ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

アリゾナの空は青かった【4】:パブリック・エネミーNo.1の家

2018-04-05 18:59:36 | アリゾナ・ツーソン留学記´78
2018年4月5日

「927 North 2nd Ave.」は実は知る人ぞ知る家であった。

アメリカで「デリンジャー」と言えば知らずもがなの人物である。
アメリカの大恐慌時代、「プリティ・ボーイ」「ベイビー・フェイス」の、映画でもお馴染みの名だたる手下を従えて、各地の銀行を荒らしまわり、捕まっては脱獄してFBIに「Public enemy No.1」と指定され、多額の懸賞金がかけられた。シカゴでFBIと銃撃戦を交え、31歳で最後を終えた銀行ギャングだ。

ジョニ・デップが映画「パブリック・エネミ-ズ」でデリンジャーを演じている。

デリンジャーは逃亡中の一時期、この「927番地」の家を隠れ家にしており、1934年1月にここで逮捕されている。もちろん、その後再び脱獄を図るのだが、なんともはや、あまり名誉な歴史を持つ家ではないのだが、ロブはかなりご自慢の様子であった。

「どこがデリンジャーの部屋だったのよ?」なんてわたしは聴かない。デリンジャーの怨霊に取り付かれでもしたら、わたしのアメリカ生活の夢は悲惨なものになってしまうではないか。

参考がてら、下は1930年代の927 North 2nd Ave。 敷地の周りに囲いがある。

 

こちらは1978年にわたしがハウスシェアリングした当時。囲いが取り払われているが、
Wikiより

ネットで見つけた現在の927番地は再び囲いが作られ両脇の木も取り払われている。

Wikiより

わたしの部屋は玄関ドアのすぐ左、表通りの庭に面した大きな窓のある広い部屋である。

アーリー・アメリカン調の古い家具とその家具の上にかけられてある大きな長方形の鏡、そして木製のベッドが備え付けられていた。
この部屋をデリンジャーが使用したとは考え難い。通り向きの部屋で窓も大きいし、通行人に見られることもあるからだ。

窓を開けると、手がかけられたことがないと分かる大きなグレープ・フルーツの木があり、手を伸ばすとたわわに実った果実をそのままつんで食べることができた。


住人は、友人のロブ、アメリカ人でアリゾナ大学男子学生A、そしてツーソンの小さなカレッジで歴史の講師をしているジョン、それに新参のわたしと4人である。

玄関口のドアを開けるとすぐにある、暖炉つきの大きなリビング、それに続くダイニング・ホール、その右横に台所、左横にバスルーム。電話電気水道は、使おうと使うまいと全て共有で月末に均等負担。

夜ともなると、時折4人が暖炉を焚いたリビングに集まり、ギターを爪弾いたり本を読んだり、テレビを見たりと、それぞれ思い思いのことをした。ツーソンでは、冬でも気温が20度近く上がるとは言っても、夜は結構冷えるのである。だからセントラル・ヒーティングが入っていても暖炉を炊くことがある。

わたしの記憶に残るツーソンの屋内の灯りは、柔らかくやさしい。見知らぬもの同士でも一つ屋根の下で生活し、週末の午後や夕方に申し合わせることもなく自然にリビングに集まり、それぞれ好きなことをしながら流れる時間を共有する。

FBIをして、「パブリック・エネミー・ナンバー・ワン」と呼ばれたデリンジャーの隠れ家であったとしても、わたしが住んだ1978年の「Tucson North 2nd Ave.927番地」は少なくとも平和だった。 
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アリゾナの空は青かった(3):North 2nd Avenue 927番地

2018-04-03 12:01:05 | アリゾナ・ツーソン留学記´78
2018年4月3日

「やぁ、ひさしぶり。」と空港で再会したロブに、
「今、3人でハウスシェアリングやってるんだけどね、一部屋空いてるよ。うちへ来ない?」と持ちかけられたわたしは、一も二もなく「もちろんそっちへ行く!」と即答。
*ハウスシェアリング⇒一軒の普通の借家に家族でないもの同士が数人で住むこと。

まだあちこちで、「男子寮、女子寮のひと~」と叫んでいる迎えの学生に、
「あの、すみません、寮の予約をしてたんですけど、ここでキャンセルしますぅ。」と、初っ端からドタキャンしたわたしであった。
もともと何かと小さいいざこざがありそうな女子寮にはあまり入りたくなかったのである。しかし、ロブがツーソンにいるとは言え、彼はいつまた他国へ移動するかわからない風来坊ではあるし、ハウスシェアリングの話などツーソンに到着するまで聞かされていなかったのだ。

「大丈夫?」とでも言いたげな迎えの学生を後に、わたしはかつてイギリスまで一往復したものの、まだその真っ白さを損なっていない、我が全財産ともいえるサムソナイトの旅行かばんをズルズルひきずって空港外へ出た。

そして、そこに見たのである。ロブが手紙で「買った」と自慢していたイギリス人の愛車、中古のフォルクス・ワーゲンを。
当時まだ運転免許など持っていなかったわたしは車のことなど知る由もなかったが、その素人目にも明らかにポンコツとわかる代物であった。

「これ、フォルクス・ワーゲンどころか、あぁた、ボロクソ・ワーゲンだね。」と、笑い転げる乗客のわたしに気を悪くした友ではあるが、とにかく走りました(笑)

ツーソンの市街を走りぬけ、着いたところが、「North 2nd Avenue 927番地」



家が通りに面しているものの、玄関ポーチは通りから7、8メートルは入る。サンフランシスコやN.Yの家々とは少し趣の違った四角で白い大きな一軒家であった。わたしのツーソン第一日はここから始まったのである。



