人新世の「資本論」
斎藤幸平
集英社新書
先ごろこのブログで「ユー・アー・ヒア」という地理学エッセイをとりあげた。そのとき書いたのは、「地学」という地球規模の自然現象を対象とする学問の領域に、「地理学」つまり人間の社会活動による影響が現れているということだった。つまり理系の地学に、文系の地理学が侵食してきているのである。4,500,000,000年の地球の歴史的変容に、わずか20,000年の歴史の人類がはっきり爪痕を残すようになったのだ。もっと言うと産業革命以降のほんの250年くらいの人類の在り方が地球環境に大きな影響を与えているのである。
その後、それを「人新世」と呼ぶことを知った。一種のコンセプトである。Wikipediaには「人類が地球の地質や生態系に重大な影響を与える発端を起点として提案された、完新世(Holocene, ホロシーン)に続く想定上の地質時代」とある。
今の経済活動をそのまま続けていくと西暦2100年には、地球の平均気温は産業革命時代から4度以上あがるとされる。甘くみても2度以上は確実に行く。もう既に1.2度くらい平均気温はあがっているのだが、この時点で世界のあちこちで異常気象がおこっているのは周知の通り。日本も例外ではない。果たして2度上がると、まして4度上がるといったいどんなことになるのか?
2016年に締結されたパリ協定では、2100年の時点で気温の上昇を1.5度以下までに抑えることを目標にしている。
そのためには、2050年の時点で人間が社会活動によって吐き出す温室効果ガス(二酸化炭素やメタンなど)の量と、樹木や土壌が吸収する量を相殺できるようにしなければならない。その中間目安として、あと9年後の2030年の時点で温室効果ガスの排出量を現状の半分にしなければならないと計算されている。
これは相当な荒療治を世界規模でやらなければならないことを意味する。
ほんまにできるんやろか? と意味なく関西弁で言いたくなる。
そもそも、この温暖化の促進は人間の社会活動の促進の結果であり、それも地球規模に至ったのは、グローバル社会の必然だった。いみじくもグレタさんが言っていたように、これまでの経済学では地球温暖化はとまらないのである。
そのことを初期から唱えていたのが歴史学者ウォーラーステインである。本書でも引き合いとして出されている。
ウォーラーステインは、中核・半周辺・周辺という世界システムモデルで有名だが、その生産と収奪の関係は人的資本に限らないことを「入門 世界システム分析」で書いている。そこでは経済活動においては①「廃棄物」の処理コスト、②「一次原料」の再生コスト、③「インフラ」の整備コストが、外部経済化しやすいことを指摘している。
これはつまり、①二酸化炭素やメタンなどの「廃棄物」の処理コスト、②森林や農畜産物や有限燃料をもう一度育て直すコスト、③長距離間の移動や輸送の実施やメンテナンスにかかるコストを、誰がどう負担するのかが宙ぶらりんになりやすい、ということである。
まさに、この点が温室効果ガスの増加を助長させてきたと言えるだろう。
しかし、地球はひとつである。これら「外部化」されたものはいやおうなしに今のしかかってきている。
この「世界システム」を動かしているのは、まごうことなき「資本主義」である。商いは止まらない列車とと言ったのは西原理恵子だが、ウォーラーステインの師匠であるブローデルは、人間の経済活動の必然的進展として「物質社会」「経済社会」「資本主義社会」というのを置いている。
つまり、おのれを信じて経済活動を行うと必然的に資本主義社会に行き着く。よって地球温暖化にも行き着く。
というあたりで、本書「人新世の「資本論」」は、ここでマルクスを登場させてきている。
本書ではありうる未来社会像を4つの象限で表している。国家強権型⇔市民の相互扶助型の軸と、平等主義⇔自己責任主義の軸である。そこから①気候ファシズム②野蛮状態③気候毛沢東主義④脱成長コミュニズムという4つの未来像を示しているが、唯一の解答が④と主張する。その根拠がマルクスのコモン論である。
僕はマルクスにはまったく明るくないので、その妥当性や説得力はよくわからないのだけれど、資本主義というのが基本的には止まらない成長ホルモンみたいなものであり(生産性の罠)、これが世界システムをつくりあげた。しかし外部化されていたコストがいよいよ覆いかぶさってきて、世界全体を窒息させようとしている。つまり、資本主義と地球温暖化はかなり密接な関係にあるというこの見立てはまあそうなんだろうなあとは思う。
では、経済や社会の成長というのは、そもそもどの程度が妥当であったのか。
本書はかなり多分野から言説やデータを引用していてとても勉強になるが、それらの紹介で興味深かったのは、ケイト・ラワースの「ドーナツ経済の概念図」だ。人間が健全な社会活動を行うには、社会的な「土台」がいる。この土台とは「水」や「食糧」や「健康」や「教育」みたいなものだ。SDGsの17個の目標にも近い。しかし、この土台づくりも過剰になると環境への負荷を起こす。つまり、土台づくりに勤しむにあたっては、環境上の上限があるのだ。それをドーナツ状に模式図にしている。
この考えを応用すると、それぞれの国ごとに「達成された土台の数」と「行き過ぎた環境負荷の数」というのが出てくる。前者が足りないとその国はそもそも社会基盤がまだ満たされてないということになる。後者が増えすぎると土台が過剰ということになる。先進国のほとんどは、土台は満たされているが環境負荷が高く、アフリカやアジアの途上国は環境負荷は低いが土台が満たされていないという結果が出ている。そりゃあそうだろう。
ところが興味深いことに、土台の数はイタリアなみに満たされているが環境負荷はほとんど無いという国がただひとつ判明している。
ベトナムである。
つまり、どの国もベトナムくらいの民力と国力であるのがちょうどいい、ということになる。我々は2050年までに現在のベトナムのようにならなければならない。ちなみにベトナムは世界幸福度指数では世界第5位である(日本は58位)。
もちろん、この模式図や考え方はひとつの見立てであって完全無欠ではない。が、温室効果ガスを半減させ、気温上昇を1.5度以内に抑えるインパクトはそういうことなんだなと直感的にわかる。
当然のことながら、アナログな時代に戻っていくのが全てではない。再生エネルギーへの切り替え、二酸化炭素の分離や回収技術、環境負荷をかけない農業技術などテクノロジーの研究と開発は進んでいく。しかし本書はそういったテクノロジー開発そのものが環境負担をかけていたり(外部化しやすい)、テクノロジー開発に必須なレアメタルの採掘をめぐって「周辺」地域の人権を圧迫していると手厳しい。このあたりはSDGsのdevelopment議論と同じである。ディベロップメント議論をしているうちは、かつての帝国主義のシステムと変わりないのである。
どうにもこうにもという感じだが、実は2020年はコロナの影響で人間の経済活動が大幅に抑制された結果、温室効果ガスの排出量は7パーセント減ったのだそうだ。あれだけじっとしていてもまだ7パーセントかという気もするが、ここまで劇的に下がったのは現代史において初めてらしい。ということは今回のコロナにおける経済活動や社会活動の変革は、来たる低炭素社会にむけての予行練習であるとも言える。本書ではコロナ禍もまた人新世の産物であると告げている。「コロナ」ではなくて「コロナ禍」というのがポイントだろう。
ところで、僕個人としては「地球温暖化」という言葉がどうもいけない気がする。英語だとGlobal warmingで間違ってはいないのだが、どうにも生ぬるいイメージがある。こと日本語においては「温」も「暖」も心地よい漢字なのである。
「地球高熱化」とか「地球熱暴走化」とかにすれば、もうすこし危機感つよいイメージを共有できるのではないか。