読書の記録

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対談集 妖怪大談義

2008年08月28日 | サブカルチャー・現代芸能
 対談集 妖怪大談義---京極夏彦

 「妖怪」の懐の深さを知る一冊。対談相手には、民俗学者、歴史学者、脳科学者、歴史小説家、宗教学者、文芸評論家、蒐集家・・・

 「境界」が面白い、というのは僕がわりと以前から持っている信念で、どっちの分類に入るのかわからないようなものに、面白いというものが多い。
 いつもそれで苦労するのが本探し。ネットや伝聞で面白そうと思った本を書店で探すとき、はたしてどのコーナーに行くべきか悩んだりする。たとえば、いしいひさいちの「現代思想の遭難者たち」。似非科学研究会の「魅惑の似非科学」。パオロ・マッツァリーノの「反社会学講座」(今は文庫化されている)。榎本俊二の「カリスマ育児」。松岡正剛の「17歳のための世界と日本の見方」などなど。

 で、「妖怪」というものも、実はこの「境界」を跳梁跋扈しているように思う。それぞれのアカデミーの中枢から最も離れた国境地帯を彼らはベドウィンのように生きている。歴史学からも民俗学からも宗教からも認知心理学からもマイナー扱いされ、にもかかわらず、この得体のしれないものを忘れたことはなかった。だから、みんなが自分のテリトリーから「妖怪」を語る。あいつらはこういう連中だと。しかし、その説明はみんな違う。みんな違うから、全部を集合させると「なんとも説明のつかないモノ・コト」に戻ってしまう。

 この「境界線」に現れるもの特有の奇抜さが妖怪そのもののようにも思う。歴史的にも民俗的にも大脳生理的にも宗教的にも文芸的にも少しずつ関りながら、しかしそのどれでもなく、分類しようとすればするほど、するりと逃げていく。分類という籠につかまった瞬間、「妖怪」はもう「妖怪」ではなくなっている。

 逆に言えば、所属あいまいでふわふわしているからこそ、妖怪の魅惑は健在ということだ。先に挙げた本も、書店でうろついて探すからこそますます魅力的なのであって、amazonで1本釣りしては、期待値も半減なのである(わらうところです)。

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