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ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

峰の嵐か松風か たずぬる人の琴の音か

2017-10-04 09:45:00 | 日記
2017年10月4日

本日はバチカン旅行の話から話題を変えまして。

無性に美しい日本語が恋しくなることがある。そんな時に手にする本が長谷川櫂氏の「一度は使ってみたい季節の言葉」だ。わたしはこの本を一挙には読まず、その時その時に応じて開いたページをゆっくり読む形を取っています。



まだまだ夏だとわたしたちが思っている頃に秋はゆっくりと準備をしており、実はもう始まっているのです。

初秋の装いをなすような空色を仰いで後、その本を開いて思わず目を惹かれた「秋の声」の項。平家物語の高倉天皇と琴の上手で美しい小督(こごう)の悲話が取り上げれらている。以下、ざっと要約してみます。

平家全盛の平安朝末期、時の高倉天皇は美貌と琴の誉れ高い小督という女房を深く慈しんいた。しかし、天皇が小督に溺れる事に怒る中宮の父である平清盛を恐れ、小督は宮中から姿をくらませる。天皇の嘆きは深く、密かに腹心の源仲国に捜索を命じる。

折りしも仲秋の名月の頃、月が白々と照る中、嵯峨野のあたりを訪ね回る仲国は、小督が応えることを期待し得意の笛を吹いた。すると、あたりからかすかに「想夫恋(そうぶれん=男性を慕う女性の恋情を歌う曲)」の調べが響いてくる。


(Wikiより)

以下、平家物語からの抜粋です。

亀山のあたりたかく松の一むらのある方に、かすかに琴ぞきこえける。峯の嵐か松風か、たづぬる人の琴の音か、おぼつかなくは思へども、駒をはやめて行くほどに おぼつかなくは 思へども 駒を早めて行くほどに片折戸をしたる内に琴をぞ弾きすまされたる。控えて これを 聞きかれば少しもまがふべうもなき小督殿の爪音なり。

さて、本日のトピックはこれなのです。ここで我が目は「ちょと待てぃ!」と相成ったのであります。わたしにとってはこの「峰の嵐か松風か、たづぬる人の琴の音か」というのは、子供の頃から、恐らくは歴史好き、歌好きだった母を通して覚えたであろう、「酒は呑め呑め 呑むならば 日本一(ひのもといち)のこの槍を 呑み取るほどに呑むならば これぞ真の黒田武士」に続く「黒田節の歌」なのであります。これはいったいいかなる事か?

そこで調べてみたところ、「峯の嵐か松風かたづぬる人の琴の音か」は平家物語で最初に語られ、謡曲「小督」に登場し、やがて「黒田節」の2番目にとなったと言う。文言は後半が「駒をひかえて 聞く程に 爪音(つまおと)しるき 想夫恋(そうぶれん)」と変わりはしているが意味はほぼ同じかと思われます。

言って見れば、子供の頃からそれと知らずして平家物語の「小督の琴」の文言を歌っていたということで、一冊の本から手繰った今回の発見は少し刺激的でした。

最後に高倉天皇と小督のその後はどうなったかご存知の方もおられようが、記しておきたい。

小督は清盛を恐れて宮中に帰るのをしぶるが、「想夫恋」の曲で彼女の真意を悟っていた仲国に押し切られこっそりと天皇の元に帰ってきた。2人はひっそりと逢瀬を重ねるが、清盛におもねる者から秘密が漏れて、小督は京都清閑寺に出家させられてしまい、高倉天皇もほどなく21歳の若さで世を去る。

平家物語のもう一つの哀話である。

お手紙

2017-09-28 23:02:41 | 日記
2017年9月28日 

今日はふと思い出したポルト補習校時代の話をしたいと思います。
写真はアメリカの絵本作家、アーノルド・ローベル作、詩人の三木卓氏翻訳の「がまくんとかえるくん」シリーズのお話です。

 


