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ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

あの頃ビア・ハウス:「Bye Bye Blackbird」

2018-03-26 00:01:41 | あの頃、ビアハウス
2018年3月25日        
  

      
Pack up all my care and woe 苦労も哀しいことも みんな詰め込んで
here I go, singing low    低い声で歌いながら、さぁ行こう
bye bye blackbird       バイバイ・ブラックバード

where somebody waits for me どこか わたしを待っている人がいるとこへ
sugar´s sweet, so is she   あまく優しい人、母さんのとこへ
bye bye blackbird      バイバイ・ブラックバード

no one here can love or understand me ここじゃ誰もわたしを分かっちゃくれない
oh what hard luck sotries they all hand meなんてひどい巡り合わせばかりなのよ
make my bed and light the light  わたしのベッドを作っておいて 母さん 灯りもつけといて
I´ll arrivebe late tonight    今夜遅く帰るわ
blackbird, bye bye       バイバイ・ブラックバード 
                           (訳:spacesis)                                                       
      
1926年に作られた古いジャズソングである。
「Sleepless in Seattle」(トム・ハンクス、メグ・ライアン共演)などの近年の映画でもよく使われているそうだが、Sleepless in Seattleを観たというのに、Joe Cockerが歌っているのを全く覚えていないのは不思議^^;
 
それは多分昔観た古い映画、「裸足のイサドラ」の船上のパーティー・シーンで使われていた印象があまりにも強烈だったからかも知れない。
「裸足のイサドラ」は、斬新的な踊りで当時の閉鎖的な社会に物議をかもし出し、後にモダンダンスの祖と言われた、イサドラ・ダンカンの生涯をフィルムにしたものである。彼女の生きざまもさることながら、衝撃的な最後を遂げた人でもある。

恋多きイサドラはパーティーで出会った若い男に心惹かれ、彼とオープンカーに乗り込み、走行中に首に巻いていた長いスカーフが車輪にからみつき、最後を終えたのだ。

ビアソングが主流のアサヒで、わたしは時折「yesterday」やシャンソン、そしてこの「バイバイ ブラックバード」などをアコーディオンのヨシさんに頼んで入れてもらっていた。こういう歌を歌えるのは、毎晩、人でごった返しの夏場ではなくて、客のほとんどが常連ばかりというビアハウスの落ち着いた冬場である。



「バイバイ・ブラックバード」はイントロもあるのだが、多くの著名歌手がスローテンポでイントロなしで歌い上げている。わたしは聞くのも歌うのもデキシーランドジャズ的に軽いノリの方が好きだ。
この歌もリクエストがよく入ったものだ。
  
ビアハウスではみなに可愛がられながらも、自分の居場所をここかあそこかと探し求めていた当時の「誰も分かっていないんだろな」のわたしの気持ちが、この歌にはいささかあるような気がする。ビアハウス歌姫時代はのめり込んだ人との付き合いはしなかった。

ビアハウスが閉まる9時半以降に、店長の塩さんが声をかけてくれる、
「おい、ゆうこ。今日は夕霧そば(ビアハウスの近くお初天神界隈にあるおいしい蕎麦屋さんの名物)食べに行こう!」の誘い以外は、たいがい独り住まいの枚方は宮之阪のアパートに直行である。ビアハウスが終わった後、常連さんたちとつるまなかったのは、翌日のオフィスの仕事があったことも理由ではある。

夕霧そばを食べながら、塩さんを前に熱く語るは、「日本脱出」の夢」!その資金作りの歌姫家業であった。

ほぼ目標金額達成を目前に舞い込んできた当時の話に、梅田の新開店の喫茶店(この店は横山ノックさんのお兄さんの店だと聞いた)で、アサヒが終わった後の2週間、アコーディオンのヨシさんと歌ったことがあったが、これはきつかった・・・

