プロコフィエフの日本滞在日記

1918年、ロシアの若き天才作曲家が、大正期のニッポンで過ごした日々

スフチンスキーへの手紙

1918-06-11 | 日本滞在記
1918年6月11日(旧暦5月29日)

 メローヴィチとピアストロ、ストロークは、コンサートを開くために京都と大阪に出かける予定だ。メローヴィチが私にも来ないかと言う。どちらも歴史ある本物の日本の都市で、とても好奇心をそそられる。東京ではどのみち何も用がない。そもそもストロークが七月六日まで何も手配しないのであれば、私には丸一ヵ月することがないのだ。しかし彼が言うには、日本では東京の帝国劇場から始める必要があり、六日以前の帝劇はとれないのだそうだ。アメリカも八月末以前に行く意味はない。となれば、日本と仕事を楽しもうではないか。

 P.P.スフチンスキー〔ピョートル、1892~1992。音楽評論家・音楽史学者〕へ。

「親愛なる友よ。もう二週間も日本帝国の首都で生活を楽しんでいる。日本の美しい場所を見てまわるつもりだ。その後いくつかコンサートを開き……さらに遠く、もっと遠くへ! お元気で。S.P.」

ロシア大使館

1918-06-10 | 日本滞在記
1918年6月10日(旧暦5月28日)

 二度目のロシア大使館。今回は、私がそれなりの作曲家だと聞き知って、驚くほど親切に扱われ、ワシントンのロシア大使館宛ての紹介状をくれた。オボリスキーにこの紹介状とともに、マク・コーミク宛ての手紙と尽力の結果を知らせる電報代として20円を渡した。彼は一ヵ月後にビザが手に入るよう全力を尽くすと約束してくれた。

 ロシア大使館では、アリアドナ・ルマノヴァのことも知らされた。大使館の二等書記官ベール伯爵が少々悪意をもって述べるには、アメリカでは「ルマノフ」は「ロマノフ」と似ているので、皇族の、おそらくは庶出の子孫ではないかと思われているという。

米国ビザ

1918-06-09 | 日本滞在記
1918年6月9日(旧暦5月27日)

 オボリスキーという青年を紹介されたが、彼は親切にもアメリカのビザの手配を世話すると申し出てくれた。あさってニューヨークに発ち、現地で大使館やロシアの然るべき要人たちに連絡してくれるという。私は喜んで彼にすがり、ビザのために尽力してくれるよう頼んだ。

『許しがたい情熱』をこつこつ書いている。
 バイオリン・ソナタは、はかどらない。

帝劇公演決定

1918-06-08 | 日本滞在記
1918年6月8日(旧暦5月26日)

 ロシアからの連絡(電報)が、もう十日も途絶えている。イルクーツクでボリシェビキとチェコスロバキア軍団が衝突したからだ。

 私の計画はかなり先が見えてきた。ストロークは七月六・七日に帝国劇場をおさえ、そのあとで一連のコンサートを予定している。そしてもし1700円(とビザ)が手に入れば、私はニューヨークへ行き、一ヵ月滞在するつもりだ。もしニューヨークで連続コンサートを開けることになったら留まるだろうし、もしそうでなければ十月までに上海に戻って、交響楽コンサートを開くことになるだろう。

 もし確実にコーシツかコハンスキー〔パーヴェル、1887~1934。ポーランド出身のバイオリニスト。ぺテルブルクとキエフの音楽院で教師を務めた〕が来るのであれば、アメリカを捨てて、東洋の残りのコンサートのために留まる意味があるのだが、ロシアと連絡がとれない状況とあってはどちらも当てにできない。となると、アメリカに賭けるしかない。それにもまして私にとっては、アジア人や半ヨーロッパ人より、理解のある聴衆の前でコンサートを開くことに大きな意味があるのだ(もっとも、アメリカの聴衆の理解力もさほどあてにしていないが)。

スケルツォ

1918-06-07 | 日本滞在記
1918年6月7日(旧暦5月25日)