「今、一日のうちのかなしい時なんだ。つまり、お手紙をまつ時間なんだ。そうなると いつもぼく、とてもふしあわせな気もちになるんだよ。」と一度もお手紙をもらったことのないがまくんが、なかよしのかえるくんに言います。
友だち思いのかえるくんは、大急ぎで家へ帰り、早速がま君にお手紙を書きます。

そして、知り合いのかたつむり君に、がま君の郵便受けに入れてきてと頼みます。
「すぐやるぜ!」とかたつむり君。

ベッドでお昼寝しているがま君に「起きてお手紙が来るのをまってみたら?」と薦めます。
来るはずもない手紙を待つのにあきあきしたがま君は、今か今かとかたつむり君がやって
来るのを、窓から何度も外を見ます。

「どうして君、ずっと窓の外を見ているの?」と聞くがまくんに、かえる君は答えます。
「だって、ぼく、君にお手紙だしたんだもの。」

「親愛なるがまがえる君。ぼくはきみがぼくの親友であることを、うれしく思っています。」と書いて
あるかえる君のお手紙をふたりは玄関に出て幸せな気持ちで長いこと待ちます。
四日たってやっとかたつむり君ががまくんの家に着き、「とてもいいお手紙だ。」と喜ぶがま君。

                                  (spacesis要約)

というほのぼのとしたお話なのですが、忙しく用件だけを端的に述べたメール連絡が多い昨今、
わたしも手紙はなかなかいいものだなぁと、思わされた可愛い「お手紙」をもらった経験をば。

一週間に一度の土曜日の職場、補習校で講師をして21年目のときのことです。

小学1年生から中学3年まで見て来ましたが、その年は久しぶりに1年生と2年生を持ちました。
「あかるい おひさま あいうえお」で始まるひらがなの勉強から入るのですが、その1年生のSちゃん、その朝、補習校へ行きますと、国語の時間の始めに、「お手紙をあげたいの。」と言って、わたしに手紙を差し出してきました。

「せんせい、今読んで。」と言うのを、授業中ですものね、「休み時間まで楽しみにするよ^^」と納得してもらいました。

休み時間が始まるとすぐに、また「せんせい、読んで。」と寄ってきました。小さな可愛い絵柄の封筒の封を切って、取り出したお手紙には、

「せんせい、おべんきょうをおしえてくれて ありがとう。」

と、たどたどしいひらがなで書いてありました。先週授業で覚えてもらったのは「あ行」と「か行」です。
おうちの人に教えてもらいながら一生懸命書いたようです。わたしも思わず、がま君のように「とてもいいお手紙です。ありがとう。」

子供からのこのようなお手紙は、仕事冥利につきると思ったものです。そのSちゃんももう17歳くらいです。どうしているでしょうか。忘れられない手紙の一通です。

ノーマネー、ノーフリーダム

2017-09-01 19:06:36 | 日記
2017年9月1日 

とある雑誌記事に、

ー引用始めー
老後の生活資金は余命と生活費によって決まる。長生きすればするほど多くの資金が必要になる。
寝たりきりや難病になれば多額の介護医療費用がかかる。そうしたリスクを勘案して年間1000万の生活資金を準備し、日本人の最高齢である110歳まで生きると想定すれば60歳からの50年間で5億円の資産を用意しなければならない。

ー引用終わり

これを読んだわたしは、わっはっはと笑うしかなかったのである。5000万でいい、できるものなら生きているうちに拝んでみたいような気はする。しかし、そんなことはまず叶わないと思う方が、わたしたちの場合、まともであろう。

我が子たちの教育選択にあたって、「お金は残せない。せめて教育で」と、9年間のBritish School、日本の通信教育と補習校の学費をも含めて教育に費やした費用は、バカにはならなかった。お金のかかる教育が終わった頃は、今度は親であるこちらは定年である。

