この運命こそが、わたし自身であるということ

2012-08-30 00:31:45 | Notebook

まだ18歳のころ、当時30歳ほどの女性と出会った。きっかけは京王八王子駅の窓口で、定期券を買おうとしたのに所持金が足らず、すぐ後ろに並んでいたその女性が声をかけてくれて、用立ててくれたのだった。

そのひとは、いまでいうシングルマザーで、幼稚園に通う女の子が一人いた。住んでいるのは池袋だが、週に何度か、はるばる八王子までやってきて、リトミック教師の資格をとるために教室に通っていたのだ。

わたしは後日、池袋までお金を返しに行き、なにかの絵画展にお誘いした。それから映画に誘ったり、食事に誘ったり、いろいろな話もした。彼女に惹かれていたことはもちろんだが、それ以上に、それまで出会ったことのない人物に興味を抱いていた。それに、当時のわたしには友人は一人もいなかった。いっしょに池袋の西武百貨店のなかを歩いているとき、「ベートーベンのソナタってねえ、すごくきれいなのよ」と彼女は言った。

わたしは当時は酷いノイローゼで、うつ病をわずらっていたと思う。浪人していたが、ノートを開くこともできず、勉強はしていなかった。予備校に通うための定期券も、ほとんど使わなかった。友人に会うこともなく、いつも一人だった。

一人でいるのは苦にならなかったが、いまにして思えば、ひとに会うことが負担に感じるほど気分が沈んでいたのだろうと思う。しかしまったく自覚がなかった。わたしはただ途方に暮れていて、自分のことがなにひとつ分かっていなかった。

わたしは当時から、社交的とはいえないものの、おだやかな会話の才能があり、さりげないユーモアで相手を笑わせることもできた。だからなおさら、自分がノイローゼだということさえ、よく分からなかったのだろう。
その女性が当時、どれほど孤独で、そして懸命に生きていたのかさえも、よく見えていなかった。

あるとき、その女性が一冊の本を貸してくれた。それはある十代の青年が、自らの性欲について、赤裸々に綴ったものだった。
すこししか読まなかったが、わたしにはその本が、なにか汚らわしいものに思えた。脆弱で不安定な自我しか持たなかったわたしを、不愉快にさせたのだ。見ず知らずの青年の、自慰の告白など読みたくもなかった。

そして、もともとノイローゼで不安定だったわたしは、すっかりバランスが崩れてしまった。いまだによく理由が分からないのだが、それが相手に対する怒りに代わった。それほど病んでいたということなのだろう。その怒りの裏には、わたしが彼女に対して密かに抱いていた性的な思いもあったのかもしれない。しかし当時はまったく気づいていなかった。

また別の側面からみるならば、性の問題は、それほどに当時の若いわたしの急所をついていたのだろうと思う。そうかんがえると、その女性がどんな気持ちでその本を貸してくれたのか、わたしをどんな目で見守っていてくれたのか、さまざまな場合が考えられて、いまでは身の縮む思いさえする。

しかし当時のわたしには、その本だけではなく、その女性までもが汚らわしく感じられるようになり、内容はよく覚えていないが、その女性に対して、とても酷い内容の手紙を書いてしまった。

たしか、その後本を返すために一度だけ会ったような気がする。そのときだったか、いつだったか、覚えていないが、彼女はわたしの手紙に対してすこしも怒っておらず、ただひとこと、目をふせたままこう言ったのを覚えている。
「せっかく、お友達になれると思ったのに」



あのとき、わたしに何が起きたのか、不思議でしょうがなかった。まったく理由が分からないのだ。わたしは何を怒ったのか、何が気に入らなかったのか。ずっと分からなかった。

それから8年ほどしたころ、その女性に電話してみた。なぜか急に会いたくなったのだ。電話には、彼女の老齢のおかあさんが出た。一度もお会いしたことがない。それなのに名前を告げると、すぐに「ああ、覚えていますよ」と、やさしい静かな声で言われたので驚いた。

そうしてわたしたちは、8年ぶりに会って食事をした。おたがいに8年のあいだに起きたことを、いろいろ話した。その女性が意外なほど再会を楽しんでくれているようで、ほっとした。

写真をたくさん見せてもらった。わざわざ持ってきてくれたのだ。写真のなかで、あの幼稚園の女の子はすっかり成長していた。そして、その女性はいまでは立派なリトミックの先生になっていて、いくつか教室をもっているようだった。
一度だけしたことのある海外旅行のことや、結婚しようと迷ったことのある男性の話までしてくれた。そして海外旅行のときのお土産だといって、一冊のアドレスブックをもらった。

わたしなんかに、そんなものをくれる、その女性が、いじらしく、また寂しく、わたしの胸を打った。

それでは、また会いましょう。そう言って、わたしたちは別れた。しかし、もう会うことはなかった。

あのアドレスブックを、わたしは大切に使っていた。しかし何年かしたのちに、どうしたわけか、無くしてしまった。とりかえしのつかないことをしてしまったような気がして、しばらくのあいだ乗り越えられなかった。



あの18歳のころの、怒り。
まったく理不尽で、理由の分からない怒り。
偏狭で、神経が細くて、脆弱な怒り。
それがずっと長い間、こころのなかに引っかかっていた。

その後、何人かの女性との別れがあり、いくつかの破局があった。
しっかりと地に足がついているような女性との付き合いには疲れ果て、自我の弱い、病んでいるような女性には安心し、しかしそのどちらも最後には破局をむかえた。

父親のいない女性との交際に安心するようなところもあった。逆に、父親によって酷く傷つけられているような女性とも縁ができた。どれも問題をはらんでおり、別れることとなった。

わたしは冷淡になることもあり、怒りにふるえ、相手を罵倒し、そのまま別れたこともあった。まったく致命的なことに、わたしの怒りはいつも、いちいち理にかなっていた。だから救いようがなかった。
そうして、気持ちがおさまると、よく、あの18歳のころのことを思いだした。あのときの自分と、いまの自分は、なにかが同じだ。なにが同じなのだろうと、いつも考えていた。

仕事上にも問題があった。誰もとくに問題にはしなかったが、わたしはずっと神経症的だった。わたしは厳しすぎ、潔癖すぎるくせに、神経の細い、脆弱な社会人だった。仕事が忙しくなるほどに、半日は寝込むような日々が続いた。



それらのすべてが、あの、18歳のころの、あの青年にこそ相応しい人生なのだということに、気づいたのは、ずいぶん後のことだ。50歳のいまになって、やっと分かったのだと言っていい。

50歳のいまごろになって、あの30歳の女性が、18歳のわたしを、どんな目で見てくれていたのか、やっと分かったのだ。

そして同時に、わたしのこの数十年の運命は、まさにあの18歳の彼に相応しい、それ以外には有り得ない運命なのだということを、さとった。
「この運命こそが、これこそが、わたし自身なのだ」
わたしはこれを、しぶしぶ認めなくてはならない。



人生は、その運命は、そのまま、まるごと、そのひと自身なのだ。
わたしたちは、これを覚らなくてはならない。
不運も、幸運も、なにもかも。

わたしはその運命を生きた。そして、それはいまでも続いている。