ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

アリゾナの空は青かった:我が友Moriとモンテレー

2018-06-08 22:00:58 | アリゾナ・ツーソン留学記´78
2018年6月8日

我が家の二人の子供達から幼い頃からずっと「Tio Mori」(=Moriおじさん)と呼ばれて来たこの御仁、わたしとは不思議な縁で付き合いが長年続いている。

わたしが渡米する少し前に、「ずっこけ3人組エピソード」で出て来るアメリカ人の友人、ブルースの紹介で、日本にいた時に知り合いになった、かなり年下の親友である。アサヒビアハウスにも時たま顔を出していたこともあるが、彼とは日本での付き合いよりもわたしがポルトガルに来てからの、20年来の手紙の交流の方が遥かに長い。

それがなぜ「アリゾナ」物語に出てくるかと言うと、これはず~っと後になってだが、彼が打ち明けてくれたのに寄ると、わたしのアメリカ移住の話に大いに触発されて、自分も、と一大決心。わたしより少し遅れて、Moriもカリフォルニアへと渡ったのだそうだ。

大学のESLコースも残すところわずかとなった6月頃、ケンタッキー・インの下宿のわたしに電話が入った。
「おい、俺、今カリフォルニアのMontereyでホームステイしてるぞ。そっちの大学コースが一段落したら、こっちへ来ないか?ここのオヤジさん、お前も引き受けていいと言ってるんだ。」

ツーソンに来て以来、この先まだどうなるか皆目見えない自分の未来、とにかく無駄金だけは遣うまいと、観光旅行などは一切避けてきたのだが、気持ちの整理をしてみたかった。わたしのような、たいして資金のない外国人がアメリカに居残るのに、そうそうおいしい話があるわけではない。今も恐らく同じような話があると思われるのだが、便宜上、アメリカ人と結婚するというのは、わたしたち留学生の間で結構話題になってはいた。

当時の日本の旧い国際法と違い、欧米では婚姻関係を結ぶことにより、自動的にその国の国籍取得ができるのであった。国籍取得ができたら働くも自由である。ツーソンに幾人かアメリカ人の友人もできていたし、万が一の場合はと、それを申し込んでくれる男友達も中にはいたが、わたしは元来がドライな性格ではないらしい。そのような便宜上の関係は、気持ちが向かない。

「あいつとちょっと話してみてもいいか」と気持ちが動き、コースも終わろうかと言う頃に、思い切ってサン・フランシスコへと飛んだのである。

こうして空港まで出迎えてくれたMoriと紳士ウィリー。ホストファミリーのウィリーは、リーダーズ・ダイジェスト社にて編集長の仕事を退職し、悠々自適の年金生活をしている紳士であった。シスコの空港からウィリーおじさんの住むMontereyへ向かった。

住まいに案内されて、わたしはちょっと驚いた。そこは裕福な年金生活者たちのコミュニティーが、所有する閑静で広大な土地の一角であったからだ。こんなのは、サボテンの田舎ツーソンではお目にかかったことがなかった。さすが、都会である。その土地内に入るには、約束をしている訪問者と言えども、門にいる警備員が敷地内の相手に電話で確認をとって初めて入れるのである。


ウイリーは独身だが、育てた養子は既に成人で当事は入隊していると聞かされた。

提供されたわたしの部屋は、バストイレ付き、これはホテルと変わりない(笑) 部屋からは庭というより森と言ったほうがぴったりの、静かで落ち着いた自然が見渡せた。

夜ともなると、庭に突き出たベランダには、どこからかラクーン(アライグマ)の親子が姿を現し餌をもらいに来るのだ(笑)真夜中には、「天井を走り回る輩はネズミであるか、こんな家で走り回るのがいるとは!」と思っていたら、ネズミにあらず、リスだった。翌朝庭にはその小リスが現れ、庭を散歩していて人馴れしたものだった。すぐ近くには、スタインベックの「エデンの東」の舞台となったSalinasがある。

サリナスにて。

ウィリーおじから車を借りて我が友Moirと出かけたSan Francisco旅行は、二人とも金欠だったものでYMCAに泊まり(男女、部屋は別々だよん^^)、かなりけちった旅行になったのだが、Moriとの旅行は、これよりも、もうひとつ、日本でしたものの方が、遥かに記憶に残っているのだ。

