ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

アリゾナの空は青かった:「Mr. Cherry」

2018-05-29 15:25:43 | アリゾナ・ツーソン留学記´78
2018年5月29日 
             
ケンタッキー・インの日本人下宿人がわたしだけではなかったのには、少なからず驚いた。
その若い日本人青年は、高校卒業後すぐ日本のとある大手建設会社に入り、まもなく会社の費用によるアリゾナ大学留学を命ぜられ、3年目であった。21歳、若いはずである。しかし、ケンタッキー・インでの驚きはそんなものでは終わらなかったのだが、それについては今日の題とは関わり合いないので、後日に回させてください。

今回はバック・トゥー・ザ・スクール、大学のESLコースに戻ります。


University of Arizona,Tucson
1978年1月か2月の大学キャンパス。下はWikiから拾った現在のアリゾナ大学キャンパス。あの頃と違うのは緑がずいぶ増えて見える。写真の季節が違うのか、それとも緑地化に大いなる力を注いできたのかも知れない。


University of Arizona,Tucson


「Mr.Cherry~!」
「だめだめ!ハーモニーがなってない。もう一度!せぇの」
「ミスター・チェリィ~!」

わたしは今でもこの光景を思い浮かべると思わずククッと一人笑ってしまう。

「R」の発音は日本人にとってだけではなく、フランス人、スペイン系、アラブ人にとってもなかなか手ごわいのだった。日本人はLとRの区別がつけられず、スペイン系やアラブ人は、Rがどうしても巻き舌になってしまうのだ。

英作文のクラス担任であるMr.Cherryは毎回授業の始めに、わたしたち全員にRが二つ入ってる自分の名前を合唱させるのであった(笑)
両手をタクトのごとく空中で振り、「せぇの」「ミスター・チェリィ~~」とやるのだ。Rの発音だけではなく、ハーモニーも持たせよ、とわたし達に注文なさる(笑)

こうして書くと、このCherry氏、なんとなくダンディーに思ったりはしませんか?
期待を裏切るようで悪いのだが、ダンディーとはお世辞にも言い難い御仁だった(笑)60に入っていたのだろうか、頭は白髪で頭上真ん中には既に髪の毛一本たりとも残っておらなんだ。いつも白シャツにヨレヨレの細くて短めのズボン。

ホモセクシュアルとの噂も耳にはしたが、真偽のほどはわからない。それは個人的な問題だと私自身は思っていたので、たいして気にはならなかった。なにしろ、わたしはCherry氏のクラスがコースの中で一番楽しかったのである。

教室ではまず文法を学ぶ。そして、毎回必ずと言っていいほど、ここではアラブ系の学生が「Why, why」と乱発する。あまりのひどさにわたしなどは、「クソ!お前ら、こんなクラスに来て、まだこういうことも分からんのかぁ。下へ行け、下へ」と内心何度思ったことか(笑)

もちろん口外しまへんわよ(笑)しかし、思うのは自由である。自分の読解力クラスでのことは忘れて、わたしもいい加減なものだw 彼らは文法を考えながら話すわけではないので文法そのものはメチャクチャだが、とても流暢に英語を話しているような錯覚を日本人はおこすのだ(笑)

さて、Cherry氏のクラスでは毎週宿題として英作文の課題が与えられる。
「これまでの人生でしでかした一番大きな失敗」「初めて英語を本格的に学ぼうと思ったきっかけ」「創作(←これは短編小説ですだw)」エトセトラ。どれをとっても面白い課題であった。

わたしはこのとき、生まれて初めて英語でSF短編小説を創作してみた。超高層ビルが隣接し、太陽光が地上に届かないような未来都市の話。花を一度も見たことがないという不治の病を持つ少女と若い脱獄囚の物語ですわ。 

添削された作文は数日後教室で、構成、内容と、文法力評価になる2段階の成績がつけられて手渡される。

その日も授業の始めに先だっての作文の評価が一人一人の生徒に渡されていった。
と、Mr.Cherry、わたしのところでヒタと立ち止まり、宿題を片手に持ちながら、
「Yuko,この成績は、この2年間わたしは誰にも上げたことがないのだよ。おめでとう。」

ひゃっほ~~、やった!
クラスの視線がこちらに向いているのをわたしはしっかりと感じた。手にした成績は、構成内容がA-、文法がB+。厳しい点数をつけるMr.Cherryからこれをもらったのは、非常に嬉しいことだった。
作文のテーマはと言うと、「これまでの人生でしでかした一番大きな失敗」でした。まるで、わたしのために用意されたようなものだ(笑)。今ならもっともっと書けるぞ!

