ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

アリゾナの空は青かった【1】:プロローグ

2018-04-01 14:58:07 | アリゾナ・ツーソン留学記´78
2018年4月1日


「あの頃、ビアハウス」を終え、いよいよアメリカ留学、移住の夢実現に向かって羽ばたいた、spacesis若かりし頃を綴ってまいります。

1978年? ウワッ、40年ほども昔のことではないの、と思し召されるな。
今でこそ多くの日本人が海外旅行や留学ができる時代になりましたが、日本が昔からそのようなことがいとも容易くできたわけではありません。ましてや、高卒で親元を離れ都会で一人暮らしをする身には、貯金も思うように行かず。高校時代からの夢であったアメリカ移住の資金ができた時は、30代の入り口をくぐっていました。

1970年代も終わりのアメリカと現在のアメリカの世相は違い、わたしの体験は今を生きる人たちにとり、あまり参考にならないと思いますが、わたしが見てきたアメリカは恐らくアメリカンドリームの代名詞を冠した「良きアメリカ」の最後のあたりかな、と思い返しています。

広大なアメリカは、西海岸の州ひとつ東海岸の州ひとつと取り上げてみても、その距離からして、州というよりむしろそれぞれが他の国のような気すらします。故に、一言に「アメリカ」と言っても、訪れるその場所その時々によってアメリカは違った姿を見せ、これがアメリカだ!と言い切れることはありません。

しかし、一点において「これこそが」と言えるものがあると思います。 それは、飽くこともなくいつの時代にも、ハリウッドの永遠の大女優のように、その魅惑で世界の多くの若者の心を惹きつけてきたことです。

その昔、「新世界」と呼ばれ、イギリス、イタリアを初め、本国でのうだつの上がらない生活に見切りをつけた人々が、限りない憧れと夢を抱いて苦難の船旅の末たどり着いたアメリカ 。

わたしも、それから時代はずっと後になり、20世紀も後半にではありますが、かつて映画や読書を通してアメリカに魅せられ、身代を売り払って太平洋を飛行機で渡ったひとりでした。ま、たいした身代ではなかったものの、それでも自分にとっては財産であった。

残ったのは、映画「モロッコ」の女主人公アミー・ジョリーではありませんが、片道切符とアサヒ・ビアハウスの歌姫バイトで貯め込んだ当座の生活費、そして、ツーソンはアリゾナ大学での大学入学準備のELS (English as a Secound Language)コース受講の学生ヴィザだけです。そうです、わたしはELSコースの後、奨学金を得てアメリカの大学、もしくはアダルトスクールで学ぼうと思っていたのでした。

貧乏だった大阪の青春時代、アメリカ移住の夢を見続けて、そこまでこぎつけるにはずいぶん年月を経てしまいました。 30の歳、やっとたいして額ではないが目的額に達し、希望とガッツを胸に抱いて1978年1月、当時の国際空港だった羽田をアメリカに向けて旅立ったのでした。

では、次回からのアリゾナ留学記、お時間のある方、どうぞ読んでみてください。