英語教師のひとりごつ

英語教育について考える。時々ラーメンについて語ることもある。

オフホワイトでもいいじゃない

2017-10-31 22:05:00 | 日記
全く英語とは関係ありませんが。と断っておきます。最近考えたこと。久しぶりの更新なのにこんなことを述べるのもなんですが。

あるテレビ局がLGBTに対する偏見を煽るような内容を放送した、しないという話について。こういったことが問題になるときに思うことを自分なりに考えてみたくて。

世論は2つに分かれている印象です。LGBTというマイノリティを守ろうとする側と、放送内容に問題はなかった、とする側。どちらの意見が多数派なのか、わかりませんが、それは正直どうでもいいことですよね(そうでなければいつでもマイノリティの意見は無視すべき、という論調になりかねない)。とにかく、この2つの意見が戦っていて、それぞれに意見と理由を述べていて、「結局どっちが正解なの?教えて、先生!」なんて言われると少し困ってしまいます。

ここで考えたいのは、どちらが正解、という答えではなく(というか私にもどちらが言っていることが正しいかなんてわからないわけで)、もちろん自分の考えを持つことは大事だし、私自身の考えるところもあるのですが、ここでは意見の持ち方について考えてみたいと思います。

どちらが正しいのか、という時に、10-0でこっちが間違いなく正しい!なんてことはなかなかないのではないか、ということです。まぁだからこそ意見が対立するのかもしれませんが。とにかく、どちらの意見にも賛同できる面と、それはちょっと論理の飛躍が甚だしいわな、と思う面があり、結局それらも踏まえた上で、What do you think?てことでもいいのでは?と考えてしまう。どちらの意見が正しいか、白黒はっきりしようや、というよりも「オフホワイトで」みたいな発想の方が実際の生活では大事では。しかし、そういう「オフホワイト」でも「グレー」でもよいけども、そういう意見があまりない。それに違和感を感じました。もちろんその「オフホワイト」なり「グレー」を踏まえて、どちらの意見に近いかを判断しているのならそれはよいだろうし、「おれは完全にこっちの意見に賛成だよ」というのも間違いだとはいえないのだろうけど。

そういえば先日、英語の研修会でディベートの指導案を作った際、私は反論するときは相手の意見を認めつつ反論するのが自然だから、「あなたの意見のここは確かに正しいと思う。でも私はこう思う。」という表現をするのが議論の大事なことだ、という主旨の指導案を作りましたが、ディベートではそういう表現ではなく、直接的に否定するものだ、と言われてびっくりしました。果たしてそれが本当なのかわかりませんが、実際の議論では、いくら意見を直接述べるのが一般的な英語であっても「反対です。」なんて言うのは非常に稀だと思います。もしディベートというものがそういう主旨のものなら、ディベートを高校で指導する意義そのものを疑いたくなります。相手にとって失礼な英語を垂れ流しにして教えることが大事なこととは思えません。英語も日本語のように、相手への配慮を示しながら話を進める言語である、という発想は非常に重要です。ところでこの私の意見も、10-0で正しい、間違いだ、ということはないのでしょうが。

だいぶ話が逸れたところで終わりにします。高校3年生の担任は忙しい。。。はぁ。