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アリゾナの空は青かった(2)ツーソンに降り立つ

2018-04-02 22:28:28 | アリゾナ・ツーソン留学記´78
2018年4月2日


Wikiより。ツーソンの町、ダウンタウン


ツーソンはTucsonと書き、インディアンの言葉で「暗い山の麓」と言う意味だ。一年の360日が晴天の日の、砂漠にあるオアシスのような学生の町である。

4、5月から10月までは夏の季節になり、平均気温は37度。初めてツーソンを訪れる者は、必ず「夏は路上のアスファルトの上で目玉焼きができる」とのジョークを聞かされるのである。

太平洋を越え、ロス・アンジェルス経由でローカル便に乗り換えて、そのツーソンに降り立ったのは、1978年1月。1月でも気温が時には20度くらいまで上昇することもあり、ここに住む異国人は、見知らぬ土地にいて寒さゆえ襲われる孤独感からは、少なくとも救われることになる。

さて、空港を出るとアリゾナ大学の世話役寮生である男子学生たちが数人、その日、東京から到着した日本人留学生を出迎えに来ていた。その日は何人くらいの留学生がツーソンに到着したであろうか、今のわたしの記憶にはない。何しろ自分のことで精一杯だったのだ。

「男子寮!」「女子寮!」という呼び声が飛び交う中、迎え客の中にわたしは知っている顔をみつけた。
7ヶ月ぶりで再会するイギリス人のロバート・ギアこと、ロブである。

ロブはバーミンガム出身で、イギリスの大学を卒業後、お役所に2年ほど勤めた後、単独で世界一周を試みていたバッグパッカーである。イギリス本国からフランス、ドイツ、イタリア等のヨーロッパ諸国を経て、トルコ、インド、ネパール、タイ、香港から日本へ渡ったと聞く。

行く先々で英会話学校で英語を教えながら、そこに数ヶ月滞在し、旅費ができたところで再び移動する、という無銭旅行をしていたのである。当時は、今のように誰でも手軽気軽に外国旅行が出来るような時代ではなかった。そして、若者たちは普通は例外なくお金がなくて、それでも未知との遭遇や冒険心に 駆られそれを振り払うことができない者たちは、「無銭旅行」という手立てに出たのだった。

ロブもそのひとりで、喘息という厄介な連れと共にボロボロの旅行日記帳を肌身離さずの「世界一周」実施中であった。
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アリゾナの空は青かった【1】:プロローグ

2018-04-01 14:58:07 | アリゾナ・ツーソン留学記´78
2018年4月1日


「あの頃、ビアハウス」を終え、いよいよアメリカ留学、移住の夢実現に向かって羽ばたいた、spacesis若かりし頃を綴ってまいります。

1978年? ウワッ、40年ほども昔のことではないの、と思し召されるな。
今でこそ多くの日本人が海外旅行や留学ができる時代になりましたが、日本が昔からそのようなことがいとも容易くできたわけではありません。ましてや、高卒で親元を離れ都会で一人暮らしをする身には、貯金も思うように行かず。高校時代からの夢であったアメリカ移住の資金ができた時は、30代の入り口をくぐっていました。

1970年代も終わりのアメリカと現在のアメリカの世相は違い、わたしの体験は今を生きる人たちにとり、あまり参考にならないと思いますが、わたしが見てきたアメリカは恐らくアメリカンドリームの代名詞を冠した「良きアメリカ」の最後のあたりかな、と思い返しています。

広大なアメリカは、西海岸の州ひとつ東海岸の州ひとつと取り上げてみても、その距離からして、州というよりむしろそれぞれが他の国のような気すらします。故に、一言に「アメリカ」と言っても、訪れるその場所その時々によってアメリカは違った姿を見せ、これがアメリカだ!と言い切れることはありません。

しかし、一点において「これこそが」と言えるものがあると思います。 それは、飽くこともなくいつの時代にも、ハリウッドの永遠の大女優のように、その魅惑で世界の多くの若者の心を惹きつけてきたことです。

その昔、「新世界」と呼ばれ、イギリス、イタリアを初め、本国でのうだつの上がらない生活に見切りをつけた人々が、限りない憧れと夢を抱いて苦難の船旅の末たどり着いたアメリカ 。

わたしも、それから時代はずっと後になり、20世紀も後半にではありますが、かつて映画や読書を通してアメリカに魅せられ、身代を売り払って太平洋を飛行機で渡ったひとりでした。ま、たいした身代ではなかったものの、それでも自分にとっては財産であった。

残ったのは、映画「モロッコ」の女主人公アミー・ジョリーではありませんが、片道切符とアサヒ・ビアハウスの歌姫バイトで貯め込んだ当座の生活費、そして、ツーソンはアリゾナ大学での大学入学準備のELS (English as a Secound Language)コース受講の学生ヴィザだけです。そうです、わたしはELSコースの後、奨学金を得てアメリカの大学、もしくはアダルトスクールで学ぼうと思っていたのでした。

貧乏だった大阪の青春時代、アメリカ移住の夢を見続けて、そこまでこぎつけるにはずいぶん年月を経てしまいました。 30の歳、やっとたいして額ではないが目的額に達し、希望とガッツを胸に抱いて1978年1月、当時の国際空港だった羽田をアメリカに向けて旅立ったのでした。

では、次回からのアリゾナ留学記、お時間のある方、どうぞ読んでみてください。
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