もうどんなに頑張っても、雑誌記事に言うような資産など貯まるわけがない。夫の年金でできるだけ病気をしないように生きる方法しか残ってはいないではないか。

読後は少々気が沈んでしまい、数日は「ノーマネー、ノーフリーダム」が頭をグルグル回っていた。この言葉はユダヤ人の格言だそうだ。

以前、土曜日の職場のスタッフたちにその話を振ったことがある。すると、皆口を揃えて言うではないか。
「そら、老後はやっぱり金ですよ。子供を頼らないで、周囲にも迷惑をかけないようにして、万が一の時はホームに入って。こういうことは金がないとできない」
・・・・・・・・・・・・・
あぁ、がっくり。反論する気も起こらなくて、うなだれてしまったわたしでありました^^;

子供をあてにしているわけではないけれでも、いざと言うときに「子供を頼らない」と言うのなら誰を頼るのか、「家族」って何なのか?周囲、つまり「家族に迷惑をかける」と言うのも、わたしには「うんうん」とうなずけないのだ。誰も好き好んで年取って病気になるわけではあるまいし、それが、家族にとって迷惑になると言うのか?

人の病気も寿命もその都度その都度してきた自分の人生の選択につながろう。5億円の資産を持っていたとしても、不慮の事故遭遇や不治の病にでもなったりしたら、もうどうにもならないではないか。楽しむこともせず転ばぬ先の杖のためにひたすら貯蓄に励む人生は、しかしまたどんなものか?

ノーマネー、ノーフリーダムだから老後のために5億円用意しようと言われてもなぁ、実感が湧かないよ。

しかし、この言葉が橘玲(たちばなあきら)氏が書いてあるカンボジアの青年の口から出たのであれば実感が伴う。

わたしも若いときは進学してもっと勉強したかったが、経済的な事情でできなかった。が、それをノーマネー、ノーフリーダムと思ったことはない。勉強する方法は本で独学するなど他にもあるからだ。
わたしならノーマネー、ノーフリーダムを「ノーマネー、ノーチョイス。しかし自由はあるぞ。」と言葉を置き換えるだろう。

わたしの考える「フリーダム(自由)」は、本があり、音楽があり、ネコがいて、夫がいて、まがりなりにも三食、いや、二食だっていい、食べることができ夜露をしのげる家があれば、老後はそれで結構自由だと思っている。

と、「ノーマネー、ノーフリーダム」に何とか反撃してみるのだが、やっぱりダメ?5億円なんて無理言ってもらっても困るんだが・・・^^;

今日のおしまいに、わたしの心をきゅっと泣かせたアジアの国の、とある一枚の画像を。ノー・マネー、ノーチョイス、しかし学ぼうとする意思と自由が少なくともある。頑張れよ。

アリとキリギリス

2017-08-29 01:17:44 | 日記
2017年8月29日 

休暇でポルトに帰省し、帰る間際までネコをからかって遊んでいた息子が再び日本へ行ったわけだが、9月からは講師の仕事をもう一箇所増やして、これでとうとうサラリーマン並みに月曜日から金曜日まで、5日間仕事でふさがった、と言う。

それを聞いて、「サラリーマンは9時から丸一日働くんだよ。お前の大学の講師の仕事は数時間だべ」と笑ったのだが、それでも彼にして見れば大きな変化だと言わなければならない。彼は彼なりに考えた末であろう、ネクタイを締めて「From 9 to 5」の一生に抗っているのである。

せっかく終えた大学のITコースを活かす就職は望まず、大学生時代に音楽を云々と言い始めたときは、趣味として続けるのは大いによしとするが、職業とするのは止めてくれと、夫とは違いわたしは反対したのである。

アーティストとしての道を極められるのは、運と真の才能に恵まれたホンの一握りの人たちである。
趣味で音楽をしながら一生生活できるほどの財産を子どもに残してやれないわたしたち夫婦だ。道は子供達が切り開かなければならないのだ。

どうしても夢を諦め切れない場合はいずれその道を歩き始めるであろう。その時こそ、誰に遠慮なく音楽の道を選べばいい。回り道になってもそれが本物である。と本人に言わなかったがわたしはそう思っていた。

