転生

2009-02-10 23:10:29 | Notebook
     
先日、あるひとが輪廻転生について話していた。自分の前世は何だろう? そもそも前世などというものが、あるんだろうか?

そして、そのひとはわたしにこう訊ねた。あなたは転生を信じているの?
わたしは答えた。もちろん。
でも、あなたの言う意味とは、すこし違うかんがえをもっている。



いまから半年ほど前のこと、わたしはマーティン・ルーサー・キングの著作を読んでいて、とても懐かしい感情をおぼえた。彼の本を読むのははじめてのことだが、すでに彼の思想には出会っている。それも、ずいぶん昔に。そんな気がしたのだ。

キング氏の思想そのものは、わたしには素朴すぎて納得のいかないところがあった。しかし読み進めるうちに、彼の精神が、とても多くのひとに影響を与えたのだということが分かってきた。そして、その影響をわたしも受けている。そのことに気づいたのだった。

なにを通じて、わたしはキング氏の影響を受けたのだろうか?
たとえば、あの時代の空気や雰囲気のようなもの。それはとくに新聞や書籍、テレビの映像などを通じて、わたしのところへやって来ていたのかもしれない。
あるいは、子どものころに読んだ手塚治虫さんの作品のなかに宿っている、なにか人間性のようなもの。それは子ども向けの、安手のヒューマニズムのようなものであったのかもしれない。しかしその背景の時代意識のようなもののなかに、キング氏の精神が入り込んでいたのかもしれない。
または、あの時代のアメリカの大衆音楽。ボブ・ディランの声が受け継ごうとしていた、あのクニのひとびとの、幽霊たちの声のようなもの。



バッハの音楽を、現代のプレイヤーが演奏する。そのときに彼はバッハの精神に出逢うのかもしれない。彼は彼なりの感覚でバッハを感じ、それを彼なりの解釈でよみがえらせる。それはバッハそのものではないし、たいへんな間違いを犯している場合だってあるだろう。しかしバッハの精神の、何かがよみがえった瞬間でもある。それがまた、聴いているひとびとの胸のなかにもよみがえる。



わたしたちのなかには、つねに無数の死者たちが目を覚ましている。転生とは、生きた体験であり、すぐそこにある。ちいさなわたしたちの生のなかで、いつも起きていることなのだ。

しかし、いにしえのひとびとは、それを深遠な神秘の言葉で語った。なぜなら彼らにとって「精神」とは「霊魂」や「神」にほかならなかったためだ。
だから仏教では、仏典のなかに仏が宿るという。そして仏典に目をさらす者のなかにも仏が顕れるという。それは妙法なんかではなく神秘でもなく、彼らの生きた実感であり、生まの体験だったのだ。



ダライラマは、命が転生したのではない。彼は精神の転生を受けたのだ。幾世代にわたる、ダライラマと呼ばれるひとびとの精神と、それを支えてきた精神たちの流れが、つぎのひとをダライラマにする。だから尊いのだ。だからこそ、その役目を負ったひとは尊敬にあたいするのである。たんに命あるいは肉体が転生するのだとしたら、つまらない話ではないか。

ひとびとは、「生まれ変わり」というアイデアを通じて、ダライラマに神秘を投影する。しかしその神秘のなかには、ほんとうの尊さはない。宗教のほんとうの尊さは、精神が引き継がれたときの輝きにある。神秘を拝んでいるかぎり、そのひとの前にダライラマはいない。



転生は、わたしたちの一回かぎりの生のなかで、現実に起きていることだ。書物や、芸術や、音楽や、思想にふれて、わたしたちは転生を体験する。そして、その精神が強靱で、まっすぐな矢のように普遍であるならば、そこには仏典の説くような、圧倒的な転生が起きるのだろう。仏典があのような神秘の言葉で強調しようとしているのは、神秘そのものではなく、妙法なんかではなく、転生の質なのである。それはわたしたち現代人の言葉で言えば、精神の、つまり思想の質そのものを問いただしている。