読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと

2020年03月12日 | 民俗学・文化人類学

ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと

奥野克己
安芸書房


 いささか旧聞に属するが平積みされていたときは評判がよくてあちこち書評も出ていたように思う。
 ただそのときぼくは、タイトルがちょっと気にくわなくて(ドヤ顔感が鼻について)、スルーしたのだった。

 それがこんなコロナ騒ぎの最中に急に読みたくなって手を出したのである。

 こういう社会不信や不穏な中で読みたくなる本として、「理系の本」というのを先に挙げたことがあるが、同時にこのような「民俗学(文化人類学)の本」にも救いを求めたくなる。

 それは自分の世界が陥っている閉塞感や不条理が絶対なものではなく、あくまで一面のとらえ方でしかないというのを確認したいからかもしれない。こことは違う場所では、まったく違う価値観と違う様式の世界があって、そこで人は普通に生きているのである。本書のあとがきにあるようにまさに「人類学とは、別の生の可能性を、私たちの日常の前にもたらすことによって、私たちの当たり前を問い直してみることや、物事のそもそもの本質的なあり方に気づく」であった。


 それにしてもタイトルにある「ありがとうもごめんなさいもいらない」の意味するところはなかなか斬新である(近代自我社会に生きる我々にとっては)。これはマレーシアはボルネオ島に生きるブナンという部族の話である。
 要するにブナンにおいては、「個人や自我」という概念、人間と動物という世界観、進化論や生命倫理、政治と公共という、いわゆる近代思想があてはまらないのである。それは近代思想に抵抗しているのではなく、はじめから無いし、近代思想が介入する隙がない(マレーシア政府は子どもたちに学校に行くことを奨励するがブナンの子どもたちは学校に行かない)し、それでいっこうに不都合がないからだ。
 つまり、「ありがとう」も「ごめんなさい」も近代思想の産物なのである。所有の概念も、反省という心境もないのは、彼らが近代思想の外にいるからだ。そうだったのかー

 ここで「近代思想」の「前」にいる、と書いてはいけないのである。「前」とか「後」の前後関係で書くのは、「近代思想」に染まった人の見立てである。本当は近代思想の「外」というのもちょっと違うのだろう。「中」も「外」もない。そもそもそんなものは「無い」のである。

 この「無い」ことの思考の難しさといったら。いっぺん「ある」ことを知ってしまったものが、それを「ない」ことを与件として世界をどうみるかはそうとうの思考の訓練を必要とするだろう。本書では“「ある」べきものが「ない」事態”に際したときの思考について一章を割いているが、本書まるごとが、「近代思想」という我々に骨の髄までしみ込んでいる価値観様式が「ない」ブナンを描いているのである。この本で描こうとしているブナンの世界観に思いをよせることは、そうとう脳みそに汗をかく仕事である。


 いまのコロナ騒ぎ(コロナというより、その周辺で混乱していく社会の騒ぎ)のさなかに読んだこの本はまさに彼岸の世界であった。この騒ぎも多くは近代思想に根差しているような気がする。本書に通底しているのがニーチェというのがまた痛快である。ニーチェなら、いまのコロナ騒ぎに沸くこの社会をどうパースペクティブを変えて看破するのだろうか。



この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ホロヴィッツと巨匠たち | トップ | どこでもいいからどこかへ行... »