読解力クラス、作文クラスと、こうしてわたしは少しずつ鍛えてもらったのである。英語を学ぶことが目的でアメリカに渡ったのであるが、ここでわたしはそれ以外に、いかにして生徒を授業にひきつけ、楽しさを交えて学んでもらうか、という教授法を垣間見た気がする。ツーソンのESLコースは本当に楽しかった。

後年、わたしはポルト補習校でいずれ帰国して日本の学校に再び通うはずの日本の子供達やポルトガルの日本語生徒たちに、曲がりなりにも言葉を教える羽目になったのだが、我が娘がよく言ったものである。
「いいな、隣のおかあさんのクラス。いつも笑い声が聞こえてくる。」

家での日本語教室にいたっては、レッスンが終わり生徒さんが帰るなりすぐ顔を出して、「おっかさん、ほんとに日本語教えてるの?デッカイ笑い声ばかりが聞こえてるよ」 大丈夫だい!ちゃんと勉強はしてらぃ!

Mr.Cherryからわたしがいただいたものは、あの成績よりもむしろ、努力も必要なことをもちろん踏まえて、「笑いながら学ぶ、こんな楽しいことはない。」 これである。


University of Arizona,Tucson1978
Mr.Cherry と一部のクラスメートたち。左から二人目はこの後登場するミセス・エヴァンス。

アリゾナの空は青かった:「恐怖のグレイハウンド・バス」(3)

2018-05-28 18:50:07 | アリゾナ・ツーソン留学記´78
2018年5月28日

これはエライことになった・・・

中学時代は田舎から大阪へと急行の夜行列車で22時間もかけて、何度か家出冒険したり、高校を卒業して後は、深夜の大阪街を徘徊したりしたわたしではありますが、このときはさすがに、見知らぬ異国の町にたった一人放り出されて、心細いと言ったらなかった・・・

おまけにトム君、別れ際に「Hey、警官と言えども信用するな。」って、そんな言葉を投げつけないで欲しい^^;パトカーに乗って送ってもらうしか、他に手段はないのだ、アホめ~。元はと言えばあんたのせいだ!と、言いたい不満もこの時は、ひっこんでしまうほどの心細さでありました。

そうです、わたしはフラッグスタッフにあるグレイハウンドバス停までパトカーで送ってもらったのでした。
標高2300mの少し雪の降った町の昼下がり、バス停でわたしはツーソンまでの切符を買い、待合室の長椅子に腰を下ろした。内心は不安でブルブル震えていたのである。


Wikipediaより

長椅子に腰かけて、周囲を恐る恐る盗み見してみる。周囲が皆、わたしを、わたしのバッグを狙っているかの錯覚に襲われ、グレイハウンドバスがやって来るまでの2時間、生きた心地もなしにその長椅子にひっついて、微動だにせず化石の如し。
やがてバスが到着し、乗り込んだその一瞬、あちゃ~~~、乗客に白人は一人もいなかった・・・


Wikipediaより

偏見を持ってはいけないぞ、Yukoと、己に言い聞かせて席をとる。しかし、これは初めて見るドキッとした光景でした。欧米人が、日本人ばかりのバスにうっかり乗ってしまったら、同じように感じるのだろうか・・・単一民族国家の日本では当時は起こりえない、そしてこれが移民国家アメリカなのだ、とこの件を後で振り返って思ったことでした。認識甘し^^:

それから数時間のグレイハウンド・ジャーニーの、ただただ長かったこと。フェニックスについた時はすっかり夜になり、そこから2時間くらいがツーソンなのでした。

ツーソン着、夜の10時を回っており、休暇週末と重なって、バス停があるダウンタウンは人影も無く、ひっそりと静まっております。その時のわたしは、タクシーに乗ることすら恐怖でした。もう乗り物はいやだ・・・家への道はダウンタウンの地下道を通らねばならず、響く己の足音にびくつきながら、わたしは足早に走るが如く。いったいそんなわたしの姿はどんな風に見えただろうか・・・