 短編小説《Преступная страсть(許しがたい情熱)》を書き始めた。

 バイオリン・ソナタ。スケルツォが、つまらなく間の抜けたものになっていないだろうか? とにかく書くならいいものにしなければ。でなければまったく書かないほうがいい。昼はオセ・アイコ氏〔おそらく尾瀬敬止〕を訪ねた。バリモント〔コンスタンチン、1867~1942。銀の時代を代表する詩人〕から手紙を預かってきたのだ。彼はロシア語を話し、ロシアについての新聞を日本語とロシア語で発行している。バリモントに首ったけだ。まあ、さして面白くもなし。

 アリアドナ・ニコラーエヴナ〔知人のピアニスト〕、夫の名でルマノヴァは、最近、日本経由でアメリカに行き、あいも変わらず当地をひっかき回していったそうだ。マクス・シュミトホフと一緒に彼女に手紙を書いた頃、彼には想像できただろうか? 月日は流れ、あれから5年後、私が東京の大通りを二人の日本人ジャーナリストと歩きながら、「偉大なる窓」〔日本〕からアメリカに転がり出ていったアリアドナの話をすることになるなんて。マクスならきっとこう言っただろう。「そりゃすげえ!」と。アリアドナは当地のどこかで演奏したが、日本人に言わせると、指ではなく「顔」で弾いていたという。

 今朝、警官が訪ねてきて、船を降りた時と同様、またもや根ほり葉ほり質問された。職業は、目的は、出身は、父親の職業は、などなど。しかしこんなことを気にしても始まらない。みんな同様に扱われているのだから。警官が二十人ほどのリストを見せてくれた。アメリカ人もロシア人も、皆ホテルに泊まっている客たちだ。

日本女性

1918-06-06 | 日本滞在記
1918年6月6日(旧暦5月24日)

 午前中、ソナタを書いた。午後は、東京のヴィソツキー宅を訪ねた。東京の人たちは洒落ている。ストロークはメローヴィチのコンサートを開くために神戸に出かけた。私についての長い記事が東京の各新聞に載った。夜は日本女性。だが用心しすぎて満足できなかった。

バイオリン・ソナタ

1918-06-05 | 日本滞在記
1918年6月5日(旧暦5月23日)

 ストロークが私のところに朝食をとりにきた。彼はコーシツに電報を打とうとしているが、彼女が来るとしたら彼ではなく、私の呼びかけに応じてだ。しかし私が声をかければ、彼女はまったく別の意味にとるだろう。それに私はまだ北米行きの考えを捨ててはいなかった。

 バイオリン・ソナタを少しずつ書き始め、短編小説を引っぱり出した。夜は色とりどりの灯りがともる銀座を散歩した。カフェー「シンバシ」で夕食をとった。

 ストロークが私に、メローヴィチとピアストロは本当に偉大な芸術家だろうかと尋ねた。いい芸術家だが一流ではない、と私は答えた。ほかに言いようがあるだろうか? 彼はまた、二人はモスクワやペトログラードで成功するだろうかと尋ねた。私の答えは「いいえ」。はたして嘘をついて「はい」と言うべきだっただろうか? どのみち彼らはもうこの地で名声を築いたのだ。

娼館ナンバーナイン

1918-06-04 | 日本滞在記
1918年6月4日(旧暦5月22日)

 ストロークのところで昼食をとった。私にやけに媚びへつらう。このポーランド系ユダヤ人の興行師は、まともな芸術家だけを相手にすることに熱を入れている。彼は私と仕事をすることを大いに望んでいるが、アジアの国々で真の成功を収めるには、ペアでリサイタルを開いたほうがいいと言う。もし私が素晴らしい歌手(例えばコーシツか)と組むとなったら、彼は秋に日本、中国、はてはインド(!)で60回以上のコンサートを開きたいようだ。

 アメリカかインドか? コーシツを確保するのか? 夜、ピアストロとメローヴィチのコンサートに行った。印象は悪くない。聴衆は洋装でお洒落だし、演奏も悪くないし、プログラムもいい。メローヴィチは一流ピアニストとはいえないが、悪くない。ピアストロは素晴らしいバイオリニストだ。彼のために、バイオリン・ソナタを作曲したらどうか。

