レナルド・アンド・クララ

2006-02-28 04:15:05 | Notebook
    
ボブ・ディランがつくった素晴らしい映画『レナルド・アンド・クララ』(1978)には、とても詩的で美しい表現があふれている。わたしはとくに、白い服の女性がいつのまにか入れ替わっている場面と、女性を馬と交換する場面が大好きで、よく思い出すことがある。それから、映画全体が意識の海へダイビングしていくとき、案内人が喋りながらピンボールゲームをえんえんプレイする場面などは才人でないと思いつかないだろう。意識のゆらぎと、ピンボールの平衡感覚のゆらぎを重ね合わせるという秀逸なアイデア。びっくりするような表現が次々と出てくるところはディランならではのもので、これは彼の歌の世界と共通のものだ。そして、こうしたディラン独特の感覚は、意外なほど古典的で民族的なところがある。これは彼の書く歌詞もそうで、彼の歌に馴染んだひとなら、この映画のかんじんの部分を味わえるだろう。これは観る目のあるひとにしか気づかない。しかし子どもにも分かるような普遍性がある。
ただし作品としては混乱しているので、たぶんディラン自身もこれが何についての映画だったのか分からなくなっているのではないか。彼の歌にもそういうものがある。極端に無意識的なところが、彼の作品の長所であり短所でもある。

問題があるとすれば、彼の映画の作り方で、意識に浮かんだイメージをリアルタイムで即興の脚本にして、その場のひとに役を演じさせ映像作品にしていく、などというやりかたは常軌を逸している。正気であろうと努力しすぎる狂気、とでも言ったらいいだろうか。自らの無意識と意識の両方に向き合い、それを映像によって掘り下げ、明るみに出していこうというアイデアは素晴らしいものだが、それを実際に巨額の資金を投じてやってしまったというところが、いかにも彼らしい。

こうしたやりかたは、もちろん周りのひとたちの心を致命的に傷つけたであろう。彼の妻だった美しい女性は、この映画に参加したことを後悔したと言っているが、あたりまえである。まるで公開セラピーのように(!)なにもかも明るみに出されるのだから。じっさい彼女は、娼婦のようにあつかわれたり、嫉妬深い妻を演じさせられたり、情け深い母親のようにあつかわれたりしていた。

彼はもっと、自分のこころと周りのこころに対して敬意を払うべきだった。無意識を掘り下げていけばリアルな自分に会えると思うような子供じみた世界観、なんでも明るみに出せばいいというような未熟な世界観はしかし、あの時代に蔓延していたものだったということに気づく。フロイトを読み間違えたみたいな、ずさんな感覚を持ったひとたちが、このニホンという国にもたくさんいた時代があって、そのずうずうしい破壊的な感覚を持ったひとたちを、わたしたちはひとくくりに、たとえば「団塊の世代」などと表現することがある。これはたんにイメージだから、実際の団塊の世代とはとりあえず関係はない。しかしディランも、そういう時代の精神とは無関係ではなかったということなのかもしれない。

※写真は『レナルド・アンド・クララ』より。左からジョーン・バエズ、サラ・ディラン、ボブ・ディラン。この映画はずっと未来になってから、その革新性が見なおされ評価される日が来るだろう

脳はケースの中に?

2006-02-18 23:29:48 | Notebook
     
目が覚めて、胸騒ぎがあった。瞼を閉じると、知り合いの女性の姿が浮かんできた。彼女が子どもを傷つけているというイメージだった。
さらに脳裏に浮かんだのは易経の「風地観」と「坤為地」だった。

風地観は文字どおり見ることを示している。何を見るのか。この場合は自分のなかの他者を見ている。だから当然、その自己は分裂している。反目しあっているわけではないが二者の間には距離がある。向こうの自分とこちらの自分を行き来している。揺れ動き、不安定な精神状態。そんなイメージが浮かんできた。
いっぽう坤為地は極端に無意識的な暗示なので、問題が顕在化してはいないはずだ。だから事件は起きていない。しかし気づかれないところで、母と息子は潜在的に傷つけあっている。坤為地には「陰と陽が傷つけ合い血を流し合う」という暗示もある。
わたしは占い師ではないから、以上の解釈に自信があるわけでもない。

そこで易経をテーブルに置いて、何気なくテレビのスイッチを入れたら、信じられないような事件が起きていた。滋賀県のある母親が、幼稚園に通う自分の子どもの友人2人を刺し殺したという。加害者は大津市で逮捕された。
わたしはその加害者を知らないし、わたしが心配したのは別の女性のことだ。
つまり、まったく関係のない事件が、言わば、わたしのなかで繋がったような感覚を得た、というだけのことにすぎない。