ついに辿り着いた927番地!ドアを思いっきり開けて、わたしはそこにしばらく突っ立ったままだったようですw リビングで思い思いのことをしていた住人達が一斉に振り返り、「どうしたの?」と言われ、初めて、我に帰った(笑)「何が?」と、とっさに平静を装ってみたものの、「顔が真っ青だよ」の一言に、わたしはその場にヘナヘナと座ってしまったのでした。

止むを得ない数時間とは言え、グレイハウンドバスに乗って独りアメリカを走った日本女性って、他にもいるのだろうか・・・

これはわたしが上述したバスの乗客云々を別にして、女性には決してお勧めできる旅行ではありません。恐怖が三話にも渡ってしまいました^^;

とっつばれ。(←津軽弁で「終わり」の意味w)

アリゾナの空は青かった:「恐怖のグレイハウンド・バス」(2)

2018-05-25 07:26:35 | アリゾナ・ツーソン留学記´78
2018年5月25日 

同じアリゾナ州と言えども、フラッグスタッフは標高2300mとあって、ツーソンとは俄然気候が違う。
翌朝目が覚めると、宿泊した屋内ではガンガンストーブを焚いておりまして、外はうっすら雪化粧。近くの小さなスタンドカフェに入って、わたしたちは軽くブランチ(朝食兼昼食)を終え、さて、ハイウェイへと向かってトム君が走らていましたら、後ろからゆ~っくり、スゥーっとパトカーが来まして、ピタッと横付けに止まりました。

えぇ?と思っていますと、トム君が運転席に座ったまま制服姿の警官と一言二言話して、免許証を出しましたです。

「雪が車の屋根に少し積もってるし、道にも気をつけて、だそうだ」

と何事もなかったようで、わたしたちは、後は市街を抜けてツーソンへ一路まっしぐら。しばらくハイウェイを突っ走っていましたら、バックミラーにパトカーが後ろに走って来るのが見えた・・・しかも、かなりのスピードです。

「あれ?。まさか、この車を追っかけて来てるわけじゃありませんよね?」
「なんで。だって別に悪いこと何もしてないよ」
「うん。そうだよね・・・だけど、他にこのルートを走ってる車、ありませんですが・・・」
ふと、嫌な予感が・・・した。

するとですよ、後ろからパトカーがなんか叫んでるのが聞こえてきた!
「その車、止まれぇー!」映画の場面だったらさしづめ「フリーズ!」とでもなるだろうかw 「フリーズ」とはアメリカの警官語で「動くな!止まれ!」である。アクション映画でよく耳にする言葉だ。

こちらの車は走ってる訳でして、実際にあちらさんが、なんとガナッってるのかわたくしは存じませんでしたが、かなりヤバイことが起こりつつあるのは、なんぼドンくさいくても、雰囲気から分かりましたです^^;運転していたトム君も、「な、なにがやの?」と訳が分からない顔で、しかし、即座に停車。

二人の警官がこちらへやって来て、トム君、車外にでるよう促されました。見ると、先ほどフラグスタッフの町で、「雪道だから気をつけて行きなさいよ。」と声をかけてくれた二人ではありませんか。あれはこちらを心配して注意してくれたのではなくて、車のナンバーからよそ者とわかって、それで様子を見がてら、と言うことだったのでしょ・・・

トム君と警官とのやりとりがしばらく外で続いていたと思ったら、ありゃ?ト、トム君^^;て、手錠なんかかけられてます~????警官の一人が助手席に座ったままのわたしのところに来て、

「彼が君と話したいと言ってるよ。」 い、いったいこれはどういうことなのよ?

