読書の記録

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災害と妖怪 柳田国男と歩く日本の天変地異

2012年09月12日 | 民俗学・文化人類学

災害と妖怪 柳田国男と歩く日本の天変地異

畑中章宏

 

柳田国男の「遠野物語」はその知名度やロマンに惹かれていざ読んでみると、案外にとりつくしまのない小話の羅列でびっくりする人が多い。たぶんそういう人は、井上ひさしの「新釈・遠野物語」のほうが期待に添える。

なんて書くのは僕がまさしくそうだったからで、いわゆる物語とか文学作品のつもりで「遠野物語」を手にとって意表を食らった。

だが、これを地域の記憶と伝承のデータベースという観点で読み進めば、俄然おもしろくなる。いったいこの地はなんなのか、という気持ちになる。

 

遠野物語に出てくる伝承は、その怪異譚に特徴があるわけだけれど、改めて考えると「妖怪」というのは、口碑を形成するにおいて大事な触媒である。「妖怪」というものを設置することによって、その口碑はがぜん、伝達と記憶が行われやすくなる。そうまでして、周囲や後世に知らせたいというのは、やはりそれがその地で生きていく上で極めて重要な情報があるからであり、すなわちそれは厄災に関するものが多くなる、というのは必然であろう。

つまり、妖怪が厄災を運んでくるのではなく、厄災が妖怪という形象を呼び起こすのである。

もちろん、厄災が妖怪の姿になるだけではなく、その厄災を未然に防ぐための情報も妖怪の姿をまとう。つまり妖怪というのは言の葉に乗るためのメディアといってもよい。

 

だが、これが機能するには大きな条件があって、それは話し手聞き手ともに、その妖怪の存在を原則として信じることにある。でなければ情報そのものの信用性が疑われてしまう。

これをもって、むかしの人はいまほど科学技術が発達してなかったからとか合理的精神を持たなかったから、というのは早計である。それどころかすべての因果関係は科学技術に回収され、すなわちすべての因果関係は自己責任(あるいは行政の責任にある)という現代の思考回路が、果たして日々の生活を幸せにしたかどうかとなると、これはもう答えは単純でない。妖怪の設定とは幸福に生きていくための知恵ということもできるのだ。

 

本書によれば、東日本大震災の被災者が、妖怪や幽霊の姿をみるという。それで精神医学界や宗教界が救済に乗り出している。

ここで、妖怪や幽霊などいない、ということを力説することが、その被災者にとって救いになるかというとならない。むしろ見えてしかるべし、として、そこに当人の精神の安定の兆しを見るといざなうほうが、よっぽど落ち着くように思う。

妖怪の設定というのは、私見を述べれば、自分自身の能力が実は限界があるということを自ら知り、力の及ばぬ範囲があることをあらかじめ知ることなのである。あらかじめ限界を知るから、行き届かぬ事態がおこったとき、そこは“あきらめ”が生まれる。また、こと足りぬことをあらかじめ知ることから、次善の策というものを考えることができる。いわば、妖怪とは、生きる上でのセーフティネットなのである。

だから、妖怪が消え、すべての責任を自分と隣人と行政で分担しなければならなくなった現代、厄災による被害がおこれば、どうしたって「誰かのせい」にしたくなる。あのときもう少し気をつけていればとくやみ、事前の対策がなかったからだとなじり、これは人災だと批判したくなる。気持ちの持って行きどころがむしろなくなってしまう。

 

内田樹の「呪いの時代」の中に“人は霊的なものをそこにみとめると、機嫌よく働ける”というくだりがあり、ひどく納得した。遠野のヒトビトは機嫌よい日常を送ることができたのだろうか。

 

 


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