ユングの信奉者はここで共時性、つまりシンクロニシティを考えるだろう。しかしわたしは共時性という考えを特別重視しない。
なぜなら、偶然の一致はつねに起きていて、それはわれわれ人間がみな、どれもこれも似たり寄ったりの存在だからだと思ったほうが、よっぽど現実的だからだ。みな似たようなことを感じ、似たようなことをしている。しかもお互いに、影響し合っている。だから同じようなことが同時に起きる可能性はいくらでもあるということだ。

わたしは、テレビで知った痛ましい事件と、自分の心のなかで起きていたことの間に、まるで繋がりがあるかのような「幻想」を抱いた。この幻想は、けっして現実ではない。しかし、わたしたちの現実は往々にして、この「幻想」のほうにあるのだということを、よく見つめてみる価値はあると思っている。神は賽子を振らないかもしれないが、神を認識する人間の実感のほうは賽子を振るのである。

神秘は人間の外側ではなく、実感の側にあると言ったのは石川淳だった。これはありふれた発言のようでいながら、じつはかなり過激な見解だ。とくに文学者の発言としては。なぜなら、ほとんどの文学者は、神秘というものを、人間の外側から来るものとして認識し、そういう作品を書いているからだ。仏教文学にとどまらず、ほとんどの文学が、たとえば運命というものをどう描いているかを思い浮かべてみれば、石川淳の過激さが分かるだろう。

道を歩いている。たまたま交通事故に遭う。ただそれだけのことなのに、わたしたちはその事故に、なにか特別の意味を感じることがある。この意味の感覚は「幻想」だ。ある程度の確率でつねに交通事故は起きていて、たまたまそれに遭遇しただけのことなのに、ことさら自分が不幸に見舞われたかのような錯覚を覚える。なぜ他人ではなくて、このわたしが交通事故に「遭わなくてはいけなかったのか」などと、よけいなことを考える。しかしこの実感のほうに、わたしたち人間のリアリティがあるということだ。わたしたちはきっと、とても狭い世界に生きているに違いない。しかも、その時代にしか通じない、その場だけの人間の感覚の、ごく狭い共感の中だけに生きているに違いない。かなりローカルな世界に。狂人をのぞいては。

鬼束ちひろという若い歌手の「Castle」という歌のなかで彼女は問いかける。「それでも、あなたの脳はケースのなかに?」。いい質問だ。彼女がこの歌でやろうとしたことは、たぶんべつのことなのだろう。しかしこの言葉は彼女の歌に変わらない輝きを添えている。


次の日、つまり今日になって、またわたしは、その女性のことが気になった。そして得た暗示は「水山蹇」と「山火賁」だった。水山蹇は足を悪くして引きずっているという意味だ。その女性はもともと足が悪いので、わたしは易占いが当たったというより、なまなましい嫌な気分になった。もちろんこれは精神状態が傷ついて足を引きずるようにダメージを受けているという意味だ。
そして、山火賁は飾るという意味で、この場合はペルソナを意味する。彼女の社会適応になにか問題があるらしい。おそらくそのあたりに問題の核心があるのだろう。

昨日の事件と似たような、痛ましい事件が今日もあった。娘を殺した父親が、箱根の山奥で自殺したという事件だった。
わたしはうんざりしてテレビのスイッチを切り、もうこのことは考えないようにしようと思った。どのみちその女性とは、もうなんの関係もないのだ。どこにいるのかも分からない。

今日は日が射して明るい日だった。気温は低く底冷えがしたが。
ぽっかりと空いたような青空の下に、人間の小さな箱庭のような空がある。そんなイメージがぼんやりと浮かんでいた。

※写真は、川原田徹さんのエッチング作品より

夢を読む

2006-02-15 08:30:58 | Notebook
    
夢を読む生活を長年続けていると、奇妙な世界に生きることになる。いくつもの次元が折り重なったような世界。意識の森。

目が覚める。どんよりと意識がくもっている。水銀のように重い空気のなかで窒息しそうな気分になる。しかしその鬱状態のなかに、とてもたいせつなことが起きていることを同時に悟る。今朝は鬱状態にならなくてはいけなかったのだと知る。

仕事をうしなう。途方に暮れる。しかし同時に、とてもたいせつな運命が目の前で起こりつつあることに気づく。あのとき仕事を手放さなかったら、いまわたしはこのような文章を書いてはいなかっただろう。目の前の光が、こんなにはっきりと見えることはなかっただろう。

他人の発した何気ない言葉のなかに、そのひとのなかで起こりつつある、まったく別のことが、目の前にはっきりと見えてくることがある。それはたいてい重要なことだ。しかし本人は気づいていない。ひとはいつも、いくつもの意味を同時にふくんだ言葉を発しているものだ。しかしほとんどなにも、重要なことはなにも見ていないものだ、わたしを含めて。

