会社の夫

2006-03-14 12:24:23 | Notebook
   
ある晩おそく、お蕎麦屋さんでのこと。隣の席に30代前半くらいの女性と、まだ20歳そこそこの若い男の子が2人、いっしょに麦酒を飲んでいた。彼女たちの話が聞くともなくきこえてきた。気さくで愛嬌がある顔立ちの、小柄でよく働きそうな、落ち着いて話す女性。生まれたばかりのように色白の、若いわかい青年2人。彼らはアルバイト先の仲間のようだ。
「ごめんね、もうちょっと、つきあってよ。おごるからさ。なんでも食べてよ」
「いいです、いいです、おれたち暇だし」
「まだ家にいるみたいだけど、もうすこししてから顔出そうかな。まだ盛り上がってるころだとおもうんだよね」
「はあ、そうすか」
彼女の携帯が鳴った。すこし話をしてすぐ切った。
「まだ来ないの? って言われちゃった」
そう言って彼女は笑った。しかしまだまだ帰るつもりはなさそうだ。そしてこうつけくわえた。
「だんなが偉そうにしてるのを見るのって、いやなんだよね。わかる? そういうの」
「はあ」

どうやら彼女の夫が、会社の同僚や部下を数人呼んで、家で酒を飲んでいるらしい。彼女の声のようすからみて険悪な雰囲気はないから、仲が良さそうだ。やさしい夫なんだろうな。彼女が言うほど威張り散らしているわけでもないだろう。
わたしはぼんやり想像していた。
夫はたぶん、張り切っているのだろうな。部下を家に連れてきて、おくさんに会わせたいと思っているくらいだから、仕事もうまくいっているのだろう。自分がどんなふうに働いているか、どんな部下がいるか見てほしいのかもしれない。職場での自分を、すこしは知ってほしいのかもしれない。

ああ、以前にも同じようなものを見たことがある。そう思ったが、うまく思い出せなかった。張り切って会社の人間関係を披露した夫と、それを見て関心すら示さない妻。
なんで興味を示さないのかが、気のいい夫には分からない。なぜ妻が不快そうな顔をするのか腑に落ちない。
そんな光景を以前にも見たことがあるなあ。そう思った。わたしも腑に落ちなかった。その男とおくさんは、うまくいってないのかしら。たしかそんなことを考えたものだ。見当はずれだった。当時のわたしにも分かっていなかったのだ。夫の会社でのふるまいを見て、妻はショックを受けていたのだということを。

もしわたしが、もうすこしまともな人生をおくっていたとしたら、いまごろは部下の一人や二人くらいいたかもしれない。そうしたらたぶん、気づかなかっただろう。たったひとつの乱暴な言葉で部下を右から左へと動かし、どうでもいいような用事をさせても何とも思わなかっただろう。果物の皮くらい自分でむいてやって、せっかく来てくれた部下をもてなせばいいものを、逆に部下に全部やらせてふんぞりかえるような男になっていたかもしれない。相手のデリケートなところに土足で上がり込むような話し方をしていたかもしれない。ほとんど初対面の青年の社員にむかってまで、えらそうな態度をとっていたかもしれない。
もちろん、そういう関係にはそういう関係の気づかいもあって、ちゃんと示すべき男気とか、責任感とか、いろいろなものがある。でも、それにしたって、そんなに偉そうにしなくてもいいじゃない? はい、そのとおりです、奥さん(笑)。

しかし、そういう夫の姿をみて、頼もしいとか、男はこうでなくちゃ、などと思うような女よりはずっとまともで、いい奥さんだな。わたしはそう思った。酔いがまわったのか、白かった彼女の顔が急に赤くなった。しあわせそうに微笑んでいた。