どこぞのクニの偉い先生が最近、女性のことを「子どもを産む機械」であるかのような発言をしたのだそうだ。
なにが仰りたかったのかというと、ようするに少子化問題にあたって、子どもを産むことのできる年齢にある女性の絶対数はかぎられているので、一人ひとりの女性にぜひ頑張ってほしいと、激励をするような内容だったらしい。その「数がかぎられている」という現実を強調したくて、つい「機械」というたとえを使ってしまったみたいですね。機械の数はかぎられているので生産に励んでくれと。
先生ご本人も、表現が不適切なことを承知しておられて、「ごめんなさいね」と断わりながら、そういう発言をされたのだそうだ。とりあえず悪意や差別意識はなかったようです。
なんか、どこかで聞いたような話ですね。
そうそう。
お姑さんが、お嫁さんに「子宝」を催促する話にそっくり(笑)。
「シン子さん、隣りのお家では可愛いお孫さんが産まれたみたいねえ」
「はあ」
「うちはもう結婚して10年にもなるのに、まだ産まれないのかしらねえ」
「はあ」
「シン吉のことが嫌いなわけじゃないんでしょ?」
「はあ」
……そんなかんじ。
こういう感覚に問題がないというわけではない。ある意味、
「シン子さんの体型なら、三つ子だろうが六つ子だろうがポンポン産んでくれそうなんだけどねえ、それに、栄養だって有り余ってるでしょ、見るからに」
などという、品のないセクハラ発言と同根の意識がありそう、ではある。ここから「出産マシーン」の着想までは、あと一歩だ。
しかし、そういう問題はともかく、この場合かんがえるべきは、やはり「表現のまずさ」なんでしょうね。
言いたいことを、そつなく相手に伝えるということ。その能力の問題なんでしょう。
この先生ご本人も、その能力に問題があったと自覚しておられたから、くりかえし「機械と言ってごめんなさいね」と断わりながら発言していたのだろう。ほかの表現がたまたま思い浮かばなかったから、こうなってしまったのでしょうね。
ところで。
サッカー日本代表チーム監督の、イヴィチャ・オシムさんの言動が話題になったことがあった。
彼の言葉は深いとか、人間にたいする洞察がすぐれているなどと言われている。わたしもそう思うけれど、すこし違った感想をもっている。
オシムさんの深さというのは、とくべつ深い思想があるというものでもない。とくべつの世界観が構築されているというほどでもない。教養から来るものでもない。そういう意味では、特別すごいことを言っているわけでもない。わりと、当たり前のことを言っておられる。しかし、素晴らしい。わたしは感動した。
何に感動したのか?
彼が自分と他人と世の中を、きちっと客観化して、きちんと批判精神でみつめ、自分の頭でかんがえて、それをちゃんと言語化して伝えていることに、感動したのだ。彼の精神の深さは、この言語化のいとなみから来ていると思う。
その「いとなみ」の深さに、感動したのだ。
先にあげた先生の場合も、女性にむかって舅や姑みたいなエールを送ってみたところで、なんにもならないのだということに気づく程度には、ちゃんとものを考えていれば、もうすこし気のきいた講演ができたのではないかと思う。激励されちゃった女性のほうだって、困りますよねえ(笑)。この先生は、そのことに気づく程度の批判精神も客観化もできていなかったのだということになってしまう。
そして、それをさらに言語化する努力をしてきておれば、なにも機械などという表現を持ってくるような失敗をしなくてもよかったのかもしれない。
こうした「考えのいたらなさ」「表現のつたなさ」という問題は、わたしを含めて誰にでもあることだ。わたしたちは案外、この先生や、子宝催促姑と五十歩百歩だったりする。案外なにも考えないで、ぼやーっと生きていたりする。わたしがこの先生の立場だったら、もっとヘンなことをうっかり言ってしまって、大問題になっていたかもしれない。そうして、トーキョーのなかでもとくに面倒な酔っぱらいが集まるというアサガヤ近辺の居酒屋で、おもいっきり笑い者にされていたかもしれない。コワイですねえ。
かんがえること、はなすこと。批判精神と客観化、そして言語化。これは、すごく重要なことなんだろう。きっと、生きることの質にかかわる大問題なのだろうと思っている。たぶんそれは、教養とか勉強よりもっと重要なことだという気がする。それ以前の、なにか。オシムさんの顔をテレビで観るたびに、そんなことをかんがえている。
※追記
その後、やはりこの発言は大問題になっていました。
テレビのニュースを観ていたら、レポーターがこの先生のことを、
「女性は子どもを産む機械だと『発言した』のですが、どう思いますか?」
と道行くひとにインタビューしていたので、びっくり。だって、機械であるかのような『発言になってしまった失言』と、機械であると『発言している』では、えらい違いです。
感情に訴える報道のほうがニュースになるし、受けがいいのは分かるけど、いつもいつも、やりすぎではないかと思いました。子どもが殺された悲しい事件が起きると、その子の生前のVTRをこれでもかというふうに流す。ある街で不動産屋さんが許可を得て建てた高層マンションと、周辺住民の反対の声との確執を、さぞ「悪徳不動産対善良な市民」みたいなウソのイメージで報道する(わるいのは建築許可を与えた市のほうなのに)。どれもこれも、一般受けするほうの味方について、一般感情を刺激するための報道ばかり。NHKまでそう。どうなってるんでしょうね?