日本で非常勤講師をしながらコンピューターを使っての好きな音楽作曲は今も続けているのだが、定職を望まない彼の将来は不安定である。

口さがない人には、「今また人生計画ってspacesisさん、そろそろ墓場にそろ~りと片足くらいは入りそうな歳なのでは?」と言われそうだが、私自身はいい気なもので、人生は分からない、まだこれからかも知れないなどと思ったりすることもある。

イソップの話にある「アリとキリギリス」はあまりにも有名で、今更披露する必要もないのだがちょっと。

夏の季節を歌って遊び暮らすキリギリスとは対照的に、暑い日差しを受けながら汗を流して冬の準備にせっせといそしむアリ。それを見て笑うギリギリスではあるが、やがて冬が到来し、食べ物もなく寒さに凍える日々に、思わずアリの家のドアを叩く。今度はアリが笑う番だ。

この教訓話にはなるほどと思わされるのだが、わたしはもうひとつの「アリとキリギリス」を知っている。もう40年近くも昔に、当時知り合った夫から贈られた英語版のサマーセット・モーム短編集に収められている「アリとキリギリス=The Ant and the Grasshopper」だ。

先のことに思い巡らし定職に就きせっせと働き貯蓄に精出している兄と、それとは全く逆にろくに仕事にも就かずその日その日を遊び暮らしている弟の兄弟がいる。

時々呼び出されては弟に金を無心される兄、その都度将来のことを考えろ、もっとまじめな生活をしろと説教を垂れる。兄はこの弟を心のどこかで見下げている。

ある日、呼び出され「ふん、またか」の気持ちで待ち合わせ場所に出向く。弟の話は金の無心ではなくて、先ごろかなり年上の大金持ちの未亡人と結婚したのだが、彼女が死んで大金、ヨット、ロンドンの家と田舎の別荘全てを相続した、という報告で、聞いた兄は、「It´s not fair!」と、悔し紛れに叫び、人生というものを呪うのである。

「へぇ~。人生って案外こんなどんでん返しがあるのかも知れない。」と納得いったようないかなかったような、そんな読後感をもった。

あれから40年近く、もちろんわたしは遊び暮らしてきたわけではないが、子供達の教育費は分不相応にかけたので、老後を考えて貯めたいにも貯めようがない状態でずっときたのである。

老後、何が一番必要かと言えば、金だ、と言ってはばからない人は周囲に結構いる。夫の年金以外、自分の年金なるものも入ってこようがないわたしは、この言葉を耳にすると、うなだれるばかりだ。

かと言って今更慌てて貯めようにも、定年もとっくの昔に過ぎたのでは貯めようがない(笑)そして、お金は確かに必要だが、「一番」という言葉に、心のどこかで反撥を感じるわたしがいる。

一度、TEFLEコース(英語教師)を取るので英文学の本を少し読むという息子に、「昔パパからもらった記念の本だから返してね」と貸した上述のモームの本、息子も「アリとキリギリス」は読んでいて、
老後は「パパがいるから、少しは大丈夫」と言うわたしの言葉に、
「ボクもそうだけどママもキリギリスタイプだね。」と息子に言われた・・・
そして「パパは典型的なアリタイプだ」と息子は付け加えるのである。

その通りです、息子よ。人生はunfair(アンフェア=不公平)なことの方がfair よりも遙かに多いのだ。
それに、アリとアリの夫婦なんて、しんどいかもよ。キリギリスとキリギリスもこりゃ大変だ。アリとキリギリス、これでなんとか夫婦の帳尻が合うというものよ^^

さいでございます。冬が到来したら夫と言うアリのドアを叩くわたしはキリギリスです~
そして、口さがない人には、「spacesisさん、そろそろ墓場にそろ~り片足くらいは入りそうな歳になるのでは?」と言われそうなこのギリギリス、人生の晩夏をもう少し謳歌しようと目論んでいるのでありますれば。