 夜、メローヴィチとストロークと一緒に、「ナンバーナイン」とやらを見に出かけた。メローヴィチは結局途中で脱落したが、私とストロークはたどり着いた。そこは何のことはない、日本人用とヨーロッパ人用の部屋がある娼館だった。我々を迎えてくれたのは年とったおかみで、私に言わせれば「ホッテントット」だった。それから四人の日本女性が姿を現したが、そのうちの二人はとても可愛らしかった。この四人の若く、とてもよく躾けられた女奴隷たちは、かしこまって入ってくるとお辞儀をし、壁際に並んだ。彼女たちに何かのシロップをご馳走し(しかも彼女たちはコップを手にして掲げると、我々の健康を祝して一口で飲み干し、テーブルの上に置いた)、十分後、我々はその場を去った。下心はなく、単なる好奇心だった。

 ペトログラードのA.N.ベヌア〔主に舞台美術を手がけた画家〕へ。

「敬愛するA.N.さま。〔絵葉書の〕表にある清水寺をご覧いただくとおわかりのように、ここまで無事たどり着きましたし、ここはいいところです。あなたとご家族の皆様に心穏やかにご挨拶いたします。コンサートを開き、何週間か滞在します。サーシャ-ヤーシャへの手紙は、近いうちに北京に行く人に託せなかった場合は、ポストに投函しておきます。心から愛をこめて。S.P.」

銀座を歩く

1918-06-03 | 日本滞在記
1918年6月3日(旧暦5月21日)

 横浜のヴィソツキー(メイエルホリドから手紙を託された)のところで朝食をとった。やはり船はまるでなかった。それにもし北米を経由するなら、北米のビザが必要だが、ロシア人がそれを手に入れるのは不可能に近い。

 ストロークとメローヴィチは、八月にニューヨークに行くよう薦めてくれた。ロシアの芸術家があまり受け入れられていないというのは事実ではない。ジンバリスト〔エフレム、1889~1985。ロシア生まれの著名なバイオリニスト。米国に亡命〕、エルマン〔ミーシャ、1891~1967。ロシア生まれ。アメリカで活躍した名バイオリニスト〕、アウエル〔レオポルト、1845~1930。ハンガリー出身、ぺテルブルク音楽院教授を務めた名バイオリニスト。米国に亡命〕はけっこうな実入りを得ている。もっとも、ここでコンサートで景気づけをしてから、ニューヨークに行くのもいいではないか。そもそもアルゼンチン行きを思いつく前は、そうしたいと考えていたのだから。

 夜、街の中心地、銀座を歩いた。華やかで賑やかで、たくさんの小さな灯りに照らし出されている。活気があって楽しいところだ。これで可愛い日本人女性がいたらいいのに。

横浜グランドホテル

1918-06-02 | 日本滞在記
1918年6月2日(旧暦5月20日)

 四時にメローヴィチ、ピアストロ、ストロークとお茶を飲んだ。私は最初、二流どころの芸術家二人と、当地でのコンサートの舞台で一緒にされ、彼らの助言や要望を聞かなくてはならないかと思うと何やら不愉快だった。しかし彼らは感じがよく控えめで、とにかく楽しく人のいい連中だったので、すぐに楽しく打ち解けた雰囲気になった。ストロークはぺこぺこして、一週間後にメローヴィチとピアストロとの仕事を終えたら、東京と横浜で私のコンサートを開く算段だと告げた。残念なことに、上海でのシーズンは終わってしまった。そうでなければ連続コンサートを開けたのに。夜はメローヴィチと彼のファンとその女友達――ひどくいたずら好きなご婦人二人――と一緒にカフェー・ライオンに出かけ、個室でえらくふざけた。

 ペトログラードのB.N.ヴェーリンへ。横浜にて。

「親愛なるボーレンカ。東京から電車で50分、横浜のグランドホテルのベランダに座っている。近くには澄んだ穏やかな太平洋が広がり、二、三万トン級の巨大な船が何艘か桟橋を飾っている。カフェーでは日本人が深々とお辞儀をし、私に敬意を表する。隣の席から『ダブル』と声がする。ロシア人亡命者達がブリッジをしているのだ。私の船は三日前にバルパライソに出発してしまったので、しばらくここにいる。コンサートを開く予定。抱擁を贈る。S.」