緩和ケアでは、がん患者さんの痛みを「全人的苦痛」として捉えてケアしていきましょうといわれています。
体の痛み、心の痛み、社会的な痛み、霊的な痛み…。
どれもすべて、患者さんの思いに耳を傾けることからケアが始まります。
「疼痛マネジメント」では、まず、患者さんの訴えを信じることから始まり、痛みは目に見えないものなので、「どこが痛むのですか?」「どんな風に痛みますか?」「どの程度痛みますか?」などといったことを患者さんから教えてもらうことが大切です。
このところ、ふと思うのが、こうした緩和ケアの内容…、ケアの全般にわたることですが、それらはすべて、きちんとお話ができて、声が出せて、自分の思いを表現できる人に対するケアが基本的に語られています。
それは当然のことですね。
現場ではしばしば、病気の進行や手術の後遺症、体力の低下などから、自分の思いを表現する手段が限られている方に出会います。
気管切開をした上に、手も足も動かない人。
聴力、視力を同時に失った人。
筆談をしてきたけれど、体力がなくなって、書く力がなくなった人。
最近、立て続けにそんな患者さんと出会って、思ったことがあります。
その人たちは、「あきらめ」ということを身につけてしまっているのではないか、ということです。
普通に表現できる人のように、ああでもない、こうでもない、ああなんだ、こうなんだとお話ができればいいのですが、普通に話が出来る人でさえ、自分の思いの詳細を自分以外の人に伝えるのが難しいときがあります。
そんな「微妙な」思いを、言葉だけでなく、その人の普段の態度などをみて、私たちは必死に理解しようと試みます。
しかし、自分の思いを表現する手段が限られてくると、そんな微妙な思いがなかなか伝わらないだけでなく、そこにあるものを取ってもらいたい、ということすら、きちんと伝わらない時があります。
簡単なことすら、伝えてもらうことに時間がかかるようになってきます。
思うように伝わらないために、何度も訴えようとしたり、いらいらいしたりすることを多々経験されているのだと思います。
おおまかなところは伝えることができても、細かいところは妥協せざるを得ない状況も多々経験されているのではないかと思います。
終末期になってくると、自分の思いを表現する手段が限られることに加え、体力が低下してきます。苦痛が強くなり、死が近づいていることを感じはじめる頃なのに、「伝わらない」状況はさらに拍車がかかります。
ですから、自分の思いを表現する手段が限られている方が訴えないのは、訴えがないというのではなく、訴えられない、訴えるのをあきらめているのではないかと思えてくるのです。
だからといって、「自分の気持ち」などといった複雑な内容を、いつもしつこいくらいに尋ねるのはその人にとって心地いいものではないでしょうし、自ずと理解することにも限界もでてきます。
私が自分の思いを表現する手段が限られている方のケアをさせていただいて学んだことは、
・患者さんの状況やその日の体調をみて、ゆっくりと会話ができる時間がもてるように定期的に話しかけてみること。
・患者さんが『長い文章』『長いやりとり』で話してくれているときには、その機会を絶対に逃さないこと。
です。
それでも、十分ではありません。
患者さんはもどかしさを感じているとは思いますが、その思いを受け取ることすらできない自分にももどかしさを感じます。
その患者さんとのやりとりを重ねていくと、その人なりの表現方法や表現のパターンなど、そばでいるからこそなんとかわかることもあります。
ご家族から学ぶこともたくさんあります。
自分の思いを表現する手段が限られている方へのケアには、察知することが普段のケア以上に求められていると思います。