財団康楽寺 西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である。
平成10年3月25日桜井能唯は金沢市に康楽寺本殿の建築地金沢市
湯湧町へ19番地等父の名義の土地を含め、5億4千万円で売却
する契約をし、市教育委員会が管理することがきまったのである。
昭和40年から江戸村の建設が、日本観光の資金であはじまり、
昭和42年には北陸鉄道から、8万4千3百平米の土地を、日本観光の
資金で買い、壇風園として、百万石文化園を日本観光の子会社として
設立、古い建物などを金沢市や福井市とうから移築し、見世物として
経営を始めた。
本来なら市町村が古い建物を管理し、観光の目玉とするのが普通
だが、ここは延命順作の仲間である、名古屋鉄道の明治村に倣って
江戸村を建設し始めたのである。
このアイデァは延命順作からきていることは明らかである。
延命順作は父の京都工作機械等を売却した資金で、能登で能登観光、能登
興行等を立ち上げ、日鉄の社長や、名鉄の社長、藤田観光の社長を
仲間に入れ、地元で幅を利かせていた。
延命順作は日本タイプの乗っ取りが旨くいかず、その子分が柳田村
の役場や京橋税務署の放火容疑で逮捕されると、責任を取って
日本タイプやレミントンランドの会社の社長を座を降りたが、日本タイプ
の顧問として父が保有していた元の日本タイプの本社の土地等を
支配して、三和銀行と一緒になって父の資産を自分のものとし、上記の諸会社を設立し、日本タイプや日本観光に君臨していたのである。
この延命順作の発案で明治村に倣って、江戸村を日本観光の資金
で建設を始め、壇風園の土地も日本観光の資金で購入したのである。
この時点で桜井能唯等の間には、日本観光、日本タイプの父の資産の分配
方法がきまり、それぞれの役割も決まっていた。
日本観光は桜井能唯が社長となり、日本観光の資金で百万石文化園
を設立、日本観光は40億以上の借り入れを行い、本体である日本観光は僅か800万円の利益で、1億以上の金利を支払っていたのである。
日本観光は当時は20億を下らない売り上げを上げていたが、
その利益は百万石文化園に振り替えられ、または事業投資組合に
日本観光の利益を付け替え、百万石文化園に付け替えしていたのである。
その結果百万石文化園はいつの間にか桜井能唯の個人の所有物と
なったのである。
残ったのは日本観光の多額の借財と金利であり、桜井能唯の資産の
増加であり、弁谷貞造の妻の多額の資産の増加である。
それと康楽寺の存在であった。
康楽寺は膨大の父の資産をゆうしていたのである。
この康楽寺も事実上、金沢市に売却したのである。
金沢市は日本観光が倒産する直前に百万石文化園を買い取ったのである。
平成10年5月15日に日本観光は自己破産の申し立てを東京地裁に提出した。
つまり金沢市が百万石文化園を買収りたのが同年3月25日であるか
ら、その直後のことである。
しかも日本観光は破産申し立ての豫納金700万円が支払えず
三和銀行が代わって平成10年12月9日に代納している。
その間平成10年9月から金沢市は百万石との売買契約を完了
平成10年10月9日には江戸村等の金沢市としての今後の利用再開発方法を次々に発表し、既成事実化している。
日本観光の社長は平成10年12月に脳溢血で倒れ、上記三和銀行が
700万円を代納して、日本観光の自己破産が
平成11年2月15日
に漸く決定をしたのである。