狂うほどの正気すらない[1]

2006-04-07 17:51:45 | Notebook
      
まだわたしが20代のころ、あるカウンセラーから聞いた話だ。たとえば親から子どもの相談を受けたときなどは、彼は問題にされているその子どもよりも、家族や周りのひとを詳しく調べるという。引きこもり、うつ病などの問題をかかえて苦しんでいる当の本人よりも、もっと重症の人間がそばにいることが多いというのが彼の見解だった。
「身近にいる誰かべつのひとの代わりに精神を病んでいる場合が、けっこうあるんですよ」と彼はいっていた。だから、本人だけを調べても分からないことが多い。本人よりももっと重症で治療が必要なひとがそばにいることがある。「でも、そういうひとは重症すぎて病気にもならないから、治療できませんけどね」。そういって笑った。

重症すぎて病気にならない?
おもしろい話だ、とそのときは思った。しかし、それから長い年月のあいだ、いろいろなひとに出逢ってきて、この件についていろいろ思うところがあった。

わたしの友人に、くりかえし統合失調症の発作を起こし、精神科への入退院を繰り返している若者がいるが、その若者を見ていると痛々しい気持ちになる。なぜ痛々しいかというと、その若者はわたしの見るかぎり、ほとんど「正気」だからだ。発作さえ起きなければまったく正常そのもので、いささか人格が不安定ではあるけれども、それ以外には問題もなく、まったく普通で、信頼できる人物なのである。むしろ、はっきり言って、わたしなんかよりずっと社会性がある(笑)。その若者が救急車で運ばれるとき、もしもその場に居合わせたら、わたしのほうが間違えられて入院させられそうな感じである(笑)。それくらい普通なのに、時々ようすがおかしくなるから、周りのひとも、やむを得ず入院させる。周囲も辛いが、本人がいちばんショックを受ける。ショックを受けるのは、本人のなかの「正気」の部分である。まったくの廃人だったら、苦痛もないだろう。どうだろうか?

トーキョーのミタカと呼ばれる駅から南へくだったところにある病院へ、その若者を見舞いに行ったことがある。初夏のころだった。天気のいい日で、ちょうどお昼時で、許可を得た患者さんたちがざっと40~50人ほど、病院を出て散歩に出るところだった。
それは異様な光景だった。大勢の患者さんが歩いているのに、煙のように静かなのである。くろぐろとした闇のような静寂が、人間の姿をして夢見がちに前を見やり、光のなかに現われては、ゆっくりと泳ぐように歩いている。あのようすをいちばんうまく言い表すならば「魂のぬけがら」という言葉がぴったりだ。幽霊みたいだが、現実に目の前を歩いている。わたしの体にぶつかることもなく、ふわふわ、ふわふわ歩いている。目がだんだん慣れてくると、ようやく、体温と重量をもつ生き物に見えてくる。しかし違和感がつよく、こんな言い方はもうしわけないが人間に見えなかった。まだ十分に見慣れていないせいかもしれない。

その若者には面会できなかった。病院を抜け出そうとして何度も大暴れをしたらしく、個室に入れられて家族にも会えない、面会謝絶の状態になっていた。受付の女性がいうには、いつになったら面会できるのか分からないという。それも一週間や二週間ではなく、数か月後なら会えるかもしれないと言われた。かなり問題のある患者として見られているようだった。せめて持ってきた見舞い用のお菓子を預けようとしたが、お菓子を渡すのは禁じられているということだった。わたしは家族でもないので、もうそれ以上できることはなかった。
駅まではずいぶん距離がある。わたしは持ってきたお菓子のパッケージを開けて、それを食べながら太陽の下を歩いていった。数日分たのしめるようにと、ずいぶんたくさんのお菓子を持ってきていたのだが、駅に着くころにはほとんど食べてしまった(笑)。駅前のバスターミナルまでたどり着いたころ、やっと現実に戻ったような安堵感があった。ずいぶん遠くまで来たような、そうでもないような、距離感が狂ったような、不思議な感覚だった。

(つづきを纏めるのに時間がかかりそうです・すみません)

文章について

2006-04-06 16:21:23 | Notebook
     
わたしの文章のスタイルは、いわゆるスピーチの感覚にちかい。噛んでふくめるみたいな繰り返しがあって、ひらがなが多く、読点が多いのもそのせいである。おなじ音を意識的に繰り返すやり方も、ボキャブラリーを増やすのではなく絞り込むやり方も、文章作法というより話し方教室の考え方にちかい。

よくよく考えてみると、文章作法という言葉はいやらしい。文章は人間そのものであって、けっして人間と切り離されるものではないからだ。文章だけを切り離して修業するというのは、あまりまともなことではないという気がする。

