先生と呼ばれるほどの……

2009-06-23 22:36:46 | Notebook
     
医者や弁護士、教師といった職業は、タテマエのうえでは尊敬されてはいるが、胸のなかでは軽蔑されている。だから世間には「先生と呼ばれるほどの……」という言葉がある。
もちろんこれは一般にそうだというだけのことで、わたしたちは、たとえば相手が医者だというだけで軽蔑なんかしない。ちゃんと個人をみている。そうして、この先生は医者のわりには普通だなどと感心したりする。

弁護士や教師はそれほどでもないが、ときにお医者さんの特権意識を目の当たりにすると、その救いようのなさに暗然として、これは死んでも治らないのではないかと絶望することがある。なにも他人のために絶望までする必要もないのだが、それくらい酷いのが、めずらしくないのだから、ほんとうに酷いものだと思う。

ある総合病院の待合室にすわっていたら、診察を待つ患者さんが大勢いるところに、目の前の診察室から先生がたが出てきて、のんびり談笑しながらどこかへ歩いていく。そんな光景を見たことがあった。かわいそうに小さな子供が青ざめて長椅子に横になっているのに目もくれない。楽しそうな顔をして、どこへ行くのかと思ったら昼食を食べに出かけて行ったのだった。先生方がのんびりお食事をなさっておられるあいだは、患者さんは放っておかれているのだが、みな辛抱づよく待っていた。
よっぽど胸ぐらをつかんで叱り飛ばしてやりたいと思ったが、わたしはそんなことができるタイプじゃないし、それに、そんなことをしてみたところで、きっと何も通じないだろう。なにしろプライドが高すぎて、エゴが強すぎて、どうにもならないひとたちなのだ。
こういう光景が、めずらしくないのだから、わたしたちはどうしても医者という人種を軽蔑してしまう。しかしくちに出しては言わない。めんどうだからだ。

わたしの知人が、自己破産をして借金をまぬかれたことがある。おかげで彼は立ち直り、なんとか人間らしさを取り戻し、生活を立て直すことができた。だから自己破産の申し立てをしてくれた弁護士は恩人ということになる。
しかし自己破産といえばもっともらしく聞こえはするが、ようするにヘリクツを並べ立てて借金を踏み倒しただけのことであり、けっして褒められたものではない。口先のヘリクツで借金を踏み倒したり、支払い義務を背負わせたり免除させたり、利益を上げたり損をさせたりするのが弁護士だとしたら、これほど最低の人間はいないと誰もが思っている。しかし誰もくちに出しては言わない。これまた医者の場合とおなじように、いつか自分がお世話になるかもしれないのだから、あまり悪口を言いたくないのである。

ちなみにわたし自身は、じつは医者も弁護士も教師も、まったくバカにしてはいない。というより、どちらかというと好きなひとたちである。なぜかというと、第一に、どれほど彼らがバカだとしても、わたしほどバカではない。第二に、彼らの多くは、あまり世間ずれしていなくて、子供っぽい純粋さを失っていない魅力的なひとが多いからだ。

誰彼かまわず正しいことを言えば通じると信じている教師は可愛いものだし、高い知力ばかりを与えられた子供みたいなお医者さんの極端な言動はじつに見ていておもしろい。また弁護士の単純すぎる世界観はときどき冗談かと思うくらいだが、これまた興味ぶかいところがある。なかなか愛すべきひとたちなのだ。なにかを純粋に追求するためには、じつに都合のいい心と頭を持っている。周りが特別扱いして世間から隔離してしまうからいけないのだ。

きっと彼らに足りないのは自己反省なんだろう。いっそ鬱病にでもなって、くよくよと自分を省みる生活をしておれば、すぐれた能力が良い方向へはたらいて、じつに味わいぶかく立派な人間になるだろうと思う。いい気になって偉そうにしているから軽蔑されるし救いようがないのだ。

先生と呼ばれるひとたちは、自分たちが、いかにバカにされているかを、よく見てみるといいと思う。どんなふうに、どういうふうに軽蔑されているかを、一生かけてよく見ることができれば、きっとそのバカが治る日が来るだろうと思う。信頼できる友人に繰り返し訊ねてみるのもいいかもしれない。身分を隠して二、三年ほど労働者のなかに身をおいてみるのもいいだろう。むかし三島由紀夫さんがしたように、身分を隠して大衆酒場で貧乏人に交わって、ひどい扱いを受けてみるのもいいかもしれない。

これはべつにイヤミのつもりではなく、見かねて言っているだけのことだ。わたしには尊敬するお医者さんもいるし、尊敬する教師もいる。なかには素晴らしいひとがいることも知っている。それに彼らは、なかなかチャーミングで面白いひとたちなのだから、なにも一生軽蔑されて終わることもないだろう、もったいないではないか、と思うのだ。

「ヒマワリを探してるの」

2009-06-13 03:27:17 | Notebook
     
このあいだ大阪で虐待死した幼女が、亡くなる直前に、うわごとを言っていたらしい。
その内容が、
「ヒマワリを探してるの」
というようなものだった。そうして間もなく、ベランダに放置されたまま息を引き取ってしまった。
報道でこれを知って絶句し、おもわず涙が出た。

夢や意識のシンボルについて、ヒマワリのもつ重要な「意味」について、ここではながながと書かない。わたしは彼女のことを知らないし、一回かぎりの独自の生について、教科書どおりの概念から光りを当ててみたところで、どうせ間違いだらけの話しかできないだろう。だからここでは、この言葉から誰もが普通に感じ得ることだけを書こうと思う。

彼女はその瞬間、ヒマワリを喪失していたらしい。
すぐそばにお母さんがいるのに? お母さんのところには、ヒマワリはなかったのだろうか。
彼女は闇のなかで手探りにするように、探していたのかもしれない。
子供の心のなかに、いつも宿っているはずのヒマワリを。
最後の最後に、言葉によってお母さんに告げなくてはいけなかったということに、深い悲しみをおぼえる。
とても子供らしくて、とても悲しい遺言。