フェリーが長崎県南島原の口之津に着くとすぐに、島原城を目指してはしり始めました。
しかし、10分もはしらない内に、右手に「国指定遺跡 原城跡 昭和13年5月30日 文部省」の看板が目に飛び込んできました。
迷わず、農道のような右手の道へハンドルを切ります。
私はこの時、この遺跡名を見ても、ここが天草島原の乱の主戦場だった場所とは認識していませんでした。
人気のない原城跡の駐車場のすぐ横に、「ホネカミ地蔵」の掲示板を添えた、赤い頭巾のお地蔵さんを目にしました。
その掲示板には
「寛永15年(1638年)2月28日、島原の乱は終わりを告げた。
ホネカミ地蔵は、明和3年(1766年)7月15日 有馬村願心寺の注誉上人が、この戦乱で斃れた人々の骨を、敵、味方の区別なく拾い、霊を慰めた地蔵尊塔である。
八波則吉先生は、「骨かみ地蔵に花あげろ、3万人も死んだげな、小さな子供も居たろうに、骨かみ地蔵に花あげろ」と、うたっている。
「ホネカミ」とは、「骨をかみしめる」の意味で、その事から「自分自身のものにする」、更に「人々を済度する(助ける、救う)」と、理解すべきだと言われている。」
と記載されていました。
この掲示板を見て、私はやっと、この場所が島原の乱に関連した場所らしいことに気付きました。
旅を終えてからの知識ですが、
原城は1496(明応5)年、伊予の藤原純友の末裔とされる有馬貴純によって、日野江城(南島原市)の支城として有明海を背にした丘陵に築かれました。
ほぼ100年後、有馬晴信は1600年の関ヶ原での功績により日野江藩の初代藩主となりますが、1609年(慶長14年)に晴信がマカオに派遣した朱印船がマカオ市民に襲われたことから、報復として長崎に入港したポルトガル船を爆沈させ、それに関連して、徳川家康から死罪を命じられます。
有馬晴信の長男、有馬直純は1614年に幕府へ転封を願い出て、日向(宮崎県)延岡に移りました。
その後、1616(元和2)年に大和五条藩主だった松倉重政が日野江城へ入城します。
重政は島原城を築城し、一国一城令により日野江城と原城を廃城としました。
重政とその子の勝家が島原城を築くために行った苛政と搾取が天草島原の乱の主因となりました。
延岡に転封した有馬晴信の正室は、家康の養女である国姫で、延岡では日向御前と呼ばれ、この人の墓が、数日前に訪ねた延岡の本東寺にあります。
また、有馬直純は天草島原の乱で軍団を率いて征伐軍に加わり、この時豊前中津藩の軍監として参戦していた宮本武蔵から書簡を受け取り、その原本が東京都青梅市の吉川英治記念館にあるそうです。
かなり話が脱線しましたが、梅を訪ねる旅が、いつの間にか、戦国時代の人々の織りなす綾を辿ることになりました。
原城跡の、校庭ほどの広さの本丸跡には天草四朗の像が建てられていました。
また、四郎の母が建立したと思われる墓石がへ、西有明町の民家の石垣から発見され、像の横に移されていました。
寛永15年(1638年)2月28日の幕府軍の総攻撃で一揆軍は、老人や女子供に至るまで一人残らず皆殺しにされたそうです。
この時の一揆軍は、殉教を重んずるキリシタンの信仰に従い、降伏することなく、童女までもが喜んで死んでいったと記述する資料があります。
勝てるはずもない戦だったはずです。
最近のイスラム国や、20年前のオウム真理教の事件など、人間が一度正しいと信じ込んだ時の、狂気にも似た行動の恐ろしさを思い起こします。
それにしても、乱の主因となった、幕府の為に、評価される為に、業績を上げる為に、としか考えなかった松倉重政親子のような為政者の愚かさと恐ろしさも、歴史に類の限りがありません。
もしかすると人間は、自分で自分を正しい、善い、清いと思い込んでいたり、確信することの為に、自他の命さえも惜しくはないと考える生物なのかもしれません。
目の前の有明海は穏やかに広がり、雲の間に覗く午後の陽射しを柔らかに浴びていました。
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