ゴールデンゲイト・ブリッジを背景に。Mori撮影。
  
サン・フランシスコの海峡を背景に。風に吹かれて髪がボーボーw


2部へ続きます。

アリゾナの空は青かった:番外編「大草原の小さな家」

2018-06-07 17:10:25 | アリゾナ・ツーソン留学記´78
2018年6月7日


わたしがポルトガルに来た1979年の頃は、テレビが白黒だったのに、えっ!と驚いたものである。
  
日本では5年間ほど「テレビを持たない主義」を通したわたしではあるが、それでも白黒テレビが日本では既になくなって、カラーテレビが当たり前の時代に入っていたくらいは、いくらなんでも知っていた。ポルトガルでカラーテレビがお目見えしたのは、それから数年たってからである。

テレビチャンネルも当時は国営放送の2局のみだった。放送開始は午後からで、夜11時ころには終了である。そのときは必ず、はためくポルトガル国旗をバックに、ポルトガル国歌が流された。だから、わたしはポルトガル国歌を自然に覚えてしまったといういきさつがある。

それはさて置きまして、タイトルの「大草原の小さな家」だが、これはアメリカの作家ローラ・インガルズ・ワイルダーが、自分の子供の頃に住んでいたミネソタ州の小さな村、ウォールナット・グローブでの様々な出来事を綴った本で、アメリカの子供なら必読と言える名作である。

これを原作にして作られた、マイケル・ランドンのTVドラマは我が家の永久保存版になっている。
わたしたち4人家族は夕食卓を囲みながら、何度このドラマを繰り返して見たことだろう。特に娘などはセリフを殆ど暗記するほどの執心ぶりであった。夫にいたっては、「また見るの?」と言いながらも、わたしたちと同じように、次がどんな展開をするのか全て知っていながら、いつの間にか各々のエピソードから目を放せなくなっているのであった。
   
ドラマは素晴らしい。
しかし、わたしが子供達にこのドラマを見せだしたのには、もうひとつ理由があった。ポルトガルでは海外ドラマや海外映画は吹き替えをせず、そのまま原語で放映される。これはある意味、とても素晴らしいことだと思う。吹き替えをすると、本当のドラマや映画の味がどうしても損なわれてしまうとわたしは思う。

だから、この「大草原の小さな家」を通して、子供達には英語のセリフをそのまま、学んで欲しいと思ったのである。
   
子供たちをポルトガルの学校ではなく、英国式教育のBritish Schoolに通わせることをわたしたち夫婦は話し合って決めたいきさつがある。できれば、自然な言い回しの言葉をこのドラマを通して学んでくれたらそれに越したことはあるまい。もちろん、アメリカ英語とブリティッシュ英語との違いは多少あるが、それがわたしの作戦であった。そして、この作戦はみごと功を奏したと言える。



ドラマは、ローラとその父親チャールズと家族を中心に、その他、様々なキャラクターをもった多くの子供が登場してくる。同時に、世間によくいがちな自己中心的なタイプの大人たちも多く描かれている。

「大草原の小さな家」では、言葉だけでなく、そのドラマを通して感動したり、意地悪で計算高く、わが子となると見境なく溺愛してしまうミセス・オールソンや、嘘つきでわがままなその娘ネリーに憤慨したりと、世間の一窓を垣間見ることができる。

ドラマのローラの両親のように子供と真剣に向き合う親になりたいと願い、子供を育てる上で多くのヒントと教訓を「大草原の小さな家」から得たと思う。自分の損得を考えずに、公平に物事を受け止め実行するということは美徳のひとつであろう。

インガルズ一家にはそういう姿勢が見られ、非常に魅力的なエピソードがたくさん散りばめられている。チャールズとキャロラインのインガルズ夫妻の忍耐強い、ウイットに富んだ子育てにはわたしも学ぶところが山ほどあり、こんな親に、いや、こんな人間になれたらなりたいものだと思ったものだ。

人間として、親としての基本的な姿勢がそこにあり、親子も含め人間関係が希薄になりつつある今こそこういうドラマが再放送されたらいいのにな、と思ったりしている。現代映画もきらいではないけれど、昨今の暴力的な映画、ドラマには辟易しているわたしである。


我が家にある録画ビデオ本数、一本が6時間撮りで20本以上はあろう。ビデオを通しての疑似体験が、あたかも私達家族の思い出であるかのように記録されている1セットである。

