島原市内を抜け、雲仙岳へ登る国道57号をはしってきました。
あれ? 昨日の熊本から天草への国道も57号だったはずです。
不思議に思って調べますと、国道57号は大分市から西に伸びて熊本市へ通じ、更に宇土半島に沿って三角まで、今度は国道が海を渡り島原外港から雲仙岳を越えて諫早まで続いていました。
国道の番号とはいったいどのように決めるのでしょうか?
雲仙岳をめざし坂道を上ってきますと、
普賢岳への分岐から先が、積雪・凍結の為に「通行止」となっていました。
そうですか!
この季節、1000mを越える九州の山には積雪を覚悟すべきなのですね。
雲仙は花の百名山なので、主峰である普賢岳1359mを間近に見ておこうと思ったのですが、誠に残念でした。
しかし、諦めながら諫早方面へ向かって下り始めますと、ゴルフ場の脇から雪を被った普賢岳が一瞬の姿を見せてくれました。
雲仙地獄の蒸気の間を潜って雲仙道路を海岸まで下ります。
海岸沿いの道に下り、再び普賢岳を見上げましたが、雪の頂きは雲のベールに包まれたままで、全貌を見せてくれることはありませんでした。
長崎市内に入ってきました。
市電の姿にビルの大きさが調和しています。
西新宿のような高層ビル群の中に市電は似合わないと思えます。
長崎へやってきたのは、梅園身代り天神宮の梅が主目的です。
ナビの案内のままにはしっていると、思案橋と書かれたアーチが見えてきました。
周囲に歴史を感じさせる建物が並んでいました。
駐車場を探していると、「寄合町遊郭」と書かれた看板を目にしました。
「江戸時代、丸山は、江戸の吉原、京の島原とともに日本三大花街として栄えました。丸山とは、丸山町と寄合町を合わせた花街の総称で・・・」と記載されています。
坂本龍馬と長崎、と題する看板には
「文久2年(1862)に土佐藩を脱藩し勝海舟の門人となった龍馬は1864年に勝海舟とともに長崎に滞在する。・・・慶應3年(1867)龍馬は海援隊長に任命され、業務を拡大していった。9月18日に震天丸で長崎を出帆し、その後赴いた京都近江屋で11月15日襲撃され、暗殺される(33歳)」
と記されていました。
龍馬はこの辺りの料亭を舞台に政治活動を行っていたようです。
歩いていて、アジサイがデザインされたマンホールの蓋に気が付きました。
これは多分、出島に住んだシーボルトがヨーロッパに、日本原産のアジサイを紹介し、妻の「お滝さん」にちなんで、アジサイの学名をHydrangea Otaksa (ヒドランジア オタクサ)と命名した逸話に因むだろうと思います。
確認すると、長崎市はアジサイを市の花に制定していました。
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