いま、わたしの人生のなかで、とても善いことが起きている。いくつかの善いことが起こりつつある。しかしわたしは困惑している。なぜなら、それはいままでのわたしの死を意味するからだ。わたしの現実は、ぜんまいが切れたみたいに、止まっている。

わたしの現実が止まったままの状態を迎えたのは、ながい歴史と経緯がある。父の無意識から受け継いだものと、その病い。母の無意識から受け継いだものと、その病い。それらの病いは、彼らが若い時期に戦争で喪ったものから始まっている。その背景には、さらにその上の、祖父や祖母たちの生のいとなみが存在している。しかし誰も、誰一人として、そのことに気づいていない。

数百年にわたる運命の連鎖。そこからわたしの人生は始まっていて、わたしのなかでは、それがいま終わりつつある。いや、いままでのありようが終わりつつあるのだと言ったほうがいい。

いまのわたしは死を迎えようとしている。わたしにはそれがよく分かる。このプロセスは、もう十年以上前から始まっていたことだ。それが始まったころ、当時の恋人はこう言った。
「ねえ、シンちゃん、死なないでね。いまふっと、なんか、そんな気がしたの」
いまのわたしは、その言葉の意味がよく分かる。

わたしは街に出る。

それぞれが、さまざまな姿に身を曲げながら、大勢のひとが歩いている。
病んだひと。片足を引きずるひと。幼いひと。生き生きとして輝いているひと。
さまざまなひとの群れが、それぞれの病いと間違いや、致命的な欠陥をかかえながら通り過ぎていく。そこにはある種の、神聖さがある。

あと数日したら、わたしはある神社を訪れる。そこで、ある難病にかかった知人のために祈ることになっている。しかしそれを背負うわけではない。なにかをねじ曲げようというのでもない。
わたしには、その病いの別の姿が見える。しかしそれを本人には言わない。それがどんなに善い忠告であったとしても、本人の存在を揺さぶるような批評や意見は、かならず呪われるものだ。

問題点をあげて忠告すれば本人のためになる、などという考えは、子どもの発想だ。かぎられた共同体や仕事のルール上では通用するだろうが、現実はそうではない。われわれがすべきことは、敬意を払うことなのだ。そこから何かが生まれる。

わたしは彼らを、左目から夢の流儀で、右目から現実の流儀で、同時に見る。
そして、そこに古くから続く、大きな流れを見る。
敬意を払うことについて、わたしはかんがえる。それが死よりも優先されることがある。これはわたしの信念ではなくて、目の前で起きている現実なのだ。

もしも神が存在するとしたら、彼はそれに敬意を払っている。べつの言葉で言えば祝福している。それがたとえ本人の息の根を止めるような過ちであったとしても。愚かさや病いであったとしても。たとえその先に死があったとしても。
わたしの目にはそう見える。わたしはそれを、夢を通して知ったのだ。その輝くような神聖さは、目の前にある。大きな群れをなして、そこをあたりまえに歩いている。神聖な光をはなちながら。

骨と肉

2006-02-12 00:54:56 | Notebook
     
ある日本人ジャーナリストが海外危険区域での取材中に命を落とした。もう10年以上も前の話だ。きちんとした必然性と理念と分別のある仕事ぶりだったので、尊敬に足る死だった。見当違いの情熱もなければ運命への甘えもない、もちろん空疎な自己愛でもない。生をまっとうするための立派な行動だった。
現地で遺体確認をした彼の妻は、まだ若い30代くらいの女性だった。彼女の目は、静かに流れるおおきな川のようだった。テレビの取材を受けて言っていた言葉が印象的だった。

最愛の夫の死体を見るのは辛くありませんか、かなりひどい状態ですよ、と訊かれて、なぜそんなことを言うのかしら、と思ったんです。
だって、わたしは奥さんなんですよ。確認しなきゃ、気がすまないじゃないですか。
夫の肉を見て、骨を見て、ああ、死んだんだな、って、そこまで確認しなきゃ、奥さんをやってきた意味がないじゃないですか。

モノローグ:泪について(昔のノートより)