参考:原題 Little House on the Prairie
原作 Laura Ingalls Wilder

アリゾナの空は青かった:Old Tucsonオールド・ツーソン

2018-06-02 20:24:56 | アリゾナ・ツーソン留学記´78
2018年6月2日

大学のESLコースでは、グランドキャニオンと近場のオールド・ツーソン(Old Tucson)へのバス旅行があった。まだ先行きをどうするか決めておらず、お金に不安があったわたしは費用のかかるグランドキャニオンを避けてオールド・ツーソンのみにしたが、今にして思えば無理してでもグランドキャニオンは行っておくべきだったと多少後悔している。

というので、取り立てて何があったわけではないが、今日はオールド・ツーソンの話。

長い間、Old Tucsonとばかり思っていたのが、今回調べてみると、正式には Old Tucson Studiosと呼ばれ、1940年の映画「Arizona(ジーン・アーサー、ウイリアム・ホールデン主演)」撮影のために作られたとWikipediaにある。

以来、ひとつの町単位のオールド・ツーーソンは、スタジオとして、「OK牧場の決闘」「リオ・ブラボー」「トゥムストーン」「Red River」など、多くの西部劇映画やウェスターンTVドラマの撮影現場に使用され、現在はテーマパークになっている。
 


↑町を歩いていたらスタントマンのガンファイト・シーンが目の前で広げられた。サルーンから取っ組み合いながら外へ転がり込み、突然始まったのには驚いたが(笑)

オールド・ツーソンは1995年に火災にあい、多くの映画やドラマの撮影に使用された記念建物が失われ、再びオープンしたのは1997年とある。わたしが訪れたのは1978年のことで、もっと注意して情報を集めることができていたら、今日ブログに書くことも違っていたはずである。

オールドツーソンの記念写真。古い写真で失礼。

と言うのは、渡米前まで日本にいたときのわたしはステレオは持っていたものの、テレビは主義で持たなかった。後にポルトガルに来て、こちらのテレビで見たシリーズ、「大草原の小さな家」は我ら一家が大ファンになり、繰り返し見たのだが、日本では1975年から1982年まで放映されていたとのこと。実はこのオールド・ツーソンがシリーズ一部の撮影現場であったのだ!


↑初期のインガルズ一家   ↓後半、長女のメアリーの結婚相手と養子として向かえたアルバートもメンバーに。


現在のオールドツーソン。写真の看板「Olsen´s Mercantile」を見て、お、大草原のMrs.Olsonの店のセットが!と一瞬早とちりしたのだが、店のペンキが白だったことを思い出し、よく見ると一文字違いの、「Olsen´s」であった。バックにアリゾナ山脈が連なっている。


ドラマではちょっと意地悪で計算高く、娘を溺愛する個性的な役で、「大草原」も彼女なくしては盛り上がらなかったであろう。脇役ながら大きな存在感があった↓


多くのセットが火災で失われてしまったのは返す返すも残念なことである。
「大草原の小さな家」については次回にもう一度触れてみたい。

アリゾナの空は青かった:ミセス・エヴァンスのはかりごと」(2)

2018-06-01 06:34:29 | アリゾナ・ツーソン留学記´78
2018年6月1日

              
ミセス・エヴァンスの昼食にはわたしともう一人、招待客がおりました。エヴァンス氏の同僚で、同じくアリゾナ大学天文学研究所に籍を置くドゥエンさん。年恰好はエヴァンス氏と同じくらいの中年男性。どこか、リチャード・ウイドマークに似た感じで独身だそうである。

食後の緩慢な午後のおしゃべりも途絶えがちになり、わたしもそろそろと腰を上げて失礼しようという段で、ドゥエンさんが車で下宿先まで送ってくれる運びとなった。すると、ミセス・エヴァンス、わたしにこっそりと耳打ちしてきた。
 
「あのね、車が下宿先に着いたら、彼が車のドアを開けてくれるまでちゃんと座席に座って待ってるのよ。それが女性のエチケットなの。近頃の若い女性と来たら、自分でドアを開けてサッサと車を降りてしまう。これだと男性は興ざめします。」