喫茶店はビアハウスのホールと違い、床に絨毯が敷き詰められており、太くて大きなはずのわたしの声がそこに吸い込まれてしまって、店内に響かないのだ。歌い終えて終電車へと足早に急ぐわたしは、自分のアパートの駅にたどり着くころはヘトヘトになっていた。

9時からオフィス、そして、アサヒ、喫茶店での歌と、一日にこんなに掛け持ちで働いたのは、後にも先にもこのしんどかった2週間だけである。
 
「お前、死ぬぞ」と友人に言われるほど、クタクタになるまで稼ぎに稼いだ2週間ではあった。

そして目標の留学、アメリカ移住資金は達成された。


あの頃ビア・ハウス:「思い出のグリーングラス・弘前編」

2018-03-22 09:57:43 | あの頃、ビアハウス
2018年3月22日        
  
翌朝、台風はどうにかそれてくれたようだ。
夕べの一回生たちとの再会の興奮も冷めやらず、結局頭が冴えて早朝に起き出してしまった。大事なお役目を終えることができたし、ホテルで一路東京へ向かう準備をし始めたのであります。

荷物を引っ張り出し、衣類を畳み込んで旅行かばんに入れ始めたのだが、念のためにとバッグの中身をふとチェックしてみた。「あれ?大きい財布が見当たらんぞ・・確かバッグの底に入れてたはず
なんだが・・・」
バッグをひっくり返してみた。が、あるはずの、その大きい財布がない・・・
「えぇ!だって、あれには帰路のためにとユーロ札と、それよかパスポートが入ってたのだよ。ウソやん!」と、ほぼ悲鳴に近い独りごと!

もしかして、タクシーでお金を払うときに座席に落ちたかも・・・あぁあ、タクシー会社の名前、覚えとらんわ!
さぁ、大変!朝の7時からフロントのおじさんに頼み込んで、あちこちのタクシー会社の電話番号を調べてもらい、公衆電話からかけまわした。どこもその時点では、落し物の届け出はないとのこと。
 
フロントのおっじさん、「あのね、警察に届けたほうが早いかもしれないよ。」アドバイスに従って警察にも電話してみた、が、それらしい物は届け出がないそうだ。おまけに紛失物はすぐに手渡しはできなくて、数日かかるのだそうな・・・そんな・・・、待っておられまへんて^^;
   
うぬ?待てよ。そう言えば、夕べ「あすなろスナック」で財布に入れていた名刺が切れて、大きい財布の方に入っている名刺を取り出すためにバッグから引き出したんではなかったか?・・・

もしかしてあそこに落ちてはいまいか?誰かが見つけたとしても、わたしの弘前での連絡先は誰も知らぬのだからきっと見つけた御仁は困っているにちがいない。早朝でまっこと申し訳ないとは思うものの、前夜一緒だった同窓生のゆりこさんに電話をしてみた。

すると、「最後までいたけど、落し物などなかったように思う」との返事。電話を切りしな、「気になるから結果を知らせてね」と、彼女。
 
やもえない、あすなろママに聞いてみるしかない。夜遅くまでの仕事でお疲れのところではあろうが、背に腹は変えられん。わたしは今日帰らなあかんのだ~。震える手で彼女の電話番号をダイヤル、じゃない、プッシュボタンで押した。

なかなか出てきぇへん^^; あ、出られました、ママさん!「スンマセン、こんな朝早くに。」と事情を話したら、早速、彼女、店に行って見てくれると言う。 

シャワーを浴び洗髪したその髪も乾かさないまま、電話をかけまくっていたわたしを、フロントのおっさんも心配顔で見ておられます。

ママさんが店に着くまでしばらく時間を要するので、いったん部屋にもどることにした。もしも見つからなかった場合のことを想定すると、ガックリと肩も落ちるとこまで落ち込み、階段を上る足も重く、夕べの幸せはすっかり吹っ飛んでしまいました。
  
