先日、there is/areの文の指導の際に、次のような例を使って説明しました。
(1)There is still some seats available.(空いてる席がまだあります。)
例えばレストランに行く前に、今空いてる席があるか確認した時にこう言われるかもしれない、という例で提示したわけです。すると、授業の後である生徒から「There areの間違いではないですか?」と質問されました。なるほど、確かに原則的にはareを用いるべきです。つまり次のように指導するべきでした。
(2)There are still some seats available.
ただし、実際には口語では(1)のように言うことがかなりあります。Swan(2005)にも次のような例があります。
(3)There's two policemen at the door, Dad.(ドアのところに二人の警官がいるよ、お父さん。)
(4)There's some grapes in the fridge, if you're still hungry.(もしまだお腹が空いてるなら、冷蔵庫にブドウが入ってるよ。)(以上Swan(2005; 580)より)
口語ではこれらのthere isはthere'sとかなり短く発音されます。もはやthere'sというひとつの塊として意識されているようなイメージです。多くの英語話者は、口語ではこの響きを優先しているのだと思われます。
このように原則と現実は異なります。個人的にはどちらも大事だと思いますが、学校ではどうしても原則にしか目が向かないのです。それにしても、何の気なしに、特に黒板に書くわけでもなく出した例を聞き取って、授業後に質問してきた生徒の方に私は驚いてしまいました。
さて、今回のような例から感じる教育とは何かについて話は広がっていきます。結論からいうと、今回の例のように教育が原則の押し付けになってはいけない、ということです。正しさを押し付けても、それによって必ずしも生徒が育つわけではないのではないか、と思うのです。今回の例でいえば、there areを原則として教えるけれども、there isも可能なのだという事実もまた指導するべきです。
もう少し、一般的な生活にまで話を広げます。例えば、ある学校では教員や外部の人には必ず立ち止まって挨拶するように、という原則があるとします。これは一見すると、見栄えがよく、「ここの生徒はすばらしいな」と思わせるだけに、多くの教員から支持されているように思われます。しかし、果たしてそれにどれだけ意味があるのでしょうか。そもそもほとんどの教員が実行していないこの行為に生徒を従わせることになんの意味があるのでしょうか。教員が生徒を支配している優越感は味わえるかもしれませんが。
ここでもうひとつ考えたいのは、これは「大きな声で挨拶しましょう」という類いとは若干異なるということです。つまり、大きな声で挨拶する、という行為は多くの教員がおそらくは実行しており、だからこそ対人関係において確実に大切だと思われる、つまり教員も従っている原則だといえます。その点で、「立ち止まって挨拶する」とは少し違った性質のものです。
ではこの「立ち止まって挨拶」を生徒に押し付けてよいのか。これは従わせるべき原則なのか。これは生徒個々の価値観の問題だと思います。立ち止まって挨拶したいならすればよいし、普通に挨拶したいのならそれでもよいのです。それによってどちらが優れている、という話にはならないし、立ち止まって挨拶をする生徒の方が(精神的に)育っているわけでもありません。
私は生徒に「大きな声で挨拶しよう」とは指導しますが、立ち止まって挨拶するようには求めません。英文法にも、生徒指導にも、守るべき原則と守らなくてもよい原則がある、というやや無理やりな結論なのですが、ちょっと無理があったでしょうか。とにもかくにも、私は押し付けがましくない教育がしたいなぁと思う今日この頃です。
世間はゴールデンウィークですが、教員にはゴールデンウィークはありません。部活三昧。はぁ。よくも悪くも忙しい毎日です。
【参考文献】
Swan, M.(2005). Practical English Usage. Oxford.
(1)There is still some seats available.(空いてる席がまだあります。)
例えばレストランに行く前に、今空いてる席があるか確認した時にこう言われるかもしれない、という例で提示したわけです。すると、授業の後である生徒から「There areの間違いではないですか?」と質問されました。なるほど、確かに原則的にはareを用いるべきです。つまり次のように指導するべきでした。
(2)There are still some seats available.
ただし、実際には口語では(1)のように言うことがかなりあります。Swan(2005)にも次のような例があります。
(3)There's two policemen at the door, Dad.(ドアのところに二人の警官がいるよ、お父さん。)
(4)There's some grapes in the fridge, if you're still hungry.(もしまだお腹が空いてるなら、冷蔵庫にブドウが入ってるよ。)(以上Swan(2005; 580)より)
口語ではこれらのthere isはthere'sとかなり短く発音されます。もはやthere'sというひとつの塊として意識されているようなイメージです。多くの英語話者は、口語ではこの響きを優先しているのだと思われます。
このように原則と現実は異なります。個人的にはどちらも大事だと思いますが、学校ではどうしても原則にしか目が向かないのです。それにしても、何の気なしに、特に黒板に書くわけでもなく出した例を聞き取って、授業後に質問してきた生徒の方に私は驚いてしまいました。
さて、今回のような例から感じる教育とは何かについて話は広がっていきます。結論からいうと、今回の例のように教育が原則の押し付けになってはいけない、ということです。正しさを押し付けても、それによって必ずしも生徒が育つわけではないのではないか、と思うのです。今回の例でいえば、there areを原則として教えるけれども、there isも可能なのだという事実もまた指導するべきです。
もう少し、一般的な生活にまで話を広げます。例えば、ある学校では教員や外部の人には必ず立ち止まって挨拶するように、という原則があるとします。これは一見すると、見栄えがよく、「ここの生徒はすばらしいな」と思わせるだけに、多くの教員から支持されているように思われます。しかし、果たしてそれにどれだけ意味があるのでしょうか。そもそもほとんどの教員が実行していないこの行為に生徒を従わせることになんの意味があるのでしょうか。教員が生徒を支配している優越感は味わえるかもしれませんが。
ここでもうひとつ考えたいのは、これは「大きな声で挨拶しましょう」という類いとは若干異なるということです。つまり、大きな声で挨拶する、という行為は多くの教員がおそらくは実行しており、だからこそ対人関係において確実に大切だと思われる、つまり教員も従っている原則だといえます。その点で、「立ち止まって挨拶する」とは少し違った性質のものです。
ではこの「立ち止まって挨拶」を生徒に押し付けてよいのか。これは従わせるべき原則なのか。これは生徒個々の価値観の問題だと思います。立ち止まって挨拶したいならすればよいし、普通に挨拶したいのならそれでもよいのです。それによってどちらが優れている、という話にはならないし、立ち止まって挨拶をする生徒の方が(精神的に)育っているわけでもありません。
私は生徒に「大きな声で挨拶しよう」とは指導しますが、立ち止まって挨拶するようには求めません。英文法にも、生徒指導にも、守るべき原則と守らなくてもよい原則がある、というやや無理やりな結論なのですが、ちょっと無理があったでしょうか。とにもかくにも、私は押し付けがましくない教育がしたいなぁと思う今日この頃です。
世間はゴールデンウィークですが、教員にはゴールデンウィークはありません。部活三昧。はぁ。よくも悪くも忙しい毎日です。
【参考文献】
Swan, M.(2005). Practical English Usage. Oxford.
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