柳川と言えばもう一つ、見逃せないのが北原白秋です。
「福柳」の直ぐ近くに、北原白秋の生家が記念館として保存されていました。
北原白秋は、明治18年(1885)に柳川の酒造業を営む家に生まれますが 、生家は明治34年の大火で大半を焼失しました。
昭和44年に生家が復元され、昭和60年には生誕百周年を記念した記念館(資料館)がオープンしています。
復元された生家に入ると、土間の横に酒桶が並べられていました。
土間の奥の、広い畳の部屋には数多くの吊るし雛が飾られています。
生家の間取りに、豊かな商家の暮らしが窺えます。
母屋の裏に掘割が通り、その水辺へ下りる石段に屋根が渡されていました。
その屋根を支える白壁へ、掘割の水面に反射した陽の光が揺れています。
北原白秋は、その様を「水陽炎」とか「昼ねずみ」とよんでいたと、壁に説明が掲げられていました。
このような、身辺のさり気無い現象に意識を寄せて、言葉に表すことができるのが、詩人たるゆえんなのでしょうか。
生家の壁に、北原白秋が作詩した校歌、社歌の一覧が見えます。
校歌では、東京大学の歌、芝浦工大、駒沢大学、慶応山岳会の歌、岐阜薬科専門学校、同志社大学、釧路小学校、県立湘南中学校、大連中学校など、隈なく全国の小中大学に及び、
社歌ではブリジストンタイヤ行進曲、白洋舎社歌、丸善の歌、
市町村歌では、八王子市、横須賀市、水戸市、福島市などと、
見ているだけで白秋の評価の高さが理解できます。
数日前に宮崎県の山奥で若山牧水の生家を訪ねましたが、北原白秋と牧水は明治37年に早稲田大学に入学し、中林蘇水とも親交を深め「早稲田の三水」とよばれていたそうです。
28歳で結婚して神奈川県三崎に転居しますが、その時に「城ケ島の雨」、36歳の信州滞在中に「落葉松」などの代表作を発表しています。
私生活では、 35歳(1920年)で小田原の住宅の隣に山荘を新築し、小田原の芸者総出の祝宴を挙げ、それが原因で離婚するなど、相当なお坊ちゃんだったらしいことも覗い知ることができました。
白秋の生家を訪ね、「ゆりかごのうた」「砂山」「ペチカ」「あわて床屋」など、日本人なら誰でも知っている名作を、童心のままに作詞したと思える白秋の生い立ちを知ることができました。
昼食に、想い出深い柳川鍋を食し、白秋の生家で存分に時間を費やして、時計を見ると14時を過ぎていました。
博多へ向かうには少々早すぎます。
そこで、思い付いたのが由布院です。
何だか今日はのんびりと温泉に浸かってみたい気分になっていました。
そうと決まれば、後はナビのお姉さんにお任せして、私は黙ってハンドルを握るだけです。
福岡県南部のストレスのない田舎道をはしり続け、やがて正面に雪を被る久住山系らしき山容が見えてきました。
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