隣室に泊まっていた妹夫婦の部屋をコンコンと元気なくノック。
「あ、おはよう。」妹。
「う、うん^^;あのね、パスポートの入ったお財布、なくしてん・・・」
「え?なくしたの?あららら・・・」
「でね、今あちこち電話で頼んで探してもらってるねん・・・」
「んもう、いっつもこんなんだから・・・
 でもね、パスポートなんて普通は国内で持って歩かないでしょ」
  「・・・・!!!!!!」
  
も、もしかして最初からなかったのん?え・・・?その場で妹の携帯から所沢で留守番をしている娘に電話をした。
  
「あんね、机の中の引き出しに茶色い大きな財布、入ってない?
しばらく受話器を持ったまま待つ。すると、
「んんん?あるぅー?!パスポートも入ってる~?!!キャッホー、ハレルーヤ!」
  
どこが、名刺が切れて、デカ財布をバックから取り出しただ?と、自分の思い込みにがっくり。傍でこれを聞いていた妹いわく、
「実は最初からありませんでした、なんて同窓生たちに言えないよね」苦笑。

ご~~ん。い、言えまへん・・・36年ぶりの今の段階ではとてもとても言えまへん^^;」
トントンと足取りも軽く階下に下りて電話です。

フロントのおっさんには、
「あのぉ、ありましたのよ、おほほほほ」で誤魔化しw
「はい、よくあることなんですよね。」としっかり言われました。
連絡を待っているであろうゆりこさんとあすなろママには・・・
「あ、ありましたぁ~~~!」で、済ますしかなかったのであります^^;
ごめんよぉ~、同窓生!

36年ぶりの再会が、とんだ騒動で終わった次第。「思い出のグリーングラス」がこのようなオチになり、赤面の至りではあった。

あの頃、ビアハウス:思い出のグリーングラス【2】

2018-03-20 13:23:56 | あの頃、ビアハウス
2018念3月20日

高校卒業後、39年振りの、わたしとしては初めての一期会出席だ。一期会というのは、わたしたちが「弘前南高校の第一回生」というのから来る。新設公立高校であったのだ。
    
「39年」と一口に言うけれど、それぞれが重ねた幾星霜。みんなどんな風になってるかな?わたしはどんな風に変わったのかな?少し恐いような ドギマギする心を抱きながら、台風が近づきつつある弘前の夕方の雨降る町を、タクシーで会場へと向かう。

少し遅れて到着し、古い和式の階段を上って階上へ向かうわたしの耳に校歌が聞こえてきた。飛び込んできた。

♪北の涯 垂氷は消えて
  さみどりの 千草萌え出づ
  見よ 生命匂ふ 若人の群
           
初代小野正文校長作詞、芥川也寸志氏作曲の我が母校校歌だ。
    
「あ!ソデさん!いらっしゃい。おひさしぶり!」
「ようこそ遠方から。今日はすみませんが、乾杯の音頭、とってください。」
「ええ!わ、わたしが?乾杯の音頭て・・・だって準備してまへんよぉ^^;」
「毎回、一番遠いところから出席する人に、これをお願いすることになってるのよ^^」
    
確かにポルトガルから出かけたわたしは、一番の遠方来訪者ではあるけど、突然はひどいよ。

ひとしきり当時の学校長、幹事の挨拶が終わったところで、ついに回ってきました、乾杯の音頭とりのお役目が。慌てふためいて立ち上がり、「お役目光栄」の一言を加えて、「我が母校、我が同窓生たちに乾杯!」ということで、無事になんとかお役目を果たしたと思いきや・・・少し後で、何気なく自分のいるテーブルの後ろふと目を振り返ると、
「あ、あれ?」
かつての開校時代の諸先生方がズラリと座っておられるではないか!!
「し、しまった!」
   
諸先生方のテーブルに尻をば向けて、乾杯の音頭をとってしまった!ご~~~ん、と頭の中で鐘が鳴ります。いえね、度つきサングラスをはずしていたもので、よく見えなかったのでありますよ。

