読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

一汁一菜でよいという提案

2023年02月03日 | エッセイ・随筆・コラム
一汁一菜でよいという提案
 
土井善晴
新潮文庫
 
 
 たいそう話題になっていた本だが、文庫になったので読んでみた。
 なんとなく、タイトルを見ただけで全ネタばれ、というかまさに出オチというか、そんな本であって、あとはひたすらそのことを肯定する文章が続く。
 しかし、この本で目ウロコした人、感涙した人が続出したというのだから、世のご家庭における食事係の人はいかにプレッシャーに押しつぶされる毎日を送ってきたのかと思う。「一汁三菜」という言葉の支配力はまことに大きい。
 
 ところで。ぼくは学生時代の一人暮らし、まさに「一汁一菜」だった。
 大学生になって親元を離れ、一人暮らしになるとまず問題なのが食事である。それまで料理らしい料理をしたことがなく、僕の世代はまだ中学校の家庭技術の授業は男女別で、リンゴの皮むきどころか包丁の握り方さえ怪しいものであった。
 というわけで当初は学食や近所の定食屋を頼っていたのだが、しかしやはりこれはとても出費がかさむのである。エンゲル係数が高くなる一方なので、一念発起して自炊することにした。炊飯器は実家から持ってきたものがあった。僕の住んでいたアパートはワンルームのユニットバス。冷蔵庫は、ビジネスホテルにあるような小さなやつ、台所は電気コンロがひとつと小さなシンク、かろうじてまな板がおけるくらいのひどく狭いスペースである。この台所環境でつくれるものなどたかが知れているだろうが、そもそもの問題ときてロクなものがつくれるほどの腕はない。

 というわけでとにかく具沢山のスープをつくる毎日になった。スーパーにいってお勤め品のキャベツやニンジン、もやし、じゃがいも、玉ねぎなどと、特売の鳥肉(水炊き用)や豚切り落としを買ってきては、包丁でざくざくと切っていった。ニンジンやダイコンは皮もむかなかった。水から煮て、キューブのコンソメ、顆粒の本だし、そして味噌などをベースにしてスープをつくった。栄養はばっちりだし、コストパフォーマンスにも優れるが、およそ料理とは言えないシロモノだ。刑務所の食事のほうがもっとマシなのかも。なにしろ予め炒めるとか下味つけるとかそういう過程は一切ない。これならいくらひどい僕の腕でも30分以内につくれてしまう。これにごはんを炊いて、納豆や卵を乗せたり、海苔つくだにと一緒に食べていたのだ。
 
 まさに20数年後に土井善晴氏が「一汁一菜」で述べたスタイルそのものではないか! 具沢山のお汁とごはんとちょっとした塩気のもの。本書を読んで、当時の光景をありありと思いだした僕の驚愕わかってもらえるだろうか。あのとき、僕はもっと自分の食事を誇ってよかったのだ!!
 
 僕の学生時代の「一汁一菜」は、とある日にホットプレートなるものを友人から譲り受けたことで突如終わりとなった。電気コンロでは炒め物をするに火力が不十分だったのだがホットプレートなら問題はない。ホットプレートなんて通常はご家庭でたまに鉄板焼きとかお好み焼きをするときに棚の上から引っ張り出されてくるようなものだろうが、僕の場合は部屋に常設であった(つまり出しっぱなしだったということ)。ホットプレートで野菜や肉など炒めつつ、コンロのほうでは味噌汁をつくる「一汁二菜」生活になったのである。文明度も文化度も向上したような気がしたものだ。
 
 
 ところで、料理の味を調えるのに、みりんや日本酒を使ったり、砂糖を使うようになるのを覚えたのは社会人になってからだ。めんつゆを使うハックも全く知らなかった。学生時代の僕の料理はしょうゆ、塩、みそ等、ひたすら辛い味付けばかりだったのである。それでまあまあ美味しいと思っていたのだから、僕の何でもおいしいと思うおめでたしい舌(こういうのを貧乏舌というらしい)は、このとき由来のものらしい。

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 鬼谷子 中国市場最強の策謀術 | トップ | これは、アレだな »