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柳川の柳川鍋

2015-04-20 23:58:26 | 九州の梅を訪ねて

 

 次に、大牟田の柳川へ向かいました。
 

 


 柳川に着くと最初に、藩主立花家の邸宅であった、「御花」という施設に行ってみました。

 

 明治43年に立花家の迎賓館として建てられた、白い鹿鳴館様式の流れをくむ建物が華麗でした。

 

 

 この建物は現在、結婚式場として利用されています。

 

 すぐ近くに食事処があり、ショーケースに蝋細工のメニューが陳列されて、広々としたテーブル席に次々と観光客が入って行きます。

 

 まるで、デパートの食堂みたいでした。

 

 そして柳川と言えば、何と言っても柳川鍋です。

 

 運河沿いを歩いて、居並ぶ料理屋を物色しました。

 

 

 幾つかの店を窺い、川下り乗下船場近くの「福柳」という鰻屋へ入ることにしました。

 

 後で調べると、この店は江戸時代中期から150年程も続く老舗のようです。

 

 

 店内へ入ると、重厚な木造りの帳場があり、その先へ通路が長く伸びていました。

 

 

 左手に二席の小上がりがあります。

 

 

 その先に、吊るし雛を飾るスペースが続き、

 

 

 右手に中庭を見る椅子席が設えてありました。

 

 

 更にその通路の先に、ガラス戸で仕切られた部屋が見えます。

 

 

 そして引き戸を開けて中へ入ると、見事に和洋が調和した「南風のまほら館」と名付けられた部屋に通されました。

 

 高い天井にステンドグラスの窓が嵌り、石造りの暖炉が据えていました。

 

 

 明治初期の頃の、文明開化を彷彿とするような、豊かな地方文化の香が漂います。

 

 メニューは鰻が中心ですが、私は当然柳川鍋を注文しました。

 

 オーダーを取りにきたお嬢さんが、「柳川鍋はドジョウですが」、と親切に教えてくれました。

 

「ええ、結構です」と答え、「こちらでは、昔から柳川鍋を出されているのですか?」と聞くと、ちょっと小首を傾げながら、「ええ・・」と戸惑ったような表情でした。

 

 あれま~ と思いました。

 

 アルバイトの方で、メニューに関する知識がないのかなと思いました。
 

 

 

 

 更に、「むつごろう」の煮物を追加注文しました。

 

 何しろ、こんなに有名な「むつごろう」を、私は今まで一度も食べたことがなかったのです。

 

 

 柳川鍋は、ちょっと甘めで、熱々フウフウのほっこりしたドジョウ鍋の、すこぶる結構な味が、深く深く記憶に刻まれたことでした。

 

 一方で「むつごろう」さんは、

 

 ん~・・・、 醤油で煮込んだ、煮物の味しかしませんでした。 

 

 ところで、このブログを書くに当って、ネットで「柳川鍋」を検索してみますと!

 

 「柳川鍋(やながわなべ)は、ドジョウを使った江戸生まれの鍋料理。

 

 どぜう鍋と同じくドジョウの鍋料理であるが、開いたドジョウを予め割下で煮こみ卵とじにしている点で一般的などぜう鍋と区別されることが多い。」

 

 ひぇ ~ !!  柳川鍋は柳川発祥ではなかったんだ!

 

 うっちゃられた~~~ 

 

 ちなみに、「ドジョウの鍋料理は、まず、文化元年(1804年)に浅草駒形で越後屋がドジョウを開かずにそのまま使った鍋料理を創始したとされ」だそうです。

 

 以上、お粗末サンタ、参ったサンタでした。

 

  

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熊本から大牟田へ

2015-04-20 00:30:26 | 九州の梅を訪ねて

 

 2月13日

 

 熊本市内から国道208号を北へ向かいました。

 

 暫くはしると、道路脇に「田原坂」の標示が見えました。

 

 えっ、田原坂ってこんな所なのか、と思いました。

 

 西郷隆盛が鹿児島なので、田原坂は熊本と鹿児島の間に位置すると勝手に思い込んでいたのです。

 

 

 それにしても、直接目にした田原坂の地形に、何でこんな所が戦争の帰趨を決めたのだろうとの疑問が生じてきました。

 

 眼下の谷と、丘の上は数十メートル程の高低差しかありません。

 

 しかし、解説によれば、「この付近は、3月4日から17昼夜に及ぶ激戦地で、当時は昼尚暗き森林の中を通る主要道路で、他に大砲や弾薬を運ぶ道はなく、麓から頂上に達する落差60mの切通した田原坂(一の坂、二の坂、三の坂)には、官軍、薩軍双方がとりでを築き、一進一退の大攻防戦が展開された。

 

 結果は薩軍が敗退したが、この間7日間はみぞれまじりの雨また雨の連続であったと伝えられる。」

 

 だそうです。

 

 

 私は西南戦争が起きた理由を知りませんでした。

 

 改めて調べてみますと、明治政府を樹立した、後の韓国に対する政策論争の末に西郷隆盛が政府役職を辞して鹿児島に戻り、私学校を設立しますが、その生徒達が政府の弾薬庫を襲う事件が戦争の引き金となったようです。

 

 江戸幕府から明治政府へと政権が代わってもまだ、薩摩、長州、尾張、会津といった、藩政を基盤とするお国意識が国民の中に残っていたのでしょう。

 

 また武士階級の特権はく奪による混乱が続く中で起きた内戦だったようです。

 

 田原坂の戦いの時、坂の頂にあった民家の土蔵が、両軍の銃弾で無数の疵を受けました。

 

 戦いの直後に撮影された写真を参考に、昭和63年に土蔵が復元されていました。

 

  

 

 国道208号に戻り、再びナビのお姉さんに進路を委ねました。

 

 1時間程もはしると、熊本と福岡の県境を越えて、大牟田市の普光寺に到着しました。
 
 

 

 普光寺は大牟田市街を見下ろす、三池山の中腹にあります。

 

 市街地の奥で、有明海が空と大地との狭間に一筋の蒼い基線を見せていました。
 

 

 

 普光寺には、福岡県の天然記念物に指定された臥龍梅があります。

 

 

 この臥龍梅は樹齢350年以上とも云われ、南側にある親株から北に向かって枝を伸ばし、枝が地に触れた場所から根を出して、24メートルもの長さになっています。

 

 掲示板には、八重咲きの見事な紅梅が、早い年で2月中旬頃、遅い年では3月下旬頃に開花すると記載されていました。

 

 

 

 普光寺の本堂横には、大宰府天満宮の飛梅が花を咲かせていました。

 

 

 二分咲きの紅梅が、暖かな陽射しを浴びながら微笑ます。
  

 

 普光寺は、823年(弘仁14)に嵯峨天皇の皇子が建立し、天台宗の僧・円仁が寺にしたと言われる古刹で、古くから厄除け、方除け祈願のお寺として信仰を集めているようです。

 

 寺には南北朝中期に活躍した石工、藤原助継の銘が刻まれた不道明王板碑や、1429年(正長2)に京都で作られた慈覚大師坐象などが大牟田市の文化財に指定されています。

 

 境内には、製作年代が1317年から1520年に及ぶ数多くの石塔が並び、その紀年銘も南朝、北朝の年号が混在し、当時の混乱した状況が見て取れるようです。

 

 

 

 私は本当に日本史音痴だったのですが、今回の旅で、知識のアンカーとなるものを勉強させてもらった気がしています

  

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