トムの説明はこうでした。
フェニックスの大学にいたとき、交通違反で罰金を科された。しかし、しょっちゅう住居を移動したので、(アメリカ学生の間ではよくあることです)その通知が届かなくなり、罰金未納が重なってドンドン増えて行き、結局「Wanted」で、警察のコンピューター検索でひっかかったとのこと。1000ドルを払ったらすぐ釈放て・・・^^;

「持ってますけど、持ってまへん~」

ごめんよ、トム君。1000ドルが例え君を今救うとは分かっていても、これを使うことは、できない。なぜなら、わたしは学生ビザで滞在していて、この留学のために数年アサヒビアハウスの歌姫バイトをして貯めた留学のためのキチキチの預金証明を、アメリカで求められたら常に出せる状態でいなければならない、しがない貧乏留学生なのです^^;

許しておくんなさい、おっかさん。(ちなみに、当時のツーソンでのわたしの生活費は月に300ドルでしたから1000ドルは我が3ヶ月分の生活なり)

友人トムをフラッグスタッフの留置場に見捨てて、わたしはひとり、グレイハウンドバスで、ツーソンに帰ることになったのでありました。なんでも経験してみるものだとは言うものの、こんな経験は果たしてしてみていいものかどうか。おすすめできるものではありまへん・・・

まだまだ続くこの恐怖。

-to be continued-

アリゾナの空は青かった:恐怖のグレイハウンド・バス」(1)

2018-05-24 05:58:31 | アリゾナ・ツーソン留学記´78
2018年5月24日

画像はwikiから。


註】グレイハウンドバス:アメリカ全土を網羅する長距離バス。車体に大きく走るグレイハウンド(細身の快速の灰色の猟犬)の絵が描かれている。

927番地を早く出たい思いで、話が前後してしまいました(笑)ケンタッキーインに移るしばらく前の恐怖の体験をばひとつ^^;

いや~、おアホがいろいろ失敗してきましたが、これは我が人生でたった二つある真の「お顔真っ青」事件のひとつです。

たったふたつだけ?て、突っ込みですか。あっはははは。
数ある失敗はしてきましたが、まぁ、なんとか許されるものがほとんどでしょう。心底冷や汗が出るような事件というのには、普通の人間であればそうそうザラに出会うものではないと思うのです。しかし、これは、今思い出しても汗がタラーと流れてまいります。

謝肉祭、つまりカーニバルの短い休暇の時のことです。謝肉祭は移動祝日でその年によって変わるのですが、あの時は2月だったと記憶しています。そろそろアメリカ人の友人も何人か出来てきた頃でした。

キャンパス内で声をかけられて知り合った大学生に、トム・カツコー君と言う20歳そこそこの若者がいました。ツーソンの大学に来る前は、フェニクスのアリゾナ大学で学んでいたのが、興味のある教授がツーソンの方にいたので、こちらに学籍を移した、と聞きました。アメリカの大学制度の羨ましいところは、こういう点ですね。

日本の大学受験を目指し合格した我がモイケル娘が3年目に入るという時になって、早稲田大学から北九州大学へ編入したときは、諸々あり、おおっぴらに反対はしなかったものの、母として焦ったのは事実です。なにしろ、日本では途中で他大学への編入はほとんどないらしい。モイケル娘のこの件についてはこちらで綴っています。

http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-401.html

モイケルよ、あのまま早稲田に残って卒業していたら、いいか悪いかは別にして、人生は変わっていたぞ。いえいえ、決してあのままが良かったという意味ではない。ちと、遠回りの道を歩んだということであります。

話をもどしまして、その友人トムに誘われて、フラッグ・スタッフと言う町に住む彼の友人のパーティーに一緒に行こうと言うことになったのです。フラッグスタッフは、ツーソン、フェニックスからグランドキャニオンへ向かうルートの中継地。標高2300mにあってアメリカでも一番高所にある町と言われる。

始めはロブも同行の予定だったのですが、急遽彼は予定を変更し、結局トムと二人で出かけることになりました。
ツーソンからは車で数時間かかり・・・なにしろトムの車もロブのに劣らぬほどのポンコツ車ではありましたから^^;トムの友人とフラッグスタッフの学生寮で合流し、その夜はカーニバルパーティーへと繰り出しました。なに、パーティーと言ってもあちこちから集まった知り合い、知り合いのまた知り合い、そのまた知り合いであれば、誰でも入れると言った具合で、会場は個人の持ち家。みんな床に座り込んで、軽い飲み物とスナックで後は自由に会話です。

パーティーのその後、知り合いになった皆さんがどうなるかは、わたしは存じませんで、はいw。
少なくともわたしとトムは、翌午前中にはツーソンに向かって発ちたいと思っていましたので、友達の友達宅に(つまりわたしからすれば会ったこともない人でしてw)泊めてもらったのでした。ここまでは、事件も起こらず無事に事は運んだのであります。グレイハウンドバスがなんでタイトルになっとるのかと、不思議に思うでござんしょう。