おお、なるほど。分かり申した。アメリカ映画では良く見かけるシーンではないの^^ふむふむ。
と、すっかり気取ったわたし、乗車するときもドアを開けてもらい、降りるときは「自分で降りたほうが早いがな」と思いながらも、じっと座ってドゥエンさんがドアを開けてくれるのを待ったのである。別れ際に、ドゥエンさんから、明日の日曜日、フェニクスまで一緒に食事に行かないかとのお誘い。

特別予定は入っていなかったことだし、たまには息抜きも要る。せんだってのグレイハウンドバスの一件から、女一人がアメリカの見知らぬ町を歩き回ることには、すっかり警戒心を持ってしまっていたわたしだ、願ってもない申し出で、連れていってもらうことにした。

翌朝、ドゥエンさんが我が下宿先ケンタッキーインに横付けしたその車をみて、わたしはひっくり返りそうになった!「ポ、ポ、ポルシェ・・・・」

ポルシェを駆って、ハイウエイをツーソンから一時間半ほどにある、保安官ワイアットアープ、ドク・ホリディ達とマコーり兄弟とのガンファイトを描いた「OK牧場の決闘」で有名な町「Tombstone」(墓場の町の意味)へと向かった。ま、まさか今度は、トム・カツコーとの時のように、後方から「その車、停車せよ!」なんてことはあるまいと一瞬不安が横切ったことを付け加えておく。
その名の如く、西部劇に出てくる古い町がそのまま観光地化され、実話とされるガンファイターたちの墓場も観光のスポットになっており・・・^^:しかし、いかななんでも、縁もゆかりもない墓場の写真をとるは、少し不謹慎であろうと思い、その頃はカメラのシャッターは切らなかった。

後年、ポルトの芸術的な墓石が多いアグラモンテ墓地を訪ねたときも、最初は撮影できなかったのだが、あまりの素晴らしさに、撮影したい誘惑に勝てず、「すんません、一枚撮らせてください」とカメラを向けたのではあった。

昼食をしながらの話題は、意外や、星の話、宇宙人の話と及んだ。渡米する前までのわたしは、考古学遺跡やオーパーツを研究し、古代宇宙飛行士説という独自の持論を唱えるエリック・フォン・デニケンの本を何冊か読んでおり、一般的に世には知られていないものの、この世には、科学的な説明が及ばない古代人の高度な知識があったという、広大な論に思いを馳せては夢見ていたこともあり、ドゥエンさんのなかなかに面白い見解に大いに興味をそそられたのであった。

ドゥエンさん曰く、「ほら、 わたしたちが蟻を目にしても、たかが蟻と、格別、意も払わずにいるだろ?しかし、蟻は蟻で社会があり法則があるのだ。人間社会と似てるのだよ。それと同じようなもので、もしかすると、我々人間は宇宙単位では、科学も技術も非常に遅れた、言わば我々から見る蟻社会と同じに見えるのかも知れないね。」


今もわたしの手元にあるデニケン著書「未来の記憶」。1970年代発行。ページはもうすすけている。

翌日大学へ行くと早速ミセス・エヴァンスが、
「ドゥエンがあなたと正式にお付き合いしたいと言ってるんだけど、どう?彼は人柄はわたし達が保証する。ご両親はもう他界してるから、舅姑の問題はないし、ポルシェを2台、そのほかに2台車をもってるくらいで、経済的にはとても安定した生活ができる人よ。」

や、やっぱりそうか^^; エヴァンスさん、最初からそう言ってくださいよ。
正式なお付き合いはまだダメなんです。わたしはこれから先、本当にアメリカに根を下ろすのか、日本にいるポルトガル人のかの人(夫となった人)とは、果たしてどういう結果になるのか、全て未解決のままなのであって・・・

暇だからとてノコノコ誘いに付いて行った己を反省。しかしなぁ、それでいくと、アメリカ人との付き合いは女性に限られ、男性であれば、最初から「友達として」なんて野暮な断りを入れなければいけなくなるのである。

ポルシェの人、ドゥエンとはそれきりになったものの、ミセス・エヴァンスとは以後も友人関係を保ち、彼女の経験を通して、国際結婚について多くを聞かされたのであった。その時のわたしはまだ、国際結婚の当事者になるかどうか不明だったのである。


アリゾナの空は青かった:「ミセス・エヴァンスのはかりごと」(1)

2018-05-30 16:30:20 | アリゾナ・ツーソン留学記´78
2018年5月30日
             

チェリー氏のクラスが終わったある日のこと、同じクラスのミセス・エヴァンスが声をかけて来た。
「Yuko、今度の土曜日時間がある?うちで小さなパーティーするんだけど、昼食、食べに来ない?」