それに、文章はあまり上手くないほうがいい。ほんとうの上手というものは、下手なふりをするものだ。わたしのように、もともと下手なやつは、下手まるだしで自由に書けばいい。不幸にも、うっかり名人になってしまったものは、わたしのように下手な文章を書くようにこころがけるといいだろう(笑)。いまごろになってやっとボブ・ディランが、できるだけ下手に演奏するように心がけていたと打ち明けたが、ほんとうの名人とはそういうものである。ある女性がむかし、ディランの細かく区切る歌い方を聴いて、ああこれは太宰治とおなじことをしていると言った。読点の多い文章で太宰がやっていたことと、たしかに近いところにあるし、その目的も近い。すごいことに気づく女性がいたものだと敬服したが、じつはわたしも気づいていた。ただし、わたしはながい時間をかけてやっと気づいたのだが、たった一度聴いただけであっさり見破った彼女に敬服したのだ。

わたしのような下手くそでさえ、たしかに文章を書いていると、そのなかに発見が生まれ、文字のなかだけの美というものが生まれてくることがある。音や色のコラボレーション。意味と意味が有機的にかかわりあい変化していく様子。字面の美など。そういうものが見えてきて、その世界で独自に遊ぶことができるようになってくると、文字を書くという業が、自由自在なひろがりをもってくる。しかしこれは、それだけを目指して勉強するべきものではないし、他人に分かってもらうようなたぐいのものでもない。しかし、かならず伝わる。

なにごとによらず、自分が自由であることがたいせつで、ひとに評価してもらうために書くものでもない。「てにをは」が崩れたところに美が生まれる場合もある。意味不明なまま放置すべき文章もある。間違った文章が、可能性へと大きくひらいていて、そのまま放置したほうがいいと本能にいわれることもある。しかし、そんなめんどうなことを分かってもらおうとは思わない。

永井荷風という作家の、なんとか綺譚という作品のなかに、主人公がある婦人とであい、その婦人の胸のカタチをみて、彼女が子どもを産んだことのある女性であるかどうかを判断する場面がある。わたしはその場面を読んだきり、すっかり永井荷風という男の小ささが嫌になってしまって、そこから先へ読み進むことができなかった。
見栄。虚栄。醜悪なポーズ。胸のカタチでそんなことを判断するのは不可能にきまっているのだが、荷風は分かるらしい。もちろん嘘にきまっている。女に対して自信がないが、心秘かにもてたいと切実に願う先生ぐらいしか思いつかないような嘘である。しかしそこには、小さい箱庭のような美意識があることは事実だ。ちまちました東京人に相応しいと言えないこともない。しかもそれは細心の注意をはらって、時間をかけてつくられたものではあって、それを他人が珍重し「粋」と呼ぶひとがいるのはかまわない。

先生は常人が分からないこと、とくに女のことがお分かりになるんだと思いこむのは勝手である。いちばん虚しい思いをしていたのは荷風自身だったろう。作家ではなく易者にでもなったほうがよかったのかもしれない。文学や芸術を信じているひとだったら、こんなものは書かない。いまのニホンの若者はさいわいなことに、こんなものには騙されないだろう。高知の若い歌手、矢野絢子の佳品「吉野桜」「かなしみと呼ばれるやさしさよ」、それから彼女になにかを吹き込んだ名人、池マサトの「坊や」「サンタの家」の信念と志しを見せてやりたいくらいである。荷風は、彼女たちのように100年先を見据えて作品を書くべきだったのではないか。

ひとは、こんなもののために文章を磨くのだろうか? そうではあるまい。荷風みたいに口ばっかり達者で、自分のイメージを創りあげる作業に汲々としている作家は、意外なことに大勢いる。剣の達人のふりをして、美術の目利きのふりをして一生を終えた立原正秋のように、気の毒な、なみだが出るほど淋しい作家は案外たくさんいる。この社会が作家という人種を珍重しすぎたのがいけないのかもしれない。

受け手を信じる

2006-04-04 03:18:52 | Notebook
       
いまはあまり見なくなったが、たとえば辞書・辞典類のカバーや、それを入れる函のデザインに、石の写真が印刷されることがある。透明感のある大理石や、瑪瑙などの鉱物を平たく切った断面を、きれいに磨いて、平面的に撮影したような写真。これをタイトルにあしらったり、背景全体に入れて雰囲気を出すことがある。これは昔からみんながやっている、ありふれたデザイン手法なので、誰でも1冊か2冊、思い浮かぶものがあるだろう。

もう何年も前のことだが、あるベテランの編集者が、「なぜ大理石などの石の写真なのだろう」と言ったことがあり、驚いた。そんなことくらい、本をつくっているひとたちはみんな分かっていると思っていたからだ。

