきにくいのです。逆にコミュニケーションを積極的にとっていると思われる子を机間巡視で発見するのも不可能です。聖徳太子ならば別ですが。結局教員が見ることができるのは、コミュニケーションのごく一部でしかないのです。

もうひとつ、机間巡視で評価するのに反対である理由として、コミュニケーション活動を真剣に行わない生徒がいる場合、その理由を生徒のせいにすること自体が間違いだと思うからです。つまりコミュニケーション活動が成功しないのは教員の責任ではないか、と思うのです。コミュニケーション活動がうまくいかない時には、クラスでコミュニケーションを取りやすい雰囲気作りができているか、生徒たちに無理強いしていないか、発達障害などの生徒にどのように配慮しているか、振り返るべきなのは教員の側であって、ほとんどの場合生徒の責任ではありません。私自身、コミュニケーション活動がうまくいかない時には、だいたい生徒の能力を越えるような活動を行ってしまい、適切な足場がけ(Scaffoldingといったりします)を与えていないのです。反省すべきは私自身です。

だいたい机間巡視は「コミュニケーションへの関心・意欲・態度」として評価されています。しかし個人的には、そもそも関心・意欲・態度がなぜ生徒の評価に必要なのか、かなり疑問です。例えば発達障害の子がうまく他者と共働できない時に、それは誰の問題なのか。苦手なこと、できないことを強制され続けるのも辛いものです。もちろん周りの生徒のアシストでなんとか活動を成立させ、それが「成長」に繋がるとしても。我慢し続けることはその生徒同士にとって幸せなことでしょうか。もっとも教師が勝手にうまくコミュニケーション活動ができないのはお前の責任だ!と叱責して解決するのなら楽な話ですが。この辺を、クラスの状況に応じて騙し騙しやるのは教師の業であって、生徒に責任はないと思います。

話は少し変わって、一度の授業の中で、評価の観点が複数あるのは、理想ですが現実的ではありません。例えば課題を与えて授業の終わりに集めて評価するのも、理想ですが教員の負担が大きすぎます。もちろん中には遅くまで学校に残ってしっかりとやられている先生もいて、それはそれで尊敬しますが、やっていないからといって「教師たるもの生徒のプリントはしっかり集めて評価するのが使命だろう」とかいう議論になるとしたら違和感を感じます。仕事に生きる人は生きればよいですが、それを人に押し付けるのは間違いです。仕事は仕事、でもプライベートの時間も大事、という考えも同じように認められるべきです。放課後は部活に追われ、ただでさえ忙しい教員が、その日に行った100枚のプリントを評価するのは、評価のポイントをいかに絞っても大変なものです。せいぜい各Lessonの終わりに一度程度で充分評価の材料になります。

多忙な日本の教員が、無理なく評価できるシステムを構築するか、そもそもの多忙を解消する政策を行うか、どちらかが必要だというのが実感です。

オフホワイトでもいいじゃない

2017-10-31 22:05:00 | 日記
全く英語とは関係ありませんが。と断っておきます。最近考えたこと。久しぶりの更新なのにこんなことを述べるのもなんですが。

あるテレビ局がLGBTに対する偏見を煽るような内容を放送した、しないという話について。こういったことが問題になるときに思うことを自分なりに考えてみたくて。

世論は2つに分かれている印象です。LGBTというマイノリティを守ろうとする側と、放送内容に問題はなかった、とする側。どちらの意見が多数派なのか、わかりませんが、それは正直どうでもいいことですよね(そうでなければいつでもマイノリティの意見は無視すべき、という論調になりかねない)。とにかく、この2つの意見が戦っていて、それぞれに意見と理由を述べていて、「結局どっちが正解なの?教えて、先生!」なんて言われると少し困ってしまいます。

ここで考えたいのは、どちらが正解、という答えではなく(というか私にもどちらが言っていることが正しいかなんてわからないわけで)、もちろん自分の考えを持つことは大事だし、私自身の考えるところもあるのですが、ここでは意見の持ち方について考えてみたいと思います。

どちらが正しいのか、という時に、10-0でこっちが間違いなく正しい!なんてことはなかなかないのではないか、ということです。まぁだからこそ意見が対立するのかもしれませんが。とにかく、どちらの意見にも賛同できる面と、それはちょっと論理の飛躍が甚だしいわな、と思う面があり、結局それらも踏まえた上で、What do you think?てことでもいいのでは?と考えてしまう。どちらの意見が正しいか、白黒はっきりしようや、というよりも「オフホワイトで」みたいな発想の方が実際の生活では大事では。しかし、そういう「オフホワイト」でも「グレー」でもよいけども、そういう意見があまりない。それに違和感を感じました。もちろんその「オフホワイト」なり「グレー」を踏まえて、どちらの意見に近いかを判断しているのならそれはよいだろうし、「おれは完全にこっちの意見に賛成だよ」というのも間違いだとはいえないのだろうけど。

そういえば先日、英語の研修会でディベートの指導案を作った際、私は反論するときは相手の意見を認めつつ反論するのが自然だから、「あなたの意見のここは確かに正しいと思う。でも私はこう思う。」という表現をするのが議論の大事なことだ、という主旨の指導案を作りましたが、ディベートではそういう表現ではなく、直接的に否定するものだ、と言われてびっくりしました。果たしてそれが本当なのかわかりませんが、実際の議論では、いくら意見を直接述べるのが一般的な英語であっても「反対です。」なんて言うのは非常に稀だと思います。もしディベートというものがそういう主旨のものなら、ディベートを高校で指導する意義そのものを疑いたくなります。相手にとって失礼な英語を垂れ流しにして教えることが大事なこととは思えません。英語も日本語のように、相手への配慮を示しながら話を進める言語である、という発想は非常に重要です。ところでこの私の意見も、10-0で正しい、間違いだ、ということはないのでしょうが。

だいぶ話が逸れたところで終わりにします。高校3年生の担任は忙しい。。。はぁ。