本日も読んでいただきありがとうございます。
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日本語ロゴに夫と爆笑した

2017-08-27 19:28:05 | 日記
2017年8月28日

毎日ではないが、日本語教室の生徒やポルトガルの知人達相手に、塾と称してフェイスブックで日本文化や漢字、愛唱歌、ニュースなどの情報を載せている。

夏休み中なのと、生徒の漢字検定試験に向けての準備も兼ねて、彼らが興味を持ちそうな面白い漢字と言葉を選んでみようとネット検索していたのだが、よくあることで、いつの間にか本題を離れて目にした、外国人が着る日本語ロゴがいと可笑しく、夫にまで声をかけ二人して笑い転げていたのであった。

数年前にブルッセルを訪れた際、街を歩いていて目にしたブティックのショーウィンドーの日本語訳に「なんだ、こりゃ?」とカメラを向けて撮影してきたのに、こんなのがあったのを思い出し、やおら画像を引っ張り出してきた。


「極度乾燥(しなさい)」・・・(しなさい)ってなによ、(しなさい)って、と苦笑しつつ、正面玄関にまで回って写真を撮ってきたのだが、ブティックのロゴにも「(しなさい)」が入っているのには苦笑にすら困ったわたしであった。

以下、ネットで拾った、外国人が着るTシャツの日本語ロゴの写真をば。以下、画像はWikiから拝借なり。

 
       さいでございますか^^ 

 
大変でございますなぁ。        お励みください。

 
あらら、お大事に。       まぁ、よくあることではございます。

 
い、いや、あの、その、ご自慢は分かるんですが、大汗もので^^;


キャバクラと幕府がなんで「いい国」なん!


い、いいけど・・・言わんでもええがな(笑)
 
 
       なんだかなぁ・・・
 
 
いやぁ、お食事処でそれはないっしょ!↑「侍」とまちがっとらんか?酷い!!

おいおい、お前さんがた^^;


「寿司 さしみ」^^;ブルータス、お前もか!って、誰だったっけ、この人?(笑)
 

ダニエル君ねぇ、「Tokyoな」ってなんですのん・・・ま、確かに名詞に「な」をつけることで「な形容詞」になるにはなるが、これはちょっとねぇ。「Tokyo的な」でしょうが。


お、出ましたね、Superdryの「極度乾燥(しなさい)」(笑)

このSuperdry、英国の国際服飾で、「Superdry極度乾燥(しなさい)」がブランド名なのだそうです^^;び、びっくりしました・・・
「極度乾燥」製品は、米国のビンテージ生地と日本に触発されたデザイン、英国テーラーの三つ巴を組み合わせた製品である。極度乾燥ブランドは欧州、北米、南米、中東、豪州、アジアの40ヶ国に展開している。」(Wikiより)
今日ではポルトにも支店がでたんですけどね。

あははは。これは小気味いい。

外国人のTシャツロゴを楽しませてもらったのですが、逆も然りで、わたしたち日本人の英語ロゴも酷いのがあること確信です。昔、息子用に日本から買ってきたTシャツの英語ロゴに「Fry away」ってのがあり、「うは!」と思いましたっけ。そう言えば我がフラットの前のカフェ、「Take Way」と看板が一時出ていましたが、誰かが伝えたのでしょう、じき「Take away」に訂正されました。

気がつかないところで自分もヘンチクリンなロゴの入ったものを着たりしているかも知れないので、クワバラクワバラ。人様のことを笑えた義理ではありません。それにしてもいったいどんな人がこんな酷い日本語ロゴをTシャツにプリントするのだろうかと思わずにはおられない。

変な英語ロゴの多くは英語に疎い日本人が作るのだろうから、日本語ロゴもそれと同じように日本語をかじった外国人が作るのだろうか。それとも手当たりばったり、目に付いた日本語をプリントするってことだろうか? Or、漢字に対する自分たち(外国人たち)の感覚で選ぶのか。大笑いした後で思ったことである。お粗末さまでした。