2006-02-11 13:47:53 | Notebook
   
男のひとの泪は、きれい。かなしみが、きれいなのとおなじだから。

「ねえ、女は、涙をとおして生きることがあるの。涙が船みたいになって、あたしを乗せて、どこかへ連れて行ってくれることがあるの」
「わからないな。涙って、かなしいときに出るものだろう?」
「雨に濡れるみたいに、涙が、泣いているそのひとを包み込むことがあるの。そしてそれが触覚みたいになって、なにもかも嗅ぎつけるときがあるの。そうして、涙はちからを持つのよ。女の涙は、なにか違うちからを持っているの。これはとっても重要なことだとおもう。男のひとは、それが見えていないのよ」
「ふーん」
「あたし、おもうんだ。男のひとの涙のほうがずっと、きれいかもしれない」
「そうかなあ。泣いている男なんて、なさけないとしか、おもえないけどな」
「男のひとが、女の涙に弱いのは、男のひとにとって涙は純粋だからよ。だから、女の涙が実際よりずっと、きれいに見えてしまうんだわ」
「でも、女のひとの涙は、すごい力をもっているんだろう?」
「ええ、そういうときがある。女は、涙をとおして見ることがある。涙をとおして考えることもある。涙をとおして生きることもある。でもそのかわり、涙の美しさを、だいなしにしてしまうことも多いのよ」


男の泪は、きれい。
からっぽで、
なまあたたかい午後に、咲こうとしている昼顔みたい。
しわしわに、しぼんだ朝顔みたい。

女の泪は、
独りでに歩き出す。
ゼンマイ仕掛けのおもちゃみたいに。
下心?
いえいえ、そうとばかりはかぎりません。

へたくそな俳優の、
まちがえた台詞みたい。
咲こうとしている花を、
食べようとする野良猫みたい。

女の泪が、きれいになるとき、
女のこころは、どこへ消えていくのかな。
はじめから、なかったみたいに。

ヒメジョオン

2006-02-01 01:01:45 | Notebook
      
きびしい残暑の季節に熱気で頬を火照らせて、その人はやってきた。街の向こう側から。白いほっそりとしたワンピースを着て、浅いグレーの楽器ケースをぶら下げている。それは何? 三線です。そう言って微笑んだ。彼女はいつも、べつの場所の雰囲気を運んでくる。それはニホンだけどニホンじゃない、遠いようで近い、近いようで遠い。たぶんそこの角を曲がったばかりの数軒先か。すぐそばにあるのに手の届かない、本のなかにあるような、べつの場所。

彼女の瞳の光には日なたと草木の匂いがした。それから、湧き水の匂い。まっすぐに生をいとなんできた、しずかな祖先たちが与えたもの。それが彼女のなかで輪郭をとりはじめているような、そんな印象があった。その光が、しっかりと根をはってくれるといいのだが。
むかしのわたしだったら、その光に気づかなかっただろう。もし気づいたとしても、その価値になど思いもよらなかったに違いない。

わたしたちは駅前の喫茶店で仕事の打ち合わせをして、それから街の南側の店でビールをご馳走した。店は繁盛していて、店主は忙しそうだった。そしてレモン色のヒューガルデン白生ビールの、花のような薫り。
彼女の白いワンピースに、ヒメジョオンの花が似合いそうだと思った。


瞳のなかに明るい光を宿しているひと。そんなひとに会うと嬉しくなる。その光がまっすぐ素直で、あたたかく、おだやかであれば、たぶんそのひとは間違いがない。たとえどんなに未熟でも。報酬の廉い仕事でも文句ひとつ言わずに楽しそうに打ち込んでいたら、なお間違いがない。
しかしそういうひとはめったにいない。劣等感の曇りと稚拙な虚栄心。寂しさと不安。幻想と観念。肉の重みと鬱陶しさ。狭い了見と狡賢さ。さまざまなものが光を奪う。もちろん親の精神のありようや、生まれ育ちの影響もおおきい。
働くことが大好きで、新聞配達の仕事を楽しみに、公団住宅で質素な暮らしをしていた陽気なお母さんに、たいせつに育てられたある青年が、やはりおなじ目をしていた。新聞配達を明るく楽しみながら死ぬまで続けるようなひとなら、なるほどたしかに間違いがない。これだけ立派な青年を花開かせ遺すことができたのも自然なことだと、納得がいく。どんな犠牲を払ってでも嫁にもらうべき価値のある女性は、身ひとつ投げ出してでも嫁いで行くべき価値のある男性は、育ちのよい裕福な家庭や立派な会社などではなく、じつはこういうところにいるものだ。


もし彼女に花を贈るとしたら、むかしのわたしは何を贈っただろうか。ヒメジョオンなど思いもつかなかったろう。まるで判で押したみたいに、この関係には不似合いで場違いなバラの花を贈ったかもしれない。わたしはそんなふうな、くだらない青年だったのだ。わすれていた。

駅前で別れるときに、その雰囲気をだいじにしてくださいね、というようなことを言った。よけいなことを言ったと思う。わたしはいつもよけいなことを言う。

たぶん、子どものころのわたしには、まだあの光が宿っていたと思う。守っていればよかった。
それ以外に、本当にすべきことなどなかったのに。あの光さえあれば、どんな不幸でも不運でも乗り越えられただろう。かならず、うまくいったことだろう。わたしは、よけいなことばかりして生きてきたような気がした。