この翌日なんです、恐ろしいことにであったのは・・・  

アリゾナの空は青かった:「ケンタッキー・イン」

2018-05-22 08:25:26 | アリゾナ・ツーソン留学記´78
2018年5月22日

さすが紳士の国のイギリス人。
ギクシャクしていた仲とは言え、わたしが引っ越し先を探すとなると、内心はどう思ってか知りませんが、我が友ロブは少なくとも表面は何気ない顔で、あちこち一緒に行動してくれました。

まず、大学構内にある学生の情報交換場である掲示板で目星をつけた。ここへ行くと、いろんな情報が貼ってある。
「ルームメイト求む。月々○○ドル負担」
「当方女性。同性のルームメイト求む。個室あり。光熱費共同負担」
と言った具合です。

「ふむ。どれどれ、ここなんか値段もそんなに高くないし、大学からもこれまで住んだ927番地からも近い。それに女の子募集とあるぞ。よし、とりあえずここをあたってみよう。」

ということでロブと連れだって下見にでかけた一軒家。

呼び鈴を押すと、あ、あれ?出て来たのは若い男・・・
だって、女の子募集とあったぞ・・・おかしいなと思いながらもとりあえず、案内されたリビングに入った。

早速シェアハウスの話を聞いてみると、なぬ?寝室は一部屋しかない?あたしはどこで寝るのよ?
あんたはリビングのソファで寝て、わたしはその一部屋のベッドだって?冗談じゃないぜ。なんだそりゃ。危ないったらありゃしない。そんなんなら最初から掲示板に「当方、若い男だが女性求む」と書いてくれぃ!考えさせておくんなさい、とその場をそそくさと出た。

歩きながらロブいわく。
「Hey、Yuko、あそこ、止めといた方がいい。あの家に庭があったけど、ぜったい2、3人の女の死体が埋まってるぞ。」なんて、ニタニタしながら言うのである。それこそ止めてよね、ロブ^^;

そう言いながら歩いてぶつかったUniversity Boulevard。「Boulevard」はフランス語を語源とし、ブールヴァールと読むようだが、アメリカ英語では「ブールヴァード」だ。街路樹が側道が整えられて大通りを言う。 「空き部屋あり」と看板が出ている。「あそこを見てみよう」とロブと二人ドアと叩いてみたら、案内してくれたのは、そこの下宿人の一人、男子学生だった。

部屋は個室だ。よろしい。台所トイレは共同。うん。これもよろしい。しかし、シャワールームを見てびびった・・・西部劇の酒場の玄関の両開き扉、あるでしょ?客が出入りするたびに、前後にバタンバタンと開き閉めするちっちゃいの。あれなんですよ。あれがシャワールームのドアで、それが6つくらい並んでる。下手すると、いや、下手しなくたって見えるじゃん!男ならまだしも、いつ、誰がシャワーを浴びに入ってくるか分からない。そんな中じゃ、オチオチとシャワーも浴びていられまへん。け、けっこうでございますと、これもそそくさと退去した。

そうして入った同じ通りの数件向こう、2軒目の「空き室あり」の下宿屋。丁度いい具合に、おばさんが掃除をしていました。聞くと彼女がこの下宿屋の持ち主で、メキシコからの移民でこの一軒家を手に入れ、現在は下宿屋にしているとのこと。

ケンタッキーインの玄関

下宿人は12人おり、あと二部屋空き室がある。入っているのはみなアリゾナ大学の男子学生。個室にはベッドと机があり、バスルームも上階下階と2つずつ、4つある。もちろん、アメリカの一般家庭ならどこででも見かける普通のバスルームである。台所もかなり広い。自炊はもちろん自由だ。ちょっと高いと思うが、よっしゃ!ここに決めた。

玄関を入るとすぐに設けられている下宿生たちの郵便兼メッセージボックス


わたしが住んだ部屋。ギターは、音楽が何もないのはたまらないと、引越しするなりすぐ買い込んだものだ。


大通りに面したインのベランダで

こうして移った下宿屋は、その名も「ケンタッキー・イン」。わたしは、そこの13人目の下宿人で、たった一人の女子であった。

では、みなさま、次回に続きます。