私は教育学部出身なので、大学時代は教育学(もっと正確にいえば教育方法学)を中心に学んできました。今でもデューイやヘルバルトなどの名前を聞くと鼓動が高鳴ります(私の中でこれらの名前に関するパブロフの犬の古典的条件付け的な何かがあるのか、真相はわかりませんが)。
さて、今年も教員採用試験が迫ってきて、その試験内容について少し思うこと。教育学部で学んだ私にとっては、少なからずフロイトやピアジェなどのかなり古めかしい心理学も、教育学史的な視点で学ぶ価値のあるものでした。教育学自体がどのように発展してきたのかを知る上で、欠かすことのできない人物たちで、彼らの歴史の上に今の教育があるのだと思います。
しかし、果たして教員採用試験で彼らの名前や仮説を暗記することにどれだけの意味があるのかは疑問です。教員採用試験に向けて急ピッチで進められる名称の暗記は、果たして教員になろうと夢見ている学生達の心を刺激しているのでしょうか。
この古典的な名称の暗記にはいくつかの問題点があると思います。とりあえず以下の3点を挙げておきます。
①現在では一般に否定されている仮説まで信じてしまうのではないか
②それぞれの教育学者の真意が伝わらないのではないか
③過去から現在までの様々な教育学者の間の議論や潮流が理解できないのではないか
まず①について。フロイトやピアジェを学ぶことに価値がないとはいわないまでも、その具体的な説の中身について詳しく学んだとしても、学習者が教員になる上ではその知識の多くは全く無意味であるか、その説自体が誤ってさえいる場合が多くあります。しかし、多くの教員採用試験用のテキストを見ると、その事実には全くといってよいほど触れられていません。これは特に教育心理学の分野で多く見られます。
続いて②について。私は教育心理学については現在受け入れられていない理論を学ぶ必要性は感じませんが、一方でデューイやエレン・ケイといった教育学者について学ぶことには一定の意味があるだろうと思っています。デューイやエレン・ケイが考えた「子ども主体」の教育観が、100年後の今も色褪せないどころか、日本では改めて見直されつつあるわけで、その意味では我々の教育実践は未だに彼らのそれに届いていないわけです。さらにいえばヘルバルトの4段階教授法から発展したラインによる5段階教授法は、やや歪になりながらも日本で取り入れられて、現在でも日本の教育の基盤となっています。しかし、教員採用試験で問われるのは、デューイは「なすことによって学ぶ」と語った、とかエレン・ケイが「一番の教育は何もしないことだ」と言った、とかいう断片的なものでしかないのです。これに果たしてどれだけの意味があるのかはかなり疑問です。
最後に③について。教育とは、時には意見を戦わせてより時代にあった教育を模索し、改革してきた歴史のもとに成り立っています。私はそういった議論を学ぶことこそが、現在の教育を理解する上でかなり重要だと思っています。例えば1960年代の詰め込み教育を背景として起きた「わかる授業」か「たのしい授業」か、という論争は、現在でもとても有益な議論が含まれているはずです。「たのしい授業」の推進者である板倉聖宣は仮説実験授業を唱え、「わかるがたのしくない授業」がもっとも最悪の授業だとして、「わかる授業」派と論争を繰り広げました。こういった教育者同士の論争を学ぶことが、教育を学問として学ぶことであり、今をさらに深く理解し、よりよい教育を模索する知識になると思います。
いよいよ高校教育が変わろうとしている今(大学入試が変われば、よくも悪くも高校教育も変わるだろうと思います)、教員採用試験も、旧来の知識偏重型ではいかんのだ、という議論はそれはそれでもっともでしょう。個人的には田中ほか(2012)の『新しい時代の教育方法』あたりは、過去から現在に至るまでの教育方法をバランスよくまとめており、教員を志す人に(もちろん現職のみなさんにも)ぜひ一読をお勧めする文献です。
【参考文献】
田中耕治・鶴田清司・橋本美保・藤村宣之.(2012).『新しい時代の教育方法』.有斐閣アルマ.
さて、今年も教員採用試験が迫ってきて、その試験内容について少し思うこと。教育学部で学んだ私にとっては、少なからずフロイトやピアジェなどのかなり古めかしい心理学も、教育学史的な視点で学ぶ価値のあるものでした。教育学自体がどのように発展してきたのかを知る上で、欠かすことのできない人物たちで、彼らの歴史の上に今の教育があるのだと思います。
しかし、果たして教員採用試験で彼らの名前や仮説を暗記することにどれだけの意味があるのかは疑問です。教員採用試験に向けて急ピッチで進められる名称の暗記は、果たして教員になろうと夢見ている学生達の心を刺激しているのでしょうか。
この古典的な名称の暗記にはいくつかの問題点があると思います。とりあえず以下の3点を挙げておきます。
①現在では一般に否定されている仮説まで信じてしまうのではないか
②それぞれの教育学者の真意が伝わらないのではないか
③過去から現在までの様々な教育学者の間の議論や潮流が理解できないのではないか
まず①について。フロイトやピアジェを学ぶことに価値がないとはいわないまでも、その具体的な説の中身について詳しく学んだとしても、学習者が教員になる上ではその知識の多くは全く無意味であるか、その説自体が誤ってさえいる場合が多くあります。しかし、多くの教員採用試験用のテキストを見ると、その事実には全くといってよいほど触れられていません。これは特に教育心理学の分野で多く見られます。
続いて②について。私は教育心理学については現在受け入れられていない理論を学ぶ必要性は感じませんが、一方でデューイやエレン・ケイといった教育学者について学ぶことには一定の意味があるだろうと思っています。デューイやエレン・ケイが考えた「子ども主体」の教育観が、100年後の今も色褪せないどころか、日本では改めて見直されつつあるわけで、その意味では我々の教育実践は未だに彼らのそれに届いていないわけです。さらにいえばヘルバルトの4段階教授法から発展したラインによる5段階教授法は、やや歪になりながらも日本で取り入れられて、現在でも日本の教育の基盤となっています。しかし、教員採用試験で問われるのは、デューイは「なすことによって学ぶ」と語った、とかエレン・ケイが「一番の教育は何もしないことだ」と言った、とかいう断片的なものでしかないのです。これに果たしてどれだけの意味があるのかはかなり疑問です。
最後に③について。教育とは、時には意見を戦わせてより時代にあった教育を模索し、改革してきた歴史のもとに成り立っています。私はそういった議論を学ぶことこそが、現在の教育を理解する上でかなり重要だと思っています。例えば1960年代の詰め込み教育を背景として起きた「わかる授業」か「たのしい授業」か、という論争は、現在でもとても有益な議論が含まれているはずです。「たのしい授業」の推進者である板倉聖宣は仮説実験授業を唱え、「わかるがたのしくない授業」がもっとも最悪の授業だとして、「わかる授業」派と論争を繰り広げました。こういった教育者同士の論争を学ぶことが、教育を学問として学ぶことであり、今をさらに深く理解し、よりよい教育を模索する知識になると思います。
いよいよ高校教育が変わろうとしている今(大学入試が変われば、よくも悪くも高校教育も変わるだろうと思います)、教員採用試験も、旧来の知識偏重型ではいかんのだ、という議論はそれはそれでもっともでしょう。個人的には田中ほか(2012)の『新しい時代の教育方法』あたりは、過去から現在に至るまでの教育方法をバランスよくまとめており、教員を志す人に(もちろん現職のみなさんにも)ぜひ一読をお勧めする文献です。
【参考文献】
田中耕治・鶴田清司・橋本美保・藤村宣之.(2012).『新しい時代の教育方法』.有斐閣アルマ.