しかし、そんなことを気にしてかしないでか、かつての担任のS先生、
「おおお!ソデ、ささ、こっちへこっちへ」
「出席者名簿を見たら、なんと君の名前があるではないの。これは逃すわけには行かないと思って、今日はがんばって来たぞ」

世界史を教わったS先生、少しお歳は召したが昔と少しも変わらず。

少し偏屈にツッパッたように生きていたであろうあの頃のわたし、そして、その後の卒業名簿ではずっと住居不明のままだったのを、長い間気にかけていただいたようでした。S先生、もうどうぞご安心を。紆余曲折、人生いろいろありましたが、半世紀かけて、生きることがなんとなく楽しいと思えるようになりました。

この会の3時間は結局「なつかしや~」の諸先生方や同窓生たちとの挨拶でほとんど飲まず食わずでした。二次会会場にあたる同窓生のひとりが持つ「あすなろ」なるスナックへほぼ全員が繰り出し、カウンターの中も外も満員^^みな、「勝手知ったる台所」で、すき放題にやっておりました。

いいなぁ、こんな雰囲気。
わたしは一匹狼のごとく、密かにツッパリ、孤独を愛していつも本ばかり読んで、同窓生たちと交わることが少なかったのだが、長い年月はそんな角も取り去り、心も体も随分と丸くしてくれました。
    
まるで学生時代のあの頃に帰ったような一期生たちの団結力を目の辺りにしながら、翌朝東京に向かう予定ゆえ、みなに別れを惜しんでスナックを後にしたのでした。

実は、この時のことで、白状しなければならない事があり。

「思い出のグリーングラス」はまだ続きます。

あの頃ビア・ハウス:「思い出のグリーングラス」 (1)

2018-03-19 14:22:29 | あの頃、ビアハウス
2018年3月19日      
  
♪汽車からおりたら  ちいさな駅に
 迎えてくれるママとパパ
 手をふりながら呼ぶのは 彼の姿なの
 思い出の Green Grass of Home
  
 まぶたを閉じれば 聴こえてくるわ
 懐かしい古里の歌が 
 子どもの頃、遊んだ山や川 そして
 思い出の Green Grass of Home 

もとはカントリーソングである。明るいメロディーで故郷に降り立つ主人公が家族や恋人に迎えられる、と始まるのだが、英語の歌詞を聴くと最後の方には、こんな語りが入る。

そして俺は目が覚めた。四方を灰色の壁に囲まれた部屋で
俺は故郷の夢をみていたんだ
看守と神父さんに両腕を引かれ、
夜明けに俺はグリーンマイルを歩いていく
      (註:グリーンマイル:アメリカの死刑囚が歩く緑色の
         絨毯が敷かれた死刑台に続く道。

俺はもう一度、故郷のグリーングラスに触れるんだ
そうさ、みんな俺に会いに来る。
古い樫の木の下で
故郷のグリーングラスの下に埋められるとき
                          ーspacesis 訳ー
         
こんな明るい曲にはまったく似つかわしくない、故郷を出たまま帰らなかった死刑囚の最後の夢を歌ったのが「思い出のグリーングラス」なのです。            

外国の歌はできれば日本語訳しないで、原語で歌うのが個人的には好きなのだが、この歌は本語歌詞がとても気に入ってアサヒで歌い始めました。

わたしがラジオで日本語版を耳にして覚えることができたのは一番目の歌詞だけで、残りの部分は今のようにパソコンがまだ出始めていない時代でした。アサヒで自分が歌うために歌詞を自作したのであるから、いい加減なものだ^^;

わたしは度々こういうことをやっている。わからない歌詞は自分で作るのである。誰に遠慮がいるものか~。「作詞:spacesis」やもんね。

わたしの故郷は弘前である。随分昔になるが、アメリカへ移住して今ではカリフォルニアに居を構えすっかりそこの住民として腰をおろしてしまっている大阪時代の友人と彼の娘、そしてわたしと娘の4人で東北を回ったことがある。

