ただ風が止んだだけ

2009-11-27 05:17:15 | Notebook
     
街でいちばんの繁華街。その一角で、夢にあふれて開業した肉屋さん、八百屋さん、美容室。みんな二十代だった。開店当初はずいぶん繁盛していたらしい。

しかし時代は変わり、近所にスーパーが出来て、もっと駅に近いところには新しい商店街が出来て、お客さんが減ってしまった。たちまち商売が立ち行かなくなった。

店は古びて、一角はだんだん寂れていく。一軒、一軒と店じまい。余所へ動こうにも、身動きがとれない。肉屋さんはすでに店を閉めている。八百屋さんと美容室は、いまも営業を続けている。

店の家賃は5万円。八百屋さんは店舗が広いから、すこし高くて7万7千円。それぞれの家族が、そこで身を寄せ合うようにして生活している。さいわい大家さんはこれまで、店舗を建て替えようとはしなかった。しかしほんとうのところは、ビルでも建てて儲けたいというのが本音かもしれない。

その月々5万円からの家賃を、毎月毎月集金に行っているのが、わたしの父親。7千円の手数料目当てに、ずっと管理を引き受けているらしい。いまは彼が入院しているため、わたしが代わりに集金に行っている。振り込みで済むものを、毎月わざわざ集金に行って、その手数料をもらっているわけだ。

「あなたのお父さんとは、もう50年の付き合いなんだよ」

肉屋のおやじさんが、そんなふうに言う。心のなかに、すっきりと背筋がとおっている印象。けれども、すこし気むずかしそうだ。根性が太い顔つきなのに影がうすく、漂白されたみたいに白い。とっさに泣き顔が目に浮かんだ。
おかみさんにも会ったことがある。第一印象は岩のように閉じていて、話しかけるのが難しい。でも話し始めると、目がずいぶん優しい。しかし二人とも、なにか隠れ家に隠れるようにして暮らしている。電話をしても、出ない。だからこちらも、特別のメッセージを届ける使者みたいにして重々しく訪問する。

八百屋のおやじさんは、ずいぶん体力がありそうで、年齢よりずっと若い。老人のはずなのに顔はつやつやしていて、わたしより若いと思う。子供みたいに無邪気で、話が好きだ。だから集金に行くと、つい話し込んでしまう。とはいえ、ほとんど相づちを打っているだけなのだが(わたしは生来、かなり聞き上手なほうだと思う)。
八百屋をやっているひとは、子供みたいに無邪気なひとが多いものだなあと思う。このおやじさんは、それにつけて明朗で、ねじれたところがないから、いい八百屋さんだと思う。こちらも、たまたま立ち寄ったみたいに、軽々しい感じで訪問する。

美容室の女性は、ふつうに息子が来たことを喜んでくれている感じがする。ひょっとしたら、若い男性(わたしのことね)が訪ねてくるのをおもしろがっているのかもしれない。
店に飾られている絵がすごく良いので、それを褒める(八百屋や肉屋では考えられないような会話だ)。しかし、お店のひと自身がこの絵のことをあまり意識していなかったみたいで拍子抜けする。雲をつかむような会話。むしろ「このごろ○○が美味しくなってきましたね」とか、そういう庶民的でかわいらしい会話のほうが良かったかもしれないと、あとで気づく。



「夢を追う・夢をあきらめる」
「勝ち組・負け組」

という言葉が、嘘っぽく思えるようになったのは、いつからのことだろう。

この3つの店舗のひとびとは、勝ち組でもないし負け組でもない。夢を実現したとか、夢に破れたとか、そういうこともできない。なぜなら、その有りようがそのまま、生きることだからだ。

生きることを、変えようがないのは言うまでもない。肉屋さんが、肉屋をやるのは、それが生きることだからだ。やむをえず肉屋を店じまいしたのは、続けられなくなったというだけのことで、夢をあきらめたわけでもないし、負けたわけでもない。それは夢ですらないし、勝ち負けでもない。生き方の風向きが変わり、自然に止まったのだ。

生き方が、風がやむように止まるということが、この世にはあって、それは勝ち組とされるひとの身の上にも普通に起こることだ。ひとはそれに直面して途方に暮れるけれども、それを表現する方法を知らないから、言葉にできない。孤独になるばかりなんだろうと思う。

ただ風が止んだだけ。またいつか吹くかもしれない。笑って酒でも飲んでおれ。それを悟るまでに、どれほどの年月と、涙が、必要なのだろう。