ミセス・エヴァンスは、アメリカ国籍をもってはいるけれども、れっきとした日本人である。お連れ合いはアメリカの方で、アリゾナ大学にある天文学研究所の職員だ。ちなみに、アリゾナ大学の天文学研究所はかなり名を知られているのだそうだ。このことをわたしは後年知ったという、のほほん者であった。

しかし、ツーソンにあるキット・ピーク国立天文台には、例のロブ、ブルースのズッコケ組と一緒に出かけ、たった3人の訪問者ということで、丁重に案内してもらい巨大な天体望遠鏡を見学してきたのである。


画像はWikiから拝借したキットピーク国立天文台。

この山は、アリゾナ州南部に居住するネイティブ・アメリカン、パパゴの聖地であるバボキバリ山です。23台の望遠鏡があり世界でも有数の天文観測機器が集まっている世界最大の太陽観測望遠鏡もあるのだそ。

さて、ミセス・エヴァンスだが、二人の子供が大学生になり、もう自分をあまり必要としなくなった。これまで聞きかじりのブロークン・イングリッシュでやってきたけれど、もう少しまとまな英語が書けるようになりたいと一念発起。40半ばを過ぎたその年、大学のESLコースを取り、作文クラスでわたし達は席を並べることになったのである。

アメリカの一般家庭がどういうものなのかという興味も手伝って、彼女の住所を教えてもらい、わたしはその週末でかけることになった。

ケンタッキー・インから大学に向かって左に折れ、もと住んでいた927番地を通り過ぎて、大通りのスピード・ウェイからバスに乗るのである。ところがバスに乗って行けども行けども目的地が出てこない・・・運転手によくよく聞いてみると、反対方向のバスに乗ってしまったらしい。慌てて降りたわたしは、週末で他に待つ人もいない向かい側のバス停でボケーットとバスの来るのを待っていた。しかし、車社会のアメリカ、おまけにバスの本数が少ない週末のことだ、待てど暮らせどバスは来るものではない。

と、その時、目の前にスーッと一台の中古のキャデラックが止まった。車窓が開き、「どしたの?どこまで行くの?」と、優しそうなおいさんである。(この頃はパット見でアメリカ人の年齢推定できなかった)住所を書いたメモを見せると、「お乗りよ。連れてってあげるから。」とのこと。そのまま乗せてもらい、かの住居に着いたところで、家の前でうろうろしているエヴァンスさんの姿が見えたw

おいさんにありがとうと礼を言い、車を降りしなに、「君の電話番号、教えてくれない?」と訊かれ、ハイ、と、気軽に教えたお調子ものだった^^;

エヴァンスさんが早速近づいて来、「さっきの彼、友達なの?」と訊く。
「いえ、初めての人です。バス停で拾ってくれて、ここまで送っていただきました」
「んまぁーーあぁた!そ、それはね、知らない人に車に乗せてもらうってことはね、何があってもオッケーの意味なのよ~」と悲鳴! な、何があってもオッケーって・・・(大汗)

エヴァンスさんの家に入り、家族を紹介してもらい、チキンのグリル焼きの食卓はわたしの無謀なヒッチハイクの話題で持ちきりだったのだ。 どうも、わたしは時々普通しでかさないようなことを、無頓着にすることがあるようだ。中学時代の弘前から大阪までの夜汽車での家出から始まり、友人との九州旅行のヒッチハイクと数えてみるとけっこうたくさんあるではないか。家出など、あの頃はまだ人さらいがいた時代だろうから、何事もおこらず何度も無事家出を成し遂げられたのは、運がよかったとしか言いようがない。

後年、わたしはこれら若い頃の、自分の無謀な冒険を振り返ってみて、その幸運さに、「ご先祖さまが守ってくれてるんかなぁ。」などとのたもうて、あんたの口からそんな言葉を聞くとは思いもしなかったと、親友に大笑いされたことがある。

わたしは、これまで大抵こういうきわどい経験をしたことに、後で気づくことが往々なのだった。
しかし、かのゲーテは言っているではないか。向こう見ずは天才であり魔法であり力だ、と。

さて、ミセス・エヴァンスのはかりごと、実はこらから始まるのであります。

では、次回へ続きます。