その折に、彼が気を利かしてか、四半世紀以上も帰っていないわたしの故郷、弘前に立ち寄ろうと言い出し、一晩宿に泊まったことがある。
   
ホームから駅舎を出て駅前に降り立った時には度肝を抜かれてしまった。駅舎も駅前も、なにもかもが新しく計画建築され、様子はすっかり変わってしまい、まるで見知らぬ町に足を踏み入れた気がしたものだ。
       
それもそのはずであろう、わたしが故郷を出たのは札幌放浪の19の春で以来、盆正月も両親に顔を見せることもせず、帰郷したのはポ国に来るまでに、たった2度ほどで、30年近く帰郷していなかったのだから・・・

しかし、故郷を思うとき、わたしは今でもこの歌にあるように、心の中の東北の田舎の小さな駅に降り立って入っていくのだ。パパもママもとうに鬼籍に入り、もう迎えてくれるわけではないが、この歌を歌うとき、わたしは思わずセンチメンタルになり、二番目の歌詞で自ら書いたように、「まぶたを閉じれば浮かんでくるわ」なのである。

2004年10月、その2年ほど前に亡くなった母の法要代わりに、弘前に住む親戚へのあいさつ回りで、妹夫婦と車で帰郷した。たまたま2泊3日のその一夜が、高校の「一期会」との知らせを京都に住む同窓生から聞き、わたしは「舞踏会の手帖」をほどくごとく、やおら出席を決したのである。

参照:「舞踏会の手帳」(1938年の映画) 
夫に先立たれた女主人、クリスティーヌが古い荷物の中から出てきた一冊の手帖を見つける。それは彼女が初めて社交界にデビューした夜の、舞踏の相手の名を記しておく手帖だった。思い出が泉のように心に染み広がり、ふとこの舞踏会の相手を一人一人訪ねてみようとする。今その人たちはどうしているだろう・・・
その「舞踏会の手帖」を頼りにかつての相手を訪ねて行く、と言うようなお話なのですが・・・
            (猪俣勝人著:世界映画名作全史引用)


          
次回、思い出のグリーン・グラス」弘前編に続きます。

あの頃、ビアハウス:トム・ウエイツの「ワルツリング・マチルダ」(2)

2018-03-15 11:45:18 | あの頃、ビアハウス
2018年3月15日

高校教師を退職した友人のマリアさんは日本語の生徒でもあるのだが、時折自分が手がけた劇の脚色の話をしてくることがある。先日も話の弾みでわたしたちは日本語授業そっちのけで、30分ほど演劇の話も盛り上がったのだが、

「それでね、その場面にTom Waitsの歌を使ったのよ。」との彼女の言に、
「ま、待てぃ!トム・ウエイツってあのトム・ウエイツ?」

トム・ウエイツにあのもこのもないのだが、わたしがこれまでトム・ウエイツというアメリカの歌手名を引きあいに出しても、一人として知っている人に出会った験しがなかったのである。そして彼の歌を紹介すると、決まって聞かされるのが、「なんだ、この声?」という感想である。若いときからトムの声は酒とタバコで潰れたシャガれ声で、近年は歌うというより、語りと言った方が適していよう。

しかし、1970年代も終わりに渡米して、たった半年ではあるがアリゾナにいたわたしにとって、トム・ウエイツはノスタルジックでたまらない。目を閉じれば、ツーソンNorth 2nd Avenue 927番地のドアの向こう、裏庭に面し、遅い午後の光を取り込んだ空間の一隅で、くわえタバコにアンダーウッドタイプライターでパチパチ原稿を打っているハウスメイト、ジョンのシルエットが浮かび上がってくるのである。