辞書・辞典などに書かれている内容は、おおげさな言い方をすると人類の歴史とともに歩んできた知識や文化そのものである。そうしたものの集積が辞書・辞典のなかには詰まっているのであって、それを端的に表現するには、おなじくらいに歴史を経てきた素材を使うのがいちばんいい。だから石なのである。とくに大理石が好まれるのは、その透明感や色合いが知性を感じさせるからだ。おなじ理由から、歴史書や、思想書などにも石の素材があしらわれる。

これを石ではなく、たとえば綺麗なガラスなどを使うと、とたんにデザインの焦点がぼやけてしまって、うまくいかなくなる。また鉄では意味が限定されてくるし、化石でもいけない。和紙でもいけない。石なのである。ただし、辞典・辞書に和紙や化石やガラスなどの写真を使ったデザインが、ないわけではない。うまくいっているものもあれば、失敗しているものもある。三省堂の大辞林の函は和紙をつかっていたが、いちばん最初の1冊は、とてもうまいデザインだった。これは石をつかった場合よりも、文字そのものに焦点があてられたようなデザインだったから古い和紙がしっくりいっていた。和紙をつかう理由がしっかりしているから、うまくいっているのだと言うことができる。
また逆に、思想書のカバーにアンモナイトを使っている本を見たことがあるが、あまりうまくいっているとは思えなかった。アンモナイトはロマンチックすぎて、むしろ幻想文学のような雰囲気が出てしまう。
こうして言葉にするとばかばかしくなってしまうくらい、だいたいみんな気づいているようなことである。あらためて言われると、なるほどそうか、と思うひともいるのかもしれない。

以上のような説明を手短に話したところ、その編集者は感心して、なるほど、と言ったあと、こう付け加えた。
「でも、そんなこと、読者は誰も分からないよね」
わたしはちょっと心外な感じがして、こう言った。「意識にのぼらないだけで、みんな分かっていると思いますよ」。
以来、その心外な感じを見つめ続けてきて、いろいろなことに気づかされた。

クリエイターはどういうわけか、ベテランになるほど、受け手を信じなくなることがある。
控えめな表現では誰も分かってくれないのではないか、と思うようになるのだ。そうして、ばかでも分かるような脚本を書いたり、ずいぶんお節介なデザインをしたり、分かりやすすぎるような歌をつくったりする。そうすることがベテランの仕事であり、メジャーであり、売れる仕事だと思っているひとたちもいる。
ベテランになるほど、どんどん説明過多になっていく。そうして、なにか大切なものを見失うのだ。
「それじゃ誰も分からないよ」
「それじゃちょっとインパクトがないよ」
そんなことばかり言っている。しかしよく振り返ってみると、そうした信念は、ほとんど勘違いなのだということに気づかされる。受け手を信じていない、なめきったような考えなのだということに、気づかされる。

たとえばビートルズの楽曲は、とても分かりやすい。しかし、彼らが音作りの現場でやったことは、とても手が込んでいて、分かりづらいことを無数にやっている。そうした行為が、彼らの音をメジャーなものにしているのだということを、よく考えたほうがいいのではないか。
ビートルズをばかにするひとは、その楽曲の親しみやすさ、分かりやすさから、すべてを分かったような気になっているだけだ。その仕掛けの部分はとても分かりづらい。ビートルズはとても、難解なのである。

「マジカル・ミステリー・ツアー」という歌があって、そのなかにバスの音が入っている。その冴えわたる演出に敬服すべきところだ。しかし、なぜバスなのか? これを説明しようとするとかなりの言葉を必要とする。とても深遠で難しいのである。それから、せっかくジョンの声にゴージャスなエコーを効かせて広がりをもたせているのに、なぜその声を絞って、ドラムスの音を前に出すのか。外部のプレイヤーをたくさん雇っておいて、なぜその音を絞ってリンゴのドラムスを前に出すのか。そうでなければいけなかったのだが、いまのプロデューサーだったらクレームをつけそうなところだろう。
先の編集者や、いまのクリエイターなら、こう言うかもしれない。「えーっ、バスの音ですか? 貧弱だなあ。せっかくミステリーの旅なんだから、せめて飛行機の音にしましょうよ」。バスでなくてはいけなかったのだということが、この音を聴けばよく分かる。このように難解な創意が無数に積み上げられて、はじめてビートルズの「分かりやすさ」が成立しているのである。

いまのクリエイターは、まったく逆のことをしている。分かりやすい手法をとらないと、分かってもらえない、ビートルズの域には届かない、売れないと思いこんでいるのだ。

受け手を信じること、思いは伝わると信じること。いまさらそう言われても難しいだろうが、それはたぶん、表現の原点なのだという気がしている。