プロコフィエフの日本滞在日記

1918年、ロシアの若き天才作曲家が、大正期のニッポンで過ごした日々

ダーチャの思い出

1918-06-20 | 日本滞在記
1918年6月20日(旧暦6月7日)

『白い友人』を少しずつ書き始めた。これまでのなかで一番出来がいいと思うし、真面目で詩的な内容を滑稽に書いてみることになると思う。

 ここは仕事をするのに最適な場所だが、なかなか仕事に戻れない。去年の夏を懐かしく思い出す。のんびりとくつろぎ、どこに急いで行くわけでもなし、自分の仕事と快いダーチャ〔別荘〕での生活を楽しんでいたものだ。一方ここでは、私は通りすがりでしかなく(この一年というもの、目的に向かって常にあわただしかった)、集中することも没頭することもできない。ところで私が達した結論は(恥ずかしながら!)、私はお金が好きなのだ。おそらくこの旅のあと、お金が入ることだろう。

訳注:『白い友人』は、後年発表された短編集のなかには含まれていない。

奈良へ

1918-06-19 | 日本滞在記
1918年6月19日(旧暦6月6日)

 バイオリン・ソナタのためのアンダンテのアイデアが生まれる。四時に奈良へ移動した。広大な聖なる公園のなかにある湖のほとりに、無数の寺や記念碑とともに素晴らしいホテルが建っている。公園には聖なる鹿が歩きまわっている。よくなついていて、パンをやり始めるとまわりを取り囲まれてしまう。池には体長70センチほどの金色の魚がいて、太っていていやらしいが、やはり聖なるものだ。ここは静かでのびのびとしている。見事な鐘は、形はミトラ〔主教などの典礼用冠〕を思わせ、音は大きく上等なドラを思わせる。

短編小説集

1918-06-18 | 日本滞在記
1918年6月18日(旧暦6月5日)

 火曜日。『誤解さまざま』を書き終えた。これでもう短編小説が六編と構想が四つ。全部で十編になる。もう十分だ。

 ピアストロは、着飾ったガールフレンドと一緒に海辺に出かけていった。メローヴィチは、列車で二時間離れた奈良に移動し、そこから電話をかけてきてこっちに来ないかという。とびきりいいホテル〔奈良ホテル〕が公園のなかに建っているのだ。私も行くことになろう。

水路巡り

1918-06-17 | 日本滞在記
1918年6月17日(旧暦6月4日)

 ピアストロと彼が上海でひっかけてきた可愛いガールフレンドと一緒に、当地の水路を舟で巡った。長いトンネルの中を通るのが、この水路の最も興味深いところだ。〔訳注・琵琶湖疏水のことと思われる〕

三つのオレンジへの恋

1918-06-16 | 日本滞在記
1918年6月16日(旧暦6月3日)

『許し難い情熱』を執筆。『三つのオレンジへの恋』を読み直した。これをオペラにするというアイデアが大層気に入ったし、必ず書こうと思う。ただし結末が気に入らない。べヌアはイタリアの原書をくれたので、イタリア語で読み返さなければならない。さらに、同時進行して起こる地下勢力の出来事を分け、それらをこの世で起きる出来事と対応させる必要がある。

茶屋の娘

1918-06-15 | 日本滞在記
1918年6月15日(旧暦6月2日)

 今日は一日じゅう一人で過ごし、『許しがたい情熱』を(おおいに楽しみながら)書いたり、ショパンをイメージで練習したり、考え事をしたりした。夜はメローヴィチと茶屋に出かけた。ここには多くの茶屋があり、芸者衆が踊っている。四人の尻軽娘たちが私たちの前で「ネイクド・ダンス」、つまりが裸踊りを踊ってみせた。踊りそのものは、西洋人をバカにして、ただ飛び跳ねているだけのように思えたが、まさしく素っ裸になって、あとで「ショートスリープ」してもいいような素振りさえ見せる。挙句の果てに、一番可愛い子が私の膝に座りながら、真珠のネクタイピンをくすね取った。幸いすぐに気づいたのでタイピンは見つかった。私の胸に顔をうずめたとき、髪の毛にひっかかった、と娘は言い訳していた。

京都散策

1918-06-14 | 日本滞在記
1918年6月14日(旧暦6月1日)