「ワルツィング・マチルダ(Tom Trauberts Blues)」と「ニューオリンズに帰りてぇな」(I wish I was in New Orleans)」は、トムのシャガれた声が却って胸にジンと染みていいのである。
(↓わたしが持つ1976年版Small Change LPジャケット裏のTom Waits)



トム・ウエイツの「ワルツィング・マチルダ」さわりの部分を。

Wasted and wounded, it ain't what the moon did
I got what I paid for now
See ya tomorrow hey Frank can I borrow
a couple of bucks from you
To go waltzing Matilda, waltzing Matilda,
You'll go waltzing Matilda with me

♪疲れちまってよ。
 月のせいじゃねぇんだ、身からでたサビってことよ。
 また明日な。
 おい、フランク、2、3ドルばかり貸してくんないか?
 To go waltzing Matilda, waltzing Matilda,
 You´ll go a waltzing Matilda with me. 
 (spacesis訳)

今日は英語で書かれてあるWaltzing Matildaの解釈についてなのです。

このワルツィング・マチルダがどうも意味がつながらなくて、長い間気になってきた。「2、3ドルばかり貸してくんないか?マチルダとワルツを踊りにいくのによ」と、考えてみたのだが、それだとMatildaの前に前置詞withが入らなければならないではないか?

マリアさんと話すことで、久しく忘れていたこの疑問を思い出したのである。

トム・ウエイツが編曲して引用しているワルツィング・マチルダは、今はどうか知らないが、わたしが若い頃はよく耳にした歌で、オーストラリアの第二の国歌とも言われる。前回も書いたが、渡米の資金調達のために、大阪梅新のアサヒ・ビアハウスで倍と歌姫をしていた時に、オーストラリア人のマーチンさんによくリクエストされ、時にはステージに彼やアメリカ人の友人ブルースを呼び出して一緒に歌ったりもした。
♪Once a jolly swagman camped by a billabong  
  昔、陽気な放浪者が池の側にキャンプをはった
 Under the shade of a Coolibah tree       
  ユーカリの木の下で、
 And he sang as he watched and waited till his billy boiled
  ブリキ缶の湯沸しが煮え立つのを待ちながら歌ったとさ
 You'll come a waltzing Matilda with me     
お前が俺と一緒にくるのさ、ワルツィング・マチルダよ

そして早速ネット検索をはじめたのだが、「a waltzing Matilda」とはswag(山の放浪者が携帯する今で言う寝袋?)を背負いながら放浪すること、と見つけたり!

Matildaは、紀元前300年頃からエルバ川北方に移住し始めた民族(主にドイツ人を指す)の逞しい女性の代名詞だと言う。同時に、移動するワンダーラー(Swagies)達に同行して夜は侘しい彼らを暖める女、妻替わりの意味もあることから、放浪者が携帯する毛布、寝袋等の荷物をMatildaと呼ぶに至ったらしい。

そう言えば、当時わたしが勤めていたオフィスの本社にいたアメリカ人ボブが、「この歌は英語を話す僕らもなんだか意味がよく分からない不思議な歌なんだ。」と言っていたのを思い出した。

オーストラリアの「Matilda」の意味は分かったが、それでもトム・ウエイツの「2、3ドルばかり貸してくんないか?To go waltzing Matilda=旅に出るのによ」なのだろうか。昔のこととは言え、2、3ドルでは旅には出られないんじゃない?トムが歌うにはまだ別の意味がある隠語なのだろうか。

ねぇ、トム。あんたの歌ってあんたの心の中のように、分からないのかね?と思わずトムの口調で呟いてしまうわたしであります。

ちなみにワルツィング・マチルダは、かつてわたしがチャット・ルームでお開きの合図として流してたものです。検索で知ったことですが、トムもこの曲をライブのトリに使っていたようです。

また、日本のテレビドラマ「不毛地帯」のエンディングに流されていたと聞きます。聴いてみてもいいかなと思われる方は、下でどぞ。
できれば、最後までお聴きいただけるといいのですが。