プロコフィエフの日本滞在日記

1918年、ロシアの若き天才作曲家が、大正期のニッポンで過ごした日々

東京~横浜

1918-06-01 | 日本滞在記
1918年6月1日(旧暦5月19日)

 朝五時、東京着。東京ステーションホテルに部屋をとる。駅の真上にある、とてもいい洒落たホテルだ。しかし真っ先に私の目に飛び込んできたのは、東京汽船会社のバルパライソ〔南米チリの港町〕行きの船についての知らせだった。船は三日前に出航し、次は二ヵ月後だというのだ! なんてこった! 確かに出航済みの船は、サンフランシスコをはじめアメリカ西海岸の各港を経由するため69日間もかかるが、8月2日には着くだろうし、料金も500円ですんだのに。私にとって好都合で唯一の慰めだったのは、おそらく一週間前でもチケットは一枚もなかったことだろう! ここでは一ヵ月前に手配しなければならないのだ。そうこう考えながらだだっ広い東京を散策し、そのあと風呂に入り(蒸し暑い気候のせいで汗だくになってしまい、ミーレル式のマッサージができなかった)、電車で横浜に出かけた。

 ああ、横浜で太平洋の静かで澄んだ海面を初めて見たときの、深い感銘といったら! これは単なる海ではなく、まぎれもなく偉大なる太平洋だと痛切に感じた。
 我々は丁重でへつらうような使用人というものをすっかり忘れていた。ここ日本の従業員は、ブレックファストの席で何度もお辞儀をし、あれこれと気を使いながら天気が悪いことを詫び、私のお世話をさせていただく名誉に謝意を表する。スモーキング・ルームでは、両脇にクッションを置いてくれる。とても感じがいいし、どの国にもその国の流儀がある。だが、正直に言ってこれはやりすぎだ。

 横浜ではまず、新しい黄色い靴を喜び勇んで買った。その後、船会社をいくつもまわり、アルゼンチン領事館に行き、いつどんな船が南米に行くか調べてみた。けれども、どこに行っても結果は不愉快きわまりなかった。船旅は時間がかかるし、近々出る船の予定はないという。
 今日は土曜だったので、午後一時にはどこも閉まってしまい、月曜まで開かない。いい知らせが何もないまま、二日間手持ちぶさただ。
 その時、ポスターが目に入った。「メローヴィチとピアストロ演奏会、興行師ストローク」。〔当時の表記では、Merovichはミロウィッチ〕念ずれば通ず!
 ストロークは、東アジアやジャワ、シャムといったエキゾチックな国で最も活躍している興行師だ。彼の拠点は上海で、私はある意味彼がいるがために上海へ行こうと思っていたのだ。それが今、私も彼もここにいる。

 じきに横浜グランドホテルでメローヴィチとばったり出会った。彼はエシポワ先生〔1851-1914、著名なピアニスト、ペテルブルグ音楽院教授〕のクラスを、私が入るのと入れ替わりに優秀な成績で卒業している。私のことはほとんど知らなかったが、東洋に六年暮らしていれば、私の噂を聞くことなど稀だろう。ちょうど彼の兄弟から、上海で手紙を渡してくれと頼まれていたので、メローヴィチはすぐに手紙のことも私のことも喜んでくれた。メローヴィチも、私の古い同級生(音楽院の初等クラスの)であるピアストロも、東アジアで大きなキャリアと資産を築き、今はこちらで大金持ちになって暮らしている。メローヴィチいわく、ストロークは二人に頼りきっているが、二人が彼に頼っているわけではないという。メローヴィチは私に、日本と東洋でストロークの手配で、彼らの次に一連のコンサートを開くことを薦めてくれた(二人は二ヵ月休んでからジャワに行く予定なので、メローヴィチはもちろん喜んでストロークを紹介してくれるという)。彼らはアジアでは、上海で18回、ジャワその他で60回コンサートを開いていた。なるほど、アメリカの空を飛ぶツルより、アジア沿岸で確実なシジュウカラを捕まえたほうがいいというわけか? こんな熱帯の中心を旅するのも、アメリカに劣らず面白そうだ。いずれにしても、ロシアに別れを告げた時からすでに考えていたことでもあるし、南米行きの船がない今、ここでの興行の可能性があるなら考えてみる必要がある。もういいかげん、お金が足りるかどうか数えては節約するのがいやになった!