 もう五日間も何も仕事をしていない。物足りない気分なので、今日はどこにも出かける必要がなくてよかった。メローヴィチと一緒に、無数の寺や珍しい水路(トンネルを抜ける運河)を備えた、素晴らしい景色の京都近郊を散策した。これこそ本物の日本だ。メローヴィチはアメリカへ行く途中、ホノルルでコンサートをすることを薦めてくれる。素晴らしいアイデアだ。ホノルル行きは私の夢なのだから。宿の部屋は素晴らしい。和洋折衷で、彫物を施した左右に開く壁とタタミがある。ただとにかくバカ高くて、円はあっというまに羽根がはえて消え、ルーブルはさらに下落してしまった。残りの何枚かの五ルーブル札をどう替えていいかわからない。以前はもっと価値があったのに!

日本最後の日

1918-06-13 | 日本滞在記
1918年8月2日(旧暦7月20日)

 明け方四時、弱い地震があった。さほど恐ろしいものではなく、言ってみればキスロヴォーツク〔コーカサス〕の地震に比べたら優雅なくらいだ。心地よい揺れが、五分ほど続いた。

 徳川氏から電話があった。彼は私の作曲が間に合わなかっことを大層残念がり、私との文通を望んだ。彼のことはもういい。どうにもならないことは、わかっていた。おまけに私の最後の1500ルーブルは、375円で両替できるはずだったのに300円に。その結果、チケットを買ったあとポケットに残ったのはホノルル用の73ドルだけ。腹が立った。ミンステル一家が横浜まで見送りにきてくれた。「73ドルと真珠のピンで出発だよ」と私が笑いながら言うと、ミンステルは、今はいらないからと100ドル相当の5枚の金貨を持たせようとする。今やどこでも手に入らない金貨なんて、持っていきたくなかったが、彼はとても親切で、今は遠慮していてもホノルルできっと役に立つ、と言い張る。そこで、必ず金貨で返すと約束して、もらうことにした。
 それに正直に言うと、船に乗って、この金貨5枚があることでとても満足できた。
 二等クラスにもかかわらず、個室に入れた。

 肘掛椅子にもたれかかったいたら、静かに静かに岸から離れていくことさえ気づかなかった。グロチウス号はかなり大きなオランダ船で、8000トン、ジャワからサンフランシスコに向かう。夜通し、岸が見えていた。

 夜はよく眠れ、朝四時、明け方直前に甲板に出ると、素晴らしい光景が見えた。星々が消えて明るくなり始めた空に、欠けた月と木星と、晧々と光る金星が並んで輝いていた。<完>




*ついに最終回となりました。長い間、ご愛読ありがとうございました!
少々夏休みをいただきますが、折を見て追加情報や裏話もお届けしたいと思っております。
ご意見、ご感想などぜひぜひコメントをお寄せくださいませ。

訳者一同より


大阪

1918-06-13 | 日本滞在記
1918年6月13日(旧暦5月31日)

 急行電車で大阪に行った。活気のある真に日本的な街で、ヨーロッパ人には一人も出会わなかった。ことに珍しい光景は劇場、それも舞台ではなく、客席だ。全員が箱のような枡席に座り、弁当をほおばり、ものすごい早さで扇子をあおいでいる。興味深いのは、数千もの大小の灯りと、そぞろ歩く大群衆があふれた夜の大通りだ。わが国の床屋にはマニキュア部門があるが、ここには耳掃除部門がある。じつに面白い。わが国の耳の遠い音楽家連中を、こちらに送ってはいかがなものか。

京都へ

1918-06-12 | 日本滞在記
1918年6月12日(旧暦5月30日)

 朝八時半、メローヴィチと特急列車で京都に出発した。京都まで十一時間の旅だ。特急には小さいながらも優雅な展望車があり、かなり速度が速い。美しく、居心地がよく、非常によく整備された日本の旅に、私はおおいに満足した。メローヴィチはいいやつだ。展望車のデッキの肘掛椅子に腰を下ろしながら特急列車で日本を旅し、ドビュッシーの『花火』について語る日が来ようとは、エシポワ先生の教室で学んでいた頃は思いもしなかったと二人で笑い合った。

 私の日本円は確実に減りつつある。もしストロークが信用できなかったとすれば、私の立